3日目は琉球国が出来るまでのいにしえを訪ねる旅であった。
まずは、神話の世界から・・・・

国産み(くにうみ)とは、日本の国土創世譚を伝える神話である。イザナギとイザナミの二柱の神は天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくる。そして、『古事記』などではその後2神で島を産んだのである。
同じような神話は世界中に有って、沖縄にも言い伝えが今も生々しく残り、先祖への信仰が厚いこの島では、遺跡は大事にされている。
アマミチュー(女神)、シルミチュー(男神) の2神が国を作り、苗を植え、と遺跡・霊場があちこちにある。アマミチューはアマミキヨと呼ばれることが多いが訪ねた浜比嘉島ではアマミチューだ。彼女たちは高天原ならぬ「ニライカナイ」からやってきたのだ。


アマミチューのお墓など参拝。

去年から島のネーネがぜんざいやモズクを売っているのだが。美味しい。浜比嘉島の海はモズクの栽培が盛んなのだ。そして塩モズクは市場の半値で買える。今回も買ったぜ!



2神のお住まい跡なども訪ねた。あくまで、神話の世界だ。おそらく、本土の古事記や日本書紀の影響を受けて、12・3世紀に出来た物だろう(筆者私見)。

次にやってきたのは伊計島の仲原遺跡。
土地改良事業の事前の発掘調査で竪穴住居址が発見され、これにより不明であった沖縄県の縄文時代晩期(約2500~2000年前)のムラの広がりや住居の大きさ、造りなどが具体的に分かってきた。また遺物も土器の鉢、壺、石斧類、骨製の針、錐、他に当時の人が食べ残した獣・魚骨類、貝殻類が出土。昭和61年に国指定史跡である。まずほとんど観光客は来ないが、この時は2組5人来たぜ。

住居跡など復元されているが、家の中に炉がない。入り口も不規則に空いている。ちょいと不思議。

縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安・・・学校で習った日本の時代区分ってな、西洋の歴史に模したもので、地域のダイナミズムをむりやり型枠に押し込めるようなものだ。日本の各地、もっともっと、現在につながる特殊性や個性をもつものである。
沖縄の歴史は、実は平安末期の頃まで、いわばずっと縄文のような時代だったのだ。貝塚時代と呼ばれる。
それが、12世紀になって、突然農耕が始まり・城が築かれ・城(グスク)の時代と表現される怒涛の時代が現れるのだった。今も習うであろう歴史の教科書なんか役に立たないのだ。
さて、旧石器の沖縄人・・後の貝塚時代の人々との連続性やいかに?
突然文化形成するグスク時代の人々(島伝いに九州方面から渡ってきたのだろう)と先住の貝塚時代の人々との出会いとその後やいかに?
文字の残っていないこれらの考証は考古学の成果に頼る以外にないが、わからないことばかりの沖縄なのであった。
ロマンだ!



江戸は300年。琉球王朝は400年の歴史がある。尚王朝が統一する寸前の最後の武将たちのお城(グスク)を見学し、歴史に思いを馳せた。
まぁ、統一した尚王朝の居城が首里城。最後に征服された武将たちを豊臣や武田なんぞと置き換えて眺めるのもよろし。

中城城址・・築城の名手、武将、護佐丸のアーチ門が美しい。世界遺産である。


発掘途中で、このような石なども見つかっているらしい・・・写真のうっすらとオレンジの丸がわかる。

ペリーが江戸幕府に港を開くように脅しをかける前、何度も沖縄に来ている。江戸がダメなら、沖縄を占領するつもりだなどと、本国の上官宛に送った文書なども残っている。そのペリー・・・・中城城を見て、世界で一番美しい城だと語っているのだった。

さて、次はもう1人の武将、阿麻和利(あまわり)の居城、勝連城址にやってきた。世界遺産である。


どちらのグスクも防御にたけた、見事なお城なのだ。
2人の武将とも1458年に尚王朝に滅ぼされ、尚氏は琉球統一を果たすのであった。

貿易立国として、中国の王朝に庇護されながら発展するが、その後1600年初頭に薩摩に侵略され、苦難に満ちながら、明治の琉球処分まで統一した1つの国として、琉球らしさ・沖縄らしさのおおもとを作っていったのだった。
沖縄のアイデンティティー・・・・・・・・長きにわたる沖縄・琉球の歴史とその折々の人々の営みから紐解かないと、わからないことだと僕は思っている。
まずは、神話の世界から・・・・

