館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2014年春の沖縄は、しんどかった!いよいよやんばるの4日目。

2014-04-13 06:16:17 | 旅は続く


4日目はメインのやんばる!

タクシーのS氏のおかげで、微熱ながら、楽しく、無理しない旅が出来そうだ。

やんばるに行くには沖縄最北端の市・・名護を必ず通る。名護は大きな町だ。
活気がある町のようで、新しい建物も目立つ。

有名な「ひんぷんカジュマル」にS氏が案内してくれた。

1700年代に財政再建に功績のあった官僚のトップ蔡温の教えなどが書いてある碑がまるで樹齢250年余のカジュマルの前に立ち、ひんぷんという沖縄独特の壁のように見えることから「ひんぷんカジュマル」と呼ばれているのだった。



あまりの大きさに、鉄筋の添え木・・・



久々の反省の図。





いよいよ大宜味村からやんばる!

西海岸の村には「道の駅」が買い物できるスポットだ。

日本一長寿の村の宣言が素敵。海の眺めも最高。



大宜味村は蕎麦の栽培が行われ、この道の駅では10割蕎麦が食べられる・・・

よいコシであったら・・・残念ながら・・・味覚が壊れていて味を感じないのだった・・・実に残念だった。




国頭村に入って、道の駅・・・・野菜が、取れたてで新鮮・・そして安かった。



国立の施設(だから・・・無料)やんばる野生生物保護センターを見学。



やんばるくいなの剥製・・・やんばるについてのビデオ上映などしっかり見所はある。いい場所だった。



すだじいの林・・・やんばるの森である。



最北端の辺戸岬を目指しているが、途中、絶景のスポット「茅打ちバンタ」に立ち寄る・・・

100mを超える絶壁からの眺めはすごいねぇ・・・



辺戸岬。沖縄最北端の地だ。



沖縄県がアメリカの統治下にあった頃、本土復帰を願って、ここからのろしを上げた。その沖縄復帰闘争はやがて全土に広がり、犠牲を払いながらも、無視できなくなって、本土並み?復帰をなし、現在に至るのだった。




国定公園にあるこの地の「亜熱帯カルスト」の景勝地「金剛石林山」という私営のスポットがある。
経営は南部の「おきなわワールド」の経営らしい・・・

見事なカルストの中をいくつかのコースで歩く。

パワースポットで人気が出るかもしれない・・・



40分ほど歩く・・・皆、バリアフリーの簡単コースを歩く人たちで、僕のコースは僕1人であったぞな。



3度くぐると生まれ変われるらしい・・・岩場。とりあえず風邪の回復をお願いした。





マイマイがたくさん居てす・て・き!

シラユキヤマタカマイマイ・スジイリオキナワギセル・・・・最後の殻に毛の生えた「シュリケマイマイ」!

マイマイ探しをしたかったが、まだ工程半ばであった・・・・



前日に訪ねた為朝の子舜天の3代目は「義本王(1249-1259)」は考古学的・歴史的物証があり、実在とされている。
その義本王の墓も近いので、訪ねる。




発掘調査も終わり、甕。人骨などあり、義本王の墓と確認される。実在の沖縄の王としては最初ではなかろうか?
ここらあたりから、神話年代の沖縄から歴史年代の沖縄だ。




辺戸岬周辺を後にして、太平洋側のやんばるに道を進める。国頭村と東村だ。ゴルフの藍ちゃんのふるさとだ。
僕らは、ずっと58号線を走っていた。

沖縄西海岸は58号線って国道が貫いているのだけど、その沖縄の起点がやがて現れた。
驚いたことにこんな国道らしい・・!

以下ウィキ「国道58号(こくどう58ごう)は、鹿児島県鹿児島市から沖縄県那覇市へ至る一般国道である。途中、種子島、奄美大島を経て、沖縄本島に達する(一部区間、大宜味村の宮城島を通過)。大部分を占める海上区間を含めた総距離としては日本最長の国道である。」

写真「国道58号線沖縄起点の碑」



やんばる、国頭と東村付近の渓。



共同店っていう、村落のジェネラルストアをいくつか抜け、やんばるは終わった。

名護も過ぎて、僕の今回の計画の最後の見学地、金武町(きんちょう)にやってきた。

キャンプハンセンが広大な土地を占有し、実弾射撃訓練もしょっちゅう行われている。
基地の町である。

ちなみに米軍キャンプは、戦争で功績のあった位の低い兵士の名が冠されていることが多い。
ハンセンは沖縄戦で名誉の死をとげた、ハンセン2等兵の名だ。



役場のそばの小高い丘・・海を見下ろす場所に「當山久三」の像が建っている。

前回の謝花昇らと、沖縄の自由民権運動をお越し、謝花の発狂後、家族に援助などし続けたらしい・・
そして、沖縄県民の経済的窮状を救うには、「外国への移住」が力になると、ハワイ移民などに尽力した方である。沖縄移民の父と呼ばれている。

僕らのCDでも、田中正造と當山久三の東京での出会いや、久三の姿を歌っている。

1909年(明治42年)、沖縄県で初めて行われた県議会議員の選挙に国頭郡から立候補し、トップ当選を果たす。ところが、このころから病気がちになり、翌1910年、期待された政治手腕を発揮することなく死去した。享年43。惜しまれた方であった。

日本で一番南米やハワイへの移民の多かった島は、その移民そのものが、現代沖縄にもさまざまな影響を落としているのだった。

像には、彼の言葉「いざ行かん我らが家は五大州」と刻印されている。



6時にはホテルに帰った・・・・

そのまま、シャワー・・・ベッドでしばし休憩とうたたね。

10時過ぎて、なんとなく体調が回復・・・タンパラヤに行き、泡盛・・焼きそばなど食べて、また寝た。

こうして4日目が終わったのだった。

翌日はもう帰らねばならない・・・午後の飛行機なので、最後くらいは近場の散策をしたいものだと・・思いつつ寝た。



コメント (4)
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