詩人PIKKIのひとこと日記&詩

すっかりブログを放任中だった。
詩と辛らつ日記を・・

日本改造論 (1)

2008年10月04日 | 政治
ー前門の虎(米国)と後門の狼(閨閥化した政官財)対策とは?ー

サブプライムローンや侵略戦争戦費や富裕層減税のために虫の息のアメリカは、どうやら郵貯・簡保の数百兆円を虎視眈々と狙っているようだ。

閨閥化した日本の政官財や富裕層が狙っているのは、ますます小さくなるパイでの分け前の増加(=一般国民の増税等の負担増)だ。この点に関しては、口先だけの与党とは違って、野党の方がはるかに実行力がある。閨閥化した日本の政官財は百害あって一利もない・・時代を逆行させるだけの存在へと堕っしてしまった感がある。

冒頭のアメリカ対策としてはー爆弾みたいに・・米国の圧力で抱えさせられてしまった米国債約70兆円をどうするかという問題と、米国国際金融資本のために、長いことこれまた米国の圧力でゼロ金利にさせられて(ぼろ儲けした銀行と正当な利子を奪われた国民だったが)、それが石油・穀物等の買占めに使われたてきたという問題がある。

僕の結論としてはーこのにっちもさっちもいかない爆弾みたいな約70兆円の米国債を、米国への手切れ金にして、アメリカと徐々に手を切ってゆく方向へ舵を取ることだ。

新たな国連軍の基金として国連に寄付してもいい。事務方の作戦・兵站・警察的活動や選挙監視・武力解除等については、日本が主導的役目を果すという条件で。
EUにでも寄付して厄介払いするのもいい。中国等のアジア諸国と共同して、これらの米国から押し付けられた米国債を集めて、アジアのために使うための智恵を集めるのもいいかもしれない。

なんといってもアジアでの国際機関は、っほとんどアジアのためには貢献していない「国連大学」しかないのだから・・

そして肝心な事は、21世紀のための手がかりは日本にしかないのではないのかと思う。文明的な側面の日本国憲法や、唯一の被爆国としての核や無差別大量破壊兵器廃絶も日本がやらずして、どの国がやるのかと言いたい。
その他にも、日本の食文化や自然と共生してきた長い歴史的な智恵や、様々な物作りや災害救助・対策の智恵や技術こそが、21世紀の世界を救済するものだと思う。

そのためには、日本人に寄生するばかりで日本人の誰ひとりをも幸せにしないどころか・・米国の侵略戦争や石油・穀物等の買占めで世界中を不幸にする日本発の人類共通の不幸の原因に立ち向かわなければならない時代なのではと思う。

史上最もうす汚れた売国奴的政治屋ー小泉純一郎&その師匠中曽根康弘

2008年10月04日 | 政治
彼を散々持ち上げてきた日本の翼賛的マスコミや、口先だけで小泉政治から方向転換をしようとしない与党や、彼を最も首相に相応しいとしてきた日本人の数割も同罪だと思う。中曽根康弘については、何度も日記で書いてきたので、その瓜二つの後継者小泉純一郎についてだけ、同感した記事の一部をアップしたい。

「森田実ホームページ」ーhttp://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/その記事とは、アメリカのポチ犬の小泉が引退してからマスコミから出演依頼がくるようになったという森田氏のホームページで見つけた。

『現代日本政治論 (渡邊良明)』ー  http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/
  「小泉元総理の突然の引退に思う―無責任な「敵前逃亡」」