国産み(くにうみ)とは、日本の国土創世譚を伝える神話である。イザナギとイザナミの二柱の神は天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくる。そして、『古事記』などではその後2神で島を産んだのである。
同じような神話は世界中に有って、沖縄にも言い伝えが今も生々しく残り、先祖への信仰が厚いこの島では、遺跡は大事にされている。
アマミチュー(女神)、シルミチュー(男神) の2神が国を作り、苗を植え、と遺跡・霊場があちこちにある。アマミチューはアマミキヨと呼ばれることが多いが訪ねた浜比嘉島ではアマミチューだ。彼女たちは高天原ならぬ「ニライカナイ」からやってきたのだ。


アマミチューのお墓など参拝。

去年から島のネーネがぜんざいやモズクを売っているのだが。美味しい。浜比嘉島の海はモズクの栽培が盛んなのだ。そして塩モズクは市場の半値で買える。今回も買ったぜ!



2神のお住まい跡なども訪ねた。あくまで、神話の世界だ。おそらく、本土の古事記や日本書紀の影響を受けて、12・3世紀に出来た物だろう(筆者私見)。

次にやってきたのは伊計島の仲原遺跡。
土地改良事業の事前の発掘調査で竪穴住居址が発見され、これにより不明であった沖縄県の縄文時代晩期(約2500~2000年前)のムラの広がりや住居の大きさ、造りなどが具体的に分かってきた。また遺物も土器の鉢、壺、石斧類、骨製の針、錐、他に当時の人が食べ残した獣・魚骨類、貝殻類が出土。昭和61年に国指定史跡である。まずほとんど観光客は来ないが、この時は2組5人来たぜ。

住居跡など復元されているが、家の中に炉がない。入り口も不規則に空いている。ちょいと不思議。

縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安・・・学校で習った日本の時代区分ってな、西洋の歴史に模したもので、地域のダイナミズムをむりやり型枠に押し込めるようなものだ。日本の各地、もっともっと、現在につながる特殊性や個性をもつものである。
沖縄の歴史は、実は平安末期の頃まで、いわばずっと縄文のような時代だったのだ。貝塚時代と呼ばれる。
それが、12世紀になって、突然農耕が始まり・城が築かれ・城(グスク)の時代と表現される怒涛の時代が現れるのだった。今も習うであろう歴史の教科書なんか役に立たないのだ。
さて、旧石器の沖縄人・・後の貝塚時代の人々との連続性やいかに?
突然文化形成するグスク時代の人々(島伝いに九州方面から渡ってきたのだろう)と先住の貝塚時代の人々との出会いとその後やいかに?
文字の残っていないこれらの考証は考古学の成果に頼る以外にないが、わからないことばかりの沖縄なのであった。
ロマンだ!



江戸は300年。琉球王朝は400年の歴史がある。尚王朝が統一する寸前の最後の武将たちのお城(グスク)を見学し、歴史に思いを馳せた。
まぁ、統一した尚王朝の居城が首里城。最後に征服された武将たちを豊臣や武田なんぞと置き換えて眺めるのもよろし。

中城城址・・築城の名手、武将、護佐丸のアーチ門が美しい。世界遺産である。


発掘途中で、このような石なども見つかっているらしい・・・写真のうっすらとオレンジの丸がわかる。

ペリーが江戸幕府に港を開くように脅しをかける前、何度も沖縄に来ている。江戸がダメなら、沖縄を占領するつもりだなどと、本国の上官宛に送った文書なども残っている。そのペリー・・・・中城城を見て、世界で一番美しい城だと語っているのだった。

さて、次はもう1人の武将、阿麻和利(あまわり)の居城、勝連城址にやってきた。世界遺産である。


どちらのグスクも防御にたけた、見事なお城なのだ。
2人の武将とも1458年に尚王朝に滅ぼされ、尚氏は琉球統一を果たすのであった。

貿易立国として、中国の王朝に庇護されながら発展するが、その後1600年初頭に薩摩に侵略され、苦難に満ちながら、明治の琉球処分まで統一した1つの国として、琉球らしさ・沖縄らしさのおおもとを作っていったのだった。
沖縄のアイデンティティー・・・・・・・・長きにわたる沖縄・琉球の歴史とその折々の人々の営みから紐解かないと、わからないことだと僕は思っている。