例えばアノニマスがありますね?
彼らはある意味の天才で、天才というと最近東大の妙な奴等を集めた番組がありますが、アレは秀才ではあっても、天才ではありません。
だって「因数分解」とか「素数」とかホザイているんですよ。
ですが、本当の天才はそうじゃなくて、例えば、カーテンの柄を見て、色々な模様を見て、んん?と思って、模様を動かして形を変える。そしてハット閃いて微分方程式を書いたり行列式を書くんです。
まぁ探偵ガリレオに似ていますが、で関数書いて、関数のテイラー展開を書いて、そして、ちょっと計算するんです。
ホンで、ガッツポーズ取って、研究室に入ると、取り憑かれたみたいにコンピューターの前に座って、プログラムを延々と打って、そんで動かして一発で結果が出るんです。
例えば、行列式が出てきて、その中間の数値を見て、これは可笑しいとか、ああ、これは、この間違いがあると分かるんですね?
彼らは、天才ですが、閃く天才は、往々にして視覚や音の調べを聞いて、イメージを醸成するんです。
例えばケクレがベンゼン環を思いついたのは「何故か亀の夢を見て」なんです。
ニュートンが林檎が落ちるのを見て万有引力を発見したのも、何故宇宙の星は引っ張り合うんだろう?と思った時に林檎が落ちて、林檎と地球は引っ張り合っていると思ったからです。
これを見て分かるのも、文化系大学出に天才は殆ど居ない。
何故なら日本の糞馬鹿文化系大学出は天才が一番嫌いだからです。
天才は分かる事に、思考の世界を形成する事に一番の価値があるのです。
その後利用して国家の為になる何て、全く考えていません。
この論法は「国家の品格」の藤原雅彦教授がそうです。
彼は自分の専門の数学を「何の役にも立たない」と何度も断言します。(私はそう思わないけど)
「だけど、その何にもならないモノに価値を見出すというのが文化の高さだ」と力説するんです。
それは江戸時代庶民の「暇つぶし」の「和算」に血道を上げていた江戸時代の人間の方を藤原雅彦さんは評価するでしょう。
関孝和の和算などは、算木を使っていた、和算を算盤を使って計算できる手法にしたり、フィボナッチ数やパイの計算を延々として間違えなかったと言う、藤原雅彦的には無意味な偉業に専心しました。
これが天才です。
だけど、この関孝和は、紀州藩の算方で、帳簿を付けるのが本職で何の身の為にもならない数学には、本職の数百倍以上の情熱と知能を使っていたのです。
だけど、その感覚は虫獄では全く認められません。
金・権力・暴力・専有する自己満足。
これが虫獄です。
そして「無限の…」を欲するのは両方と共有できますが、虫獄は必ず「無様で無能な」システム、組織、そして、側近によって完全滅亡されます。
他方で天才は命ある限り「無限の先にあるもの」を探れるのです。
この金にも権力にもならないものを追い求める奴こそがハッカーの天才です。
それは日本の片田舎や東京の四畳半にコンピューターを置いて、PPC用紙や広告の裏白に数式を書いて、延々と、腹が減っていてもコンピューターを動かす。
そんな奴です。
それは虫獄には、最早存在できない生き物です。
虫獄は「下衆しか居ません。下衆は天才を殺して生きる野獣です」だから「虫獄に天才は居ない」
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