『  ー前略ー

◆小泉氏の「敵前逃亡」
 ところで、9月25日(木)、ある大きな政治的驚きが日本全国を駆け巡った。小泉元総理(66)の突然の政界引退表明である。それは、“サプライズ好み”の彼らしい政治行動だった。
 小泉氏の後継として、次男の進次郎氏(27)が立つという。だが、北朝鮮じゃあるまいし、政治の世襲化など、もっての外である。しかし、その“もっての外”のことが横行している。そういった世襲議員の弊害で政治がいたずらに低迷し、政府の政策が国民生活からまったく遊離しているのが、現代日本の明白な政治状況である。
 この報に接して、私は正直、“小泉氏は逃げたな”と思った。有り体にいえば、無責任な「敵前逃亡だ」と思った。だが、この場合の「敵」とは、決して民主党のことではない。彼にとって民主党はもはや意識の外にあろう。 
 ここで私が言う「敵」とは、彼が今まで果たしてきた政治実績、換言すれば彼の“政治責任”のことである。具体的には、彼のアメリカ追従の外交や防衛、郵政民営化、規制緩和、「三位一体改革(=地方の切り捨て)」、緊縮財政、「後期高齢者医療制度」など、これからますます難問化する諸問題に対して、彼は何の有効な処方箋も示すことなく、政界を去るのである。私は、小泉氏は、そのようなさまざまな「敵」を前にして、解決を後継に託して、自らは“逃亡した”と思うのだ。
 下世話な話で恐縮だが、彼の電撃引退の報に接し、私は次のようなことを思い出した。
 皆さんは、このような経験はないだろうか? それは次のようなものだ。仲間と会食し、割り勘にしようと金勘定をする段になると、急にトイレに駆け込んで無銭飲食を決め込む者がいるものだ。芸能界にもそんな人がいるようだ。いや、どこの世界にもそういったズル賢い人の一人や二人はいよう。 
 私も、ハワイで生活していた頃、そういった主婦に出会った。彼女は英語学校の仲間の一人だったが、7~8人の仲間で中華料理を楽しんだあと、いざ割り勘で会計しようとすると、いつの間にか忽然と消えて、トイレに駆け込み、会計が済んだあと、しれっと姿を見せたのである。
 今回の小泉氏の引退表明を耳にし、私は、なぜか昔日の彼女の姿を思い出した。とにかく、“ズルイ!”という一言に尽きるのだ。

   ー中略ー

 ◆操り人形・小泉純一郎
 ところで私事だが、私は3年前、小泉氏について論じた拙著『ジョン・F・ケネディvs 二つの操り人形 小泉純一郎と中曽根康弘』(2006年8月刊)のなかでこう記した。
 《今後、小泉による、アメリカ屈従の「郵政民営化」が、社会的弱者の生活権を奪い、「格差」をますます助長する結果となろう。残るのは、社会的不安の高まりと絶望感の蔓延である。それを見た小泉が、冷ややかに言うであろう。「人生、いろいろ。死ぬのも自由。さあ、どうぞ、どうぞ」と。彼の胸中は、”わが死せる後に、大洪水よ来い!”なのではないだろうか。彼にとっては、すべてが「他人事」なのである。》(200頁)

 少し過激な文章表現だったかもしれない。だが正直、この思いは今も変わらない。それに今回の彼の電撃的引退も、上記の“徹底した無責任さ”と“すべてが他人事”の結果だと思う。
 人間、自ら独創的かつ自発的に動いているようでいて、その実、単に他者(ヒト)の言いなりになっているにすぎない場合が多い。小泉氏の場合、旧来の自民党総裁・日本国総理にしては型破りで、いかにも独創的(?)に見えた。しかしそれは、単に見せ掛けだけのことだ。
 実際、彼は家では姉・信子に盲目的に従い、選挙では元稲川会系暴力団員の竹内清の支援を受け、総理官邸では飯島秘書官の手引きで動き、政界では財務(=旧大蔵)官僚の言いなりになり、対外的にはブッシュ政権に盲従した。そのような政治家に一体、真の自主性や独創性はあるだろうか。私はないと思うのだ。
 かつて、アメリカのレーガン大統領は退任後、多くの国民から“偉大な大統領だった”と賞賛された。だが反面、アメリカ国内の心ある識者たちからは、“結局、大統領を演じた俳優に過ぎなかった”と批判された。実は小泉氏も“日本国首相を演じた一人の素人役者だった”のではないだろうか。
 役者だから、一般の人びとの目には実に面白く見える。実際、面白みや“けれんみ”、それに“華”がなければ役者は勤まらない。だが、“黒子”として彼を背後から操る「存在」なしには、彼自身、1秒たりとも存在できなかった。世に言う「小泉劇場」とは、小泉氏が自ら踊り、演じきった舞台ではあっても、決して彼自身が企画・運営した劇場ではなかったと思うのだ。

