


沖縄で有名な名勝「金城石畳道」。戦火を逃れた、琉球王朝時代からの石畳は、歩くと別世界に誘われる。途中には、これまた戦火を逃れ、巨木となった「大アカギ」も威風堂々、パワーみなぎるお姿だ。
その石畳・・・王朝時代の軍用道路であった。那覇港は、幾多の貿易船の玄関口で、見張り台・倉庫・乗組員の一時停留所など、様々な施設があった。貿易立国琉球の重要拠点で、そこで何かがあれば、首里から軍隊が駆けつけるのだが、その軍用道路が「真玉道」なのであった。そこを金城石畳から、那覇港が見える辺りまで歩いてみるが、2つ目のメイン企画であった。那覇港まで行かないのは、戦争で破壊されたり・開発で埋め立てられたり・今は米軍の基地になっていて入れなかったりと、真玉道の痕跡が残っていないからだ。
4キロほどだと思うが、かなりのアップダウンで、平坦な場所は無いと見た。

石畳の中間点、「金城村屋」・・今は休憩所や集会所になっている。石畳は驚くほどの急な坂で、何人も案内しているが、大アカギを見て、この休憩所で引き返す。下まで下り、また登ってくることを想像すると、「ここで戻ろうよ・・」と、どこからともなく声が聞こえてくるからだ。あれは空耳だろうか・・・?


とにかく下った。下りの終点は安里川、車の通りが多い、県道にでた。



「重修金城橋碑文」・・洪水で流された橋の架け替えうんぬん・・のようだ。碑は戦争で破壊され戦後再建。破壊された残った台座と碑の残片が写真右に残されている。
ここは「カナグシクバシとシチナンダ」の案内。金城橋とその先は「識名坂」ですよ(現代語訳・俺)。



見事に長く・急峻で・途中休憩しなければ登れない名勝であった。数週間前TVで沖縄の坂を紹介した番組があったが、まさにこの金城石畳と識名坂がメインであった。
登った辺りは、前日歩いた繁多川だ。

繁多川4丁目には、こうした砲弾のカラで作った半鐘のようなものがぶら下がっているのだ。調べたが不明。今度地元で聞いてみるかな?

識名に入る。広大な・ただただ広く、墓が大きい「識名霊園」に入る。

そして、前日おじいが教えてくれた「光明寺」までの道。ランドマーク識名警察官詰め所。この斜め前が光明寺と識名の壕。


直進すると、第一尚氏最後の王、尚徳の墓跡。第一尚氏は家来に征服され、そこから第二尚氏の時代に入るので、敗者の墓は、みすぼらしいのだ。この碑では立派に見えるが、実際はここに墓があったかは、怪しいものである。


普通に読んだら「あしんみお・・」だが、「お嶽」はおたき・・うたき・・「御嶽」だ。
「あしんみ」+「御嶽」。「あしんみ」は安次嶺(あしみね・地名)の古い読み方だから、この御嶽は安次嶺御嶽ってこと。今も地元で拝まれている拝所(はいじょ)のようだ。

あしんみを過ぎると、ほとんど文化財は無く、面白くもない道が続く。


迷うような5差路・・・・地図など確かめ進む。ここまでの行程、ここ含め3か所迷いそうだった。一番急な坂が正解だった。

ランタナなど咲き誇る季節。沖縄で見るランタナはひと際きれいだ。つまらない道に、一服の涼であった。



終点まじか。国道507号線に出る。「軽便鉄道の痕跡・線路跡」発見!小さな川を当時も跨いだか?しっかりしたレンガの土台がある。
国道と平行に走っているようだ。ってことは、この国道507は当時も主要道だったに違いないな。
那覇から与那原に向かう「与那原線」の一目橋橋梁の跡らしいと、後日調べる。


やっと終点、真玉橋にやって来た。立派な山口の五橋のような造りの石の橋だったようだ。ここは、レンタカーやタクシーで良く通るのだが、近くで見てみると迫力があり、まだ江戸だった時代の琉球の土木力がすごいと思った。


終点に着いた安心か?少し疲れが出て、行動食。朝3000歩歩いたから、真玉道は1万歩ってこと。平坦の道ならなんてことない歩数と時間だが、ほとんどアップダウンの繰り返しは、侮れなかった。



川向う、豊見城にも遺構がのこっていると、さっきの橋の解説にあったことを知った。
早速橋を渡る。漫湖というラムサール湿地にかかる橋だ。マングローブが岸辺に茂っている。

豊見城側の方が保存状態は良いようだ。

沖縄戦で破壊され・・・と、あるが、なんてことはない、日本軍が撤収の折、米軍の進軍の時間稼ぎに、爆破したんじゃないか。
戦争は、憎しみや悲しみは産むがそれ以外何も生まない、破壊だけだ。