蝉の声が五月蝿くないと思っていたら、鈴虫や蟋蟀が鳴いている。2ヶ月前にはケラが鳴いていた。
ケラは虫けらのケラだが、手には立派なシャベルを持つ実力派である。
北九州にいた時にアスファルトの道路の上を掘れないケラが土を探して彷徨っていた。
本当に哀れと思った。
そんなケラが姿を現す事は殆どなく、ジージーと言う鳴き声で「俺は生きているんだぞ!ケラ様ここにありだ!」と言っているのだろう。
夏の始まりはケラの声が夜中に響く、いや早朝にも響いている。
我々は虫に囲まれている。
私の職場には赤とんぼが2ヶ月は飛んでいる。もう大分減った。
一方で、ギンヤンマも居るのだ。これは結構凄い。
昔はウチの近くにもオニヤンマも居た。全長20cm以上もある巨大なトンボで、これを獲るのも一苦労。何しろ、通常の虫取り網に入るか入らないか?と言うほどの大きさだ。
だからオニヤンマは獲ったら結構威張れるものだが、捕まえても、あの強力な顎で手を噛まれて逃がすという事もある。
昔は内の周りにはゴマダラカミキリが一杯居た。またシロスジカミキリも居た。シロスジカミキリは、捕まえると「ギーギー」と音を鳴らして威嚇する。幼虫は松の中身に棲むマツクイムシである。
私の職場では、ツクツクボーシが3ヶ月前から鳴いているが一時期クマゼミやアブラゼミに変わった後再びツクツクボーシの天下となっている。そう言えば、夏の暑い最中、ヒグラシが鳴いていた。この後多分再びヒグラシが鳴るのだろうな…。
毎度「金を貰うわけでもないのにご苦労な事だ」と思うが、それが金に毒された哀れな人間のカルマを披瀝している。
虫は鳴きたいから鳴くのだ。
猫もイヌもカラスも、そうそう赤ちゃんも。
何故鳴く?鳴きたいから。
何故鳴きたい?ただ鳴きたいから。
鳴く者に、何故鳴くか?と聞くほど無粋で野暮な事は無い。
だがキリスト教徒あたりは聞きそうだ。
「何々は何々でなければならない」とホザクのだろう。
虫は虫である。
虫だから、人の理屈は関係ない。
猫も猫である。猫には猫の都合がある。
それを「けしからん」とは馬鹿か無粋の最たるものだろう。
この虫は虫の、猫は猫の都合で動くものは、この歳になると妙に面白い。
それは赤ん坊が何かやるのを見ているのと同じだ。
何故この子は猫を尻で踏みつけるのだろう?一方で猫は何故踏みつけられると分かっていて、そこに居るのか?いや?忘れているのか?
何とも理解不能だ。理解する事が間違っている。それではキリスト教徒の無粋であろう。野暮であろう。
かぁ~らぁすぅ~何故鳴くの?カラスの勝手でしょう?
ううん、臍の曲がった歌だと思っていたが、結構真理だろう。
鳴きたいから鳴く、私が、神の恩寵と思うのは、大いに勝手な思い込みだ。
勝手に鳴く、虫の只の鳴き声。
それでも、私は、凄く素朴で、凄く心を打つ、凄い音楽と思う。
人間の古典楽器は総じて、デリカシーがない。それからすると虫の方がよっぽどデリカシーがある。
よく「万物の霊長」とホザク、人型ゴキブリが居る。馬鹿文科系大学出である。
その霊長とやらの音楽はなんだろうか?と聞こうかと思ったが、どうせ糞みたいな雑音が出てくるだろう。
聞くより、殺した方が良さそうだ。馬鹿文化英大学出は虫けらを遥かに下回る尊厳しかない。いや尊厳そのものが無い。偏屈カソリックと同じで。
死なんでいいトンボが骸を晒すのを見ながら、そう思う昨今である。名演奏家達よ、せめて快く旅立たれよ。本当に、本当に、良い音でした。一銭も払わず申し訳ない。かくなる上は死んで報いとしましょうか?
そう思う昨今。明日死んでも、私には悔いは無い。
虫達の名演奏への払いが出来なかった事以外に…。。。。。。。