細野村の天満神社を見に行った時に、その途中で大きな石仏「湯殿山」を見つけました。荒町の中央部分から東へ曲がると細野地区へ行くことができます。朧気川に架かっている橋の手前の左側に大小の石仏が立っています。
左側の大きな湯殿山は土台を含めると2.5m近くもあります。中央の中ぐらいの石仏には、「大治明神」と刻んでありました。裏には江戸時代に天領だった時の三人の奉行の名前があります。最も右側の石仏は「象頭山」です。
この湯殿山に刻まれている年号は、「文化九年壬申五☐」です。西暦1812年です。ここで、畑沢の湯殿山を思い出しました。畑沢の湯殿山は、この前の年、文化八年のものです。畑沢の湯殿山というのは、上畑沢の地蔵堂の北側に立っているもので、高さが3mぐらいあります。伝説の大富豪、古瀬吉右衛門が願主になっています。
そこで、乏しい頭脳でこんなことを想像してみました。
文化八年に畑沢で巨大な湯殿山が建てられた話は、直ぐに隣の細野村でも大きな噂になりました。細野村と畑沢はとても密接に結びついています。細野村は、畑沢村の四倍もの規模があります。「畑沢でさえ、あれほどの湯殿山を建てたのだから、我が細野村でも大きな湯殿山を建てよう」。話は直ぐにまとまり、たちまち翌年には細野村の奥から石材を切り出して、建ててしまいました。石材に太く、深くしっかりと「湯殿山」と刻みました。ところが、畑沢の湯殿山の裏面には、「象頭山」も刻んであります。細野村の人達も、湯殿山が完成した後にそのことに気づきましたが、湯殿山の裏に「象頭山」と刻むことをためらいました。そこで、あらためて金毘羅参りをして勧請してもらい、別の石材に「象頭山」と刻みました。年号は「文化」の「文」だけが見えます。
と、粗末な物語を御披露しましたが、まあ案外とこんなものかもしれません。
古殿にも大きな湯殿山がありますので、もしも年号が分かれば、いろいろと想像するのも面白いと思います。尾花沢市総ての石仏は、尾花沢市教育委員会に勤務していた大類〇〇〇氏が調べ上げています。社会教育委員会にお願いすると、見せていただけますので皆さんも御覧になって下さい。
さて、「大治明神」は大飢饉のときに領民の救済に奔走してくれた奉行を讃えたものです。有名な奉行は、辻、大貫ですが、ごめんなさい。もう一人が出てきません。
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