以前も「大きな戦争で多くの人が亡くなりました」と投稿しました。そのころは雪があったので、しっかりと忠魂碑を拝んでいなかったのですが、今年の秋に再び延沢に建っている「忠魂碑」を見てきました。学校の敷地にありながらも、小学校や中学校に通っていた時は、ただ何となく見ていたので、「忠魂碑」以外の文字は全く読むこともありませんでした。しかし、歳を取った分だけ少しは物事に対する意識も深くなりました。碑の表側には、中央に「忠魂碑」、向かって左側に「陸軍大将 寺内正毅書」と刻まれています。確かに寺内正毅は陸軍大将を務めたことがありましたが、この碑が建てられたという昭和3年よりも9年も前に亡くなっていたはずです。保存されていた寺内の書を刻んだことになります。
裏の面には、中央に「昭和三年八月建立」、向かって右側には日露、日清、支那事変大東亜の別に戦没者の名前が浮き彫りされた鋳造された銘盤が埋め込まれています。
日露戦争で4人、日清戦争で5人、支那事変大東亜と書かれている太平洋戦争で実に154人もの常盤地区の人々が亡くなりました。私は「戦争の犠牲」と言いたいのですが、古い年代方々には馴染めない言葉かもしれません。この中には、畑沢出身者12人も含まれています。とんでもなく多くの人が亡くなりました。
碑の左側には、やはり鋳造された板に「戦没者慰霊顕彰銘板施工記念 発起団体名 尾花沢市 尾花沢市議会 尾花沢市連合区長会 尾花沢市心友会 尾花沢市遺族会連合会 尾花沢市傷痍軍人会 尾花沢市民生委員会 尾花沢市連合婦人会 昭和五十一年八月十五日」と書かれています。実に多くの団体です。当時、存在した総ての任意団体も名を連ねている感じです。
昭和五十一年は銘板を嵌めた時期を意味しているものでしょう。
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