詩人PIKKIのひとこと日記&詩

すっかりブログを放任中だった。
詩と辛らつ日記を・・

青に染まって

2008年10月16日 | 日記
青に染まって
生きてきたような気がする
血の色の赤や
太陽の紅ではなく

汗が滲んで
かすれたジーパンの青
子供の頃大好きだった
海にぽっかりと浮かんで
顔だけ出して
見上げていた空の蒼穹

ほんとうの青と
ずっと信じてた
きみと歩いた夕暮れの浜で
太平洋から
打ち寄せていた波また波
藍色のきみの頬に落ちてきた
真珠色の涙

青はいつだって
ぼくのこころの色だった
刻々と移ろいゆく青に染まりながら
きみがぼくに差しだしてくれた
一杯の水の青に感謝しながら

猫バスの夢をみた

2008年10月15日 | 政治
デラシネ(根無し草)の旗のもとで

何年振りの故郷の夢だろう
洞爺湖行きへのバスを待ってると
なんと!猫バスが
待っている数人を置いてきぼりにして
つづれ折りの坂道を
ぐんぐんと登ってゆく
ちらりとこっちを見ては
にっこりと微笑む憎たらしい猫バス

みんな血相を変えて
一生懸命にその猫バスを追いかけるけど
猫バスはぐんぐんとスピードをあげて
はるか湖畔を一周してゆく

峠から降りてゆくと
懐かしい我が家が見える
いまは亡い父の表札のかかった
いまにも倒壊しそうな平屋の家

冬には
人間の腕ほどもあるツララが
窓一面にぶら下がってた我が家
「忘れてたわけじゃないんだ」
「生きるだけで大変だったんだ」と
懐かしい山並みを見上げながら呟いて
立ち尽くすばかりの自分がいた

デラシネ(根無し草)の旗のもとで
明日もまた
生きることに懸命の毎日に違いない

人生の途上では
誰しもがデラシネ(根無し草)
デラシネ(根無し草)旗なびく日々を
たった一日しかない今日を
ただひたすら
懸命に生きるしかない

登山

2008年10月10日 | 日記
人生は
登山みたいに
引き返すことの連続

最近の山登りでは
その日の体調や
異常気象のせいや
荒廃した道がだんだん増えたり
おっちょこちょいのぼくは特に
間違った道へと迷い込むことが多い

人生でも 登山でも
引き返すには勇気がいる
引き返したあとには
いつも後悔が残る

けれども
最近のぼくは
遠回りもまた人生だと思う
その余分とも思える回り道で
自分だけの景色に出会うことも多い
そしていつも感謝の言葉を
「ありがとう、またひとつ貴重な体験を」

