滋賀県長浜市の『長浜城』です。現在の天守は昭和58年(1983)に犬山城や伏見城をモデルに復元された模擬天守です。
天正元年(1573)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が浅井長政攻め功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領し、当時今浜と呼ばれていた地を長浜と改名し築城しました。築城には小谷城に使用されていた資材や、竹生島に隠されていた材木を使って建築したそうです。琵琶湖湖岸に位置させることで、城内の水門から直接琵琶湖から出入りすることが出来る構造となっていました。城下町は小谷城下からそのまま移したそうです。
秀吉が最初に築いた城であり、秀吉の城下町経営の基礎となった所でもあるようです。秀吉が支配したのは10年程ではあったようですが、自分の中では長浜といえば秀吉ってイメージになっています。
長浜が城下町であったのは大坂の陣後の元和元年(1615)までで、城下町としての長浜は40年程ではありました。廃城になった際、資材の大半は彦根城築城に流用されたそうで、天秤櫓は長浜城から移されたものだと伝えられてるそうです。
天正元年(1573)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が浅井長政攻め功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領し、当時今浜と呼ばれていた地を長浜と改名し築城しました。築城には小谷城に使用されていた資材や、竹生島に隠されていた材木を使って建築したそうです。琵琶湖湖岸に位置させることで、城内の水門から直接琵琶湖から出入りすることが出来る構造となっていました。城下町は小谷城下からそのまま移したそうです。
秀吉が最初に築いた城であり、秀吉の城下町経営の基礎となった所でもあるようです。秀吉が支配したのは10年程ではあったようですが、自分の中では長浜といえば秀吉ってイメージになっています。
長浜が城下町であったのは大坂の陣後の元和元年(1615)までで、城下町としての長浜は40年程ではありました。廃城になった際、資材の大半は彦根城築城に流用されたそうで、天秤櫓は長浜城から移されたものだと伝えられてるそうです。
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