 ◆小泉氏の“ひたすら退散”
 「類は友を呼ぶ」という。小泉氏とブッシュとは本当によく似ている。両者とも今まで心底自分で考え抜いたり、悩み抜いたりしたことがないのではあるまいか。すべてが“他人任せ”なのである。若きブッシュが有能な取り巻きの助力で名門ハーバード大学を卒業できたのは有名な話だ。このブッシュという男、私には、生涯、自分だけの力で生きたことはないように思えるのだ。
 小泉氏も、慶大生時代にレイプ事件を引き起こし、姉・信子の指図で、その追っ手から逃れるためにロンドン大学に遊学した(決して正式の留学ではない)。そして、1969年に父・純也氏の死去に伴い、彼は初選挙に挑戦した。だが、その時は地元の特長会の支持を得られず落選した。同年は、小沢一郎氏、橋本龍太郎氏、渡部恒三氏らが華々しく政界にデビューした年だった。他方、小泉氏は、落選後、福田赳夫氏の書生となり、捲土重来を期した。その後、1972年、30歳のときに彼は衆議院議員に初当選した。そのとき、彼のために貢献したのが、先述した竹内清である。その後、両者の緊密な関係は小泉氏が総理になるまで続くことになる。 しかし、小泉氏は、自ら精緻な理論や思想を持っていなかったものの、人(とくに若い官僚たち)を利用するのは非常に巧みだったと思う。たとえば、彼が厚生大臣時代の岡光序治(よしはる)、郵政大臣時代の團宏明、そして総理大臣時代の高橋洋一(財務官僚)や守屋武昌(防衛官僚)などである。 
 小泉氏は、時には彼らを重用・活用し、あるいは踏み台にした上で、自らは司直の手から逃げ延びた。それは、厚生大臣時代の岡光との関係や総理大臣時代の守屋との関係について言えよう。彼には岡光や守屋以上の重い責任や見えざる“犯罪”があったと思うのだ。佐高信(まこと)氏は、かつて小泉氏を「クリーンなタカ派」と呼んだ。だが、彼が“クリーン”だなどとは、私には一種の冗談にしか聞こえない。
 ハワイで聞いた話だが、神奈川県内に住むある女性実業家が自分が事業で貯めたお金の一部を「日本赤十字社に寄付しようと思う」と若き小泉氏に語った。そのとき、それを聞いた彼はなんと、こう真顔で語ったという。「日赤に寄付するぐらいなら、その金をオレにくれ」と。14~15年前、彼女が呆れた顔で語った日のことを私は昨日のことのように思い出す。堅気の女性にそんなことを平気で言える小泉氏が“クリーン”であるわけなどないではないか。
 とにかく、叩けばさまざまなボロが出てくるのが小泉純一郎氏である。私には、その ボロが出てこないうちに“ひたすら退散”という構図が、今回の引退声明の背後に見え隠れするのだ。
 それも、麻生政権の船出第一日目というのも何ともあてつけがましく見える。また、次男の進次郎氏を後継にする布石をちゃんと打ったあとの引退だから、実に用意周到である。端的に言えば、彼も単なる俗物に過ぎない。加えて、アメリカの原子力空母ジョージ・ワシントンが横須賀に配備されたその日に引退声明をするというのも、彼の政治行動の背後につねにアメリカの影がちらつくのである。まさに原子力空母の横須賀入港を見届けた上での引退声明だった。
 中曽根康弘氏と同様、彼ほどアメリカ政府に忠実な総理も珍しかった。その分、小泉氏はわれわれ日本国民を多大に犠牲にしてきたと思うのだ。
 多くの国民は、その厳粛な事実に年を追うごとに気づかされることだろう。それを自ら直視することもなく、内心“わが死せる後に、大洪水よ来い!”と叫ぶ小泉氏は、今後、イタリアかどこかで再婚相手と安楽な余生を過ごすのかもしれない。 
 だが、これほど無責任な人物を“稀代の偉大な総理”として珍重した日本国民の無知と不見識、さらには彼と同等の“無責任さ”を、この際、深く認識すべきなのではあるかまいか。それができて初めて、私たちは一人前の真の“日本国民”と言えるのではないかと思うのだ。 』