登山

2008年10月09日 | 日記
人生は
引き返すことの連続だ

登山もその連続で
その日の体調や
天候のせいもあるし
最近は荒れた道も多く
ぼくのようなおっちょこちょいは
間違った道へと迷い込むことも多い

引き返すには
とても勇気がいる
人生でも 
登山でも
引き返したあとには
臍を噛むような空しさが残る
死なないで済んだんだという安堵感と一緒に

最近のぼくは
いつも思うようにしている
「ありがとう、貴重な体験を」と
そして
決して引き返さずに済む道を
いつかは見つけてやるんだと
いつも心に誓う

波に揺れる小舟のように

2008年10月09日 | 日記
いつも衝動的で
脳天気なぼくだったので
気づいてみると
嵐の真っ只中ということも多かった

けれども
波に揺れる小舟のように
生きてしまったことに後悔はない

波に揺れる小舟には
波に揺れる小舟にしかない
楽しさや充実感があったから

どこかの岸辺に
たどり着けなくったっていい

すがしいすがしい朝の太陽や 
動転して動き回った嵐の夜や 
君と過ごした風の中での想い出は
ぼくだけのものだから

路上にて

2008年10月09日 | 日記
秋の路上で
立ち尽くしていると
思いがけない発見がある

点々と妖精の足跡みたいな
ヘビ苺の紅に見とれてると
ふっと草むらから
茶褐色になったよれよれのカマキリ

路上は
人生に似ているのかもしれない
路上生活者が
その国の人々の未来を
暗示しているように

道はまた
文化や文明にも似ている
誰もが便利さを感じて歩きだすと
それが世界中の人々が歩く
公道という文明になってゆく

そこからまた
枝分かれしてゆくこともある
新しい風土に根ざした
新しいアイデンティティに満ちた
文化もあるに違いない

いつしか
誰も通らなくなった
お地蔵さんだけが
ひっそりと佇んでいるだけの山道があり
利己的で悪名高い
トヨタのジャストインタイムで
車や車部品を積んだトラックで
夜中煌々とまばゆい高速道路もある

そして
ぼくの今日の小道は
ウロコ雲の下を
綿毛がふんわりふんわり
飛んでゆくばかりの野の小道
手をかざせば
馥郁たる秋風の中

「てんさぐ(てぃんさぐぬ)の花」(=鳳仙花)ー沖縄の歌手(大城ラン)の歌を聴いて

2008年10月08日 | 日記
夜勤帰りに
沖縄の女性歌手の歌を聴いて
生まれて初めて
わんわんと泣いてしまった

沖縄について
ぼくが知っているのは
「本土復帰」で
内地に就職してきた飲み友達を通じて知った沖縄で
どんな意味でも
日本という国を知るために避けて通れない場所沖縄

在沖縄米軍の犯罪は
性犯罪であり交通事故であれ
そのほとんどが
沖縄人の泣き寝入りになってしまうのだという
沖縄には
世界一美しい珊瑚の海や浜があって
それが内地の観光資本のために
破壊され放題でもあると

爪を染める花を歌った「てんさぐの花」(鳳仙花)
爪を染める花のように親の教えも心に染め付けなさい・・という内容の沖縄民謡のあとに
その歌は大城ランさんに歌われた
「アカシアの雨が止むとき」という
六十年安保直後にヒットしたという西田佐知子の歌だという
その歌を聴いていると
先日読んだばかりの本の一部を
ふっと思い出してしまった

沖縄で新聞記者になったばかりの著者が
じきに定年退職するという刑事に呼びだされて警察署へと行ってみると
その老刑事が警察署の裏庭で
山となった証拠写真等を燃やしていたのという
沖縄の性犯罪被害者たちの
目にするのも悲惨な被害写真や証拠書類を

「どうして燃やしてしまうんですか?」
と聴く著者に
大粒の涙をこぼしながらその老刑事が
「この無念さを、君にも覚えておいて欲しかったから」
というような事を呟くばかりだったという

 注:「てんさぐの花」
(てぃんさぐぬ花)
沖縄民謡 江戸時代(1603-1867)明治以前

「てんさぐ」とは鳳仙花のことでその花は「うりずん」と呼ばれ,沖縄で最も過しやすい4~5月に咲きます。この花びらを女の子は,石ころでつぶして木の葉にくるんで指先に巻いて一晩寝ると天然のマニュキュアができ,遊んでいたそうです。歌詞の内容は,鳳仙花の花は爪に染め,親の教えは心に深く染めなさい,という祖先崇拝の習慣の根強い沖縄社会をうたっています。8・8・8・6の30文字による伝統的な琉球形式などから旧王朝(1429-1609)があった那覇市首里あたりが発祥の地といわれています


薪ストーブ

2008年10月06日 | 日記
傘の下からは
懐かしいあの日みたいに
白い息がビルの谷間へと

身を屈めながら
びしょ濡れで
今朝まで歩いてきたんだ
きみのことだけを考えながら

きみはいつだって
あかあかと燃える
ぼくのストーブだったから
濡れそぼったぼくのこころも
やっとひと息

そろそろ
ふるさとでの子供時代
薪割りばっかりやらされてた
季節がやってくるよ

価値

2008年10月06日 | 日記
山のほんとうの高さは
春先の残雪の具合でわかる

雨の大きさや数は
水溜りに広がる波紋で

すべての命を育んできた
森のほんとうの価値は
どれだけ多くのいのちを育んできたかでわかる

その意味では
我々の血税で
国有林等を伐採しては
災害時の被害を増大させている林野庁行政などは
最悪の大量無差別兵器と同類だ
(ダイオキシンたっぷりの除草剤を日本各地の山林に放置して、70年代に日本の奇形児数を世界一にした罪も重いが・・)

人間の価値は
どん底にある時こそ
自他ともによくわかる

だからこそ
弱い者いじめをする奴や
「誰でもいいから殺したかった」という奴を
到底許すことはできない
彼らの同類が
社会的主導者になってしまったのが
現在の日本社会だからだ

社会貢献の意識の欠片もなく
本来なすべき義務の代わりに
社会から与えられた権威や権力を
弱者いじめや抹殺にしか使おうとしない
この国の政官財やマスコミや宗教界

すべての政治家や官庁や企業やマスコミや宗教を
その社会貢献の度合いや違法性度で判断し
あまりに違法行為のひどい組織や
社会貢献意識のない人材を排出する組織は
従来のように
我々の血税で後生大事に養うのではなく
順番になくしてゆくべきだと思う

その判断基準とは
「文明」的であらねばならない
ごく一部の利益や利便のためではなく
どんな人間もが利用可能で
利益を得られるというのが
文明的ということだから
法律や福祉の理想がそうであるように

それは
あらゆる分野での憲法遵守や
誰もが安心できる年金や公教育や医療・福祉
さらには
図書館や道路や災害救助・対策や安価な電気ガス・ガソリンや食の安全と安さ等だ

「生活コストの低減」と
現在から将来にかけての「安全・安心」と要約可能ではと思

日本改造論 (1)

2008年10月04日 | 政治
ー前門の虎(米国)と後門の狼(閨閥化した政官財)対策とは?ー

サブプライムローンや侵略戦争戦費や富裕層減税のために虫の息のアメリカは、どうやら郵貯・簡保の数百兆円を虎視眈々と狙っているようだ。

閨閥化した日本の政官財や富裕層が狙っているのは、ますます小さくなるパイでの分け前の増加(=一般国民の増税等の負担増)だ。この点に関しては、口先だけの与党とは違って、野党の方がはるかに実行力がある。閨閥化した日本の政官財は百害あって一利もない・・時代を逆行させるだけの存在へと堕っしてしまった感がある。

冒頭のアメリカ対策としてはー爆弾みたいに・・米国の圧力で抱えさせられてしまった米国債約70兆円をどうするかという問題と、米国国際金融資本のために、長いことこれまた米国の圧力でゼロ金利にさせられて(ぼろ儲けした銀行と正当な利子を奪われた国民だったが)、それが石油・穀物等の買占めに使われたてきたという問題がある。

僕の結論としてはーこのにっちもさっちもいかない爆弾みたいな約70兆円の米国債を、米国への手切れ金にして、アメリカと徐々に手を切ってゆく方向へ舵を取ることだ。

新たな国連軍の基金として国連に寄付してもいい。事務方の作戦・兵站・警察的活動や選挙監視・武力解除等については、日本が主導的役目を果すという条件で。
EUにでも寄付して厄介払いするのもいい。中国等のアジア諸国と共同して、これらの米国から押し付けられた米国債を集めて、アジアのために使うための智恵を集めるのもいいかもしれない。

なんといってもアジアでの国際機関は、っほとんどアジアのためには貢献していない「国連大学」しかないのだから・・

そして肝心な事は、21世紀のための手がかりは日本にしかないのではないのかと思う。文明的な側面の日本国憲法や、唯一の被爆国としての核や無差別大量破壊兵器廃絶も日本がやらずして、どの国がやるのかと言いたい。
その他にも、日本の食文化や自然と共生してきた長い歴史的な智恵や、様々な物作りや災害救助・対策の智恵や技術こそが、21世紀の世界を救済するものだと思う。

そのためには、日本人に寄生するばかりで日本人の誰ひとりをも幸せにしないどころか・・米国の侵略戦争や石油・穀物等の買占めで世界中を不幸にする日本発の人類共通の不幸の原因に立ち向かわなければならない時代なのではと思う。

史上最もうす汚れた売国奴的政治屋ー小泉純一郎&その師匠中曽根康弘

2008年10月04日 | 政治
彼を散々持ち上げてきた日本の翼賛的マスコミや、口先だけで小泉政治から方向転換をしようとしない与党や、彼を最も首相に相応しいとしてきた日本人の数割も同罪だと思う。中曽根康弘については、何度も日記で書いてきたので、その瓜二つの後継者小泉純一郎についてだけ、同感した記事の一部をアップしたい。

「森田実ホームページ」ーhttp://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/その記事とは、アメリカのポチ犬の小泉が引退してからマスコミから出演依頼がくるようになったという森田氏のホームページで見つけた。

『現代日本政治論 (渡邊良明)』ー  http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/
  「小泉元総理の突然の引退に思う―無責任な「敵前逃亡」」

『  ー前略ー

◆小泉氏の「敵前逃亡」
 ところで、9月25日(木)、ある大きな政治的驚きが日本全国を駆け巡った。小泉元総理(66)の突然の政界引退表明である。それは、“サプライズ好み”の彼らしい政治行動だった。
 小泉氏の後継として、次男の進次郎氏(27)が立つという。だが、北朝鮮じゃあるまいし、政治の世襲化など、もっての外である。しかし、その“もっての外”のことが横行している。そういった世襲議員の弊害で政治がいたずらに低迷し、政府の政策が国民生活からまったく遊離しているのが、現代日本の明白な政治状況である。
 この報に接して、私は正直、“小泉氏は逃げたな”と思った。有り体にいえば、無責任な「敵前逃亡だ」と思った。だが、この場合の「敵」とは、決して民主党のことではない。彼にとって民主党はもはや意識の外にあろう。 
 ここで私が言う「敵」とは、彼が今まで果たしてきた政治実績、換言すれば彼の“政治責任”のことである。具体的には、彼のアメリカ追従の外交や防衛、郵政民営化、規制緩和、「三位一体改革(=地方の切り捨て)」、緊縮財政、「後期高齢者医療制度」など、これからますます難問化する諸問題に対して、彼は何の有効な処方箋も示すことなく、政界を去るのである。私は、小泉氏は、そのようなさまざまな「敵」を前にして、解決を後継に託して、自らは“逃亡した”と思うのだ。
 下世話な話で恐縮だが、彼の電撃引退の報に接し、私は次のようなことを思い出した。
 皆さんは、このような経験はないだろうか? それは次のようなものだ。仲間と会食し、割り勘にしようと金勘定をする段になると、急にトイレに駆け込んで無銭飲食を決め込む者がいるものだ。芸能界にもそんな人がいるようだ。いや、どこの世界にもそういったズル賢い人の一人や二人はいよう。 
 私も、ハワイで生活していた頃、そういった主婦に出会った。彼女は英語学校の仲間の一人だったが、7~8人の仲間で中華料理を楽しんだあと、いざ割り勘で会計しようとすると、いつの間にか忽然と消えて、トイレに駆け込み、会計が済んだあと、しれっと姿を見せたのである。
 今回の小泉氏の引退表明を耳にし、私は、なぜか昔日の彼女の姿を思い出した。とにかく、“ズルイ!”という一言に尽きるのだ。

   ー中略ー

 ◆操り人形・小泉純一郎
 ところで私事だが、私は3年前、小泉氏について論じた拙著『ジョン・F・ケネディvs 二つの操り人形 小泉純一郎と中曽根康弘』(2006年8月刊)のなかでこう記した。
 《今後、小泉による、アメリカ屈従の「郵政民営化」が、社会的弱者の生活権を奪い、「格差」をますます助長する結果となろう。残るのは、社会的不安の高まりと絶望感の蔓延である。それを見た小泉が、冷ややかに言うであろう。「人生、いろいろ。死ぬのも自由。さあ、どうぞ、どうぞ」と。彼の胸中は、”わが死せる後に、大洪水よ来い!”なのではないだろうか。彼にとっては、すべてが「他人事」なのである。》(200頁)

 少し過激な文章表現だったかもしれない。だが正直、この思いは今も変わらない。それに今回の彼の電撃的引退も、上記の“徹底した無責任さ”と“すべてが他人事”の結果だと思う。
 人間、自ら独創的かつ自発的に動いているようでいて、その実、単に他者(ヒト)の言いなりになっているにすぎない場合が多い。小泉氏の場合、旧来の自民党総裁・日本国総理にしては型破りで、いかにも独創的(?)に見えた。しかしそれは、単に見せ掛けだけのことだ。
 実際、彼は家では姉・信子に盲目的に従い、選挙では元稲川会系暴力団員の竹内清の支援を受け、総理官邸では飯島秘書官の手引きで動き、政界では財務(=旧大蔵)官僚の言いなりになり、対外的にはブッシュ政権に盲従した。そのような政治家に一体、真の自主性や独創性はあるだろうか。私はないと思うのだ。
 かつて、アメリカのレーガン大統領は退任後、多くの国民から“偉大な大統領だった”と賞賛された。だが反面、アメリカ国内の心ある識者たちからは、“結局、大統領を演じた俳優に過ぎなかった”と批判された。実は小泉氏も“日本国首相を演じた一人の素人役者だった”のではないだろうか。
 役者だから、一般の人びとの目には実に面白く見える。実際、面白みや“けれんみ”、それに“華”がなければ役者は勤まらない。だが、“黒子”として彼を背後から操る「存在」なしには、彼自身、1秒たりとも存在できなかった。世に言う「小泉劇場」とは、小泉氏が自ら踊り、演じきった舞台ではあっても、決して彼自身が企画・運営した劇場ではなかったと思うのだ。

 ◆小泉氏の“ひたすら退散”
 「類は友を呼ぶ」という。小泉氏とブッシュとは本当によく似ている。両者とも今まで心底自分で考え抜いたり、悩み抜いたりしたことがないのではあるまいか。すべてが“他人任せ”なのである。若きブッシュが有能な取り巻きの助力で名門ハーバード大学を卒業できたのは有名な話だ。このブッシュという男、私には、生涯、自分だけの力で生きたことはないように思えるのだ。
 小泉氏も、慶大生時代にレイプ事件を引き起こし、姉・信子の指図で、その追っ手から逃れるためにロンドン大学に遊学した(決して正式の留学ではない)。そして、1969年に父・純也氏の死去に伴い、彼は初選挙に挑戦した。だが、その時は地元の特長会の支持を得られず落選した。同年は、小沢一郎氏、橋本龍太郎氏、渡部恒三氏らが華々しく政界にデビューした年だった。他方、小泉氏は、落選後、福田赳夫氏の書生となり、捲土重来を期した。その後、1972年、30歳のときに彼は衆議院議員に初当選した。そのとき、彼のために貢献したのが、先述した竹内清である。その後、両者の緊密な関係は小泉氏が総理になるまで続くことになる。 しかし、小泉氏は、自ら精緻な理論や思想を持っていなかったものの、人(とくに若い官僚たち)を利用するのは非常に巧みだったと思う。たとえば、彼が厚生大臣時代の岡光序治(よしはる)、郵政大臣時代の團宏明、そして総理大臣時代の高橋洋一(財務官僚)や守屋武昌(防衛官僚)などである。 
 小泉氏は、時には彼らを重用・活用し、あるいは踏み台にした上で、自らは司直の手から逃げ延びた。それは、厚生大臣時代の岡光との関係や総理大臣時代の守屋との関係について言えよう。彼には岡光や守屋以上の重い責任や見えざる“犯罪”があったと思うのだ。佐高信(まこと)氏は、かつて小泉氏を「クリーンなタカ派」と呼んだ。だが、彼が“クリーン”だなどとは、私には一種の冗談にしか聞こえない。
 ハワイで聞いた話だが、神奈川県内に住むある女性実業家が自分が事業で貯めたお金の一部を「日本赤十字社に寄付しようと思う」と若き小泉氏に語った。そのとき、それを聞いた彼はなんと、こう真顔で語ったという。「日赤に寄付するぐらいなら、その金をオレにくれ」と。14~15年前、彼女が呆れた顔で語った日のことを私は昨日のことのように思い出す。堅気の女性にそんなことを平気で言える小泉氏が“クリーン”であるわけなどないではないか。
 とにかく、叩けばさまざまなボロが出てくるのが小泉純一郎氏である。私には、その ボロが出てこないうちに“ひたすら退散”という構図が、今回の引退声明の背後に見え隠れするのだ。
 それも、麻生政権の船出第一日目というのも何ともあてつけがましく見える。また、次男の進次郎氏を後継にする布石をちゃんと打ったあとの引退だから、実に用意周到である。端的に言えば、彼も単なる俗物に過ぎない。加えて、アメリカの原子力空母ジョージ・ワシントンが横須賀に配備されたその日に引退声明をするというのも、彼の政治行動の背後につねにアメリカの影がちらつくのである。まさに原子力空母の横須賀入港を見届けた上での引退声明だった。
 中曽根康弘氏と同様、彼ほどアメリカ政府に忠実な総理も珍しかった。その分、小泉氏はわれわれ日本国民を多大に犠牲にしてきたと思うのだ。
 多くの国民は、その厳粛な事実に年を追うごとに気づかされることだろう。それを自ら直視することもなく、内心“わが死せる後に、大洪水よ来い!”と叫ぶ小泉氏は、今後、イタリアかどこかで再婚相手と安楽な余生を過ごすのかもしれない。 
 だが、これほど無責任な人物を“稀代の偉大な総理”として珍重した日本国民の無知と不見識、さらには彼と同等の“無責任さ”を、この際、深く認識すべきなのではあるかまいか。それができて初めて、私たちは一人前の真の“日本国民”と言えるのではないかと思うのだ。 』

世襲政治家というよりも閨閥政治家が問題なのだと思う

2008年10月03日 | 日記
政官財プラス宗教界や大マスコミの閨閥化が
日本がこれほどひどい国になってしまった最大の原因ではないかと思う
そして
未来のすべてを解く鍵ではないかと

すべての権力や権威は
自分たち以外の者から
あらゆるものを奪い尽くして
自分たちの手でのすべての独占を目指すのが
歴史の流れだ

そのために
戦勝国アメリカは日本の文化の根こそぎの破壊に成功したし
この国の支配層の政官財は
国民の共有財産や税金ばかりではなく
いまや国民からすべてを奪い尽くすことに成功しつつある
情報を握って放そうとしない官僚組織や
翼賛的な大マスコミの洗脳のおかげで

閨閥化の網は
政治家を頂点とする地方利権ボスにも顕著だ
だから地方ボスたちの言いなりになる
二世・三世や官僚上がりの婿さんの方が
彼らにとっては都合がいい
もしも嘘だと思うなら
与党政治家の閨閥リストや
その政治家を隠れ蓑にした地方ボスたちの
閨閥リストを眺めてみるといい

適齢期の与党政治家の娘の見合い写真が
官僚の偉いさんたちによって
若手官僚たちの間に回されてくるという
(ぼくのかっての上司もそうやって見込まれて婿に入って失敗した人間だった)
同じように
権力のおこぼれを欲しい大企業官僚や富裕層の娘の写真が与党政治家の間に
喉から手が出るほど金が欲しい政治家の
息子の写真が逆に彼らの間を転々とする

神無月の月が昇る

2008年10月01日 | 政治
大好きな九月は
交通事故とその後始末のために
あたふたと過ぎ去ってしまった

事故でぼこぼこになった愛車で
マンジュシャゲ咲く道を
一ヶ月振りのドライブ

風が吹くたびに
アザミの綿毛が
谷間の空を埋め尽くして
川下へと流れてゆく贅沢

陽だまりの堰で泳ぎ
大空へとジャンプする岩魚たちは
春よりももっともっと
数が増えたみたい

もうじき
神無月の月が昇る
三万日しかない人生の一日を
あかあかと染めて今日の夕陽
生きてゆく途上で
いつの間にか忘れてた
夕焼け空をどこまでも飛んでゆく
蜻蛉のこころ

生きつづけることでしか
得られない回答がある
その先のことなんかは
ほんとうは
どうでもいいことなんだ