中国・杭州の中学校に通うチョウ・イーは、数学の成績があまりにも悪かった。このままでは大学には行けない可能性があった。そんなとき学校にやってきたのが、個別指導サービスを提供する「スクワールAI(Squirrel AI)」という会社だった。チョウは以前にも個別指導サービスを試したことがあったが、今回のは違った。人間の教師ではなく、人工知能(AI)アルゴリズムが学習を監督してくれるというのだ。当時13歳だったチョウは試してみることにした。すると学期が終わるころには、試験の成績は200点満点の100点から130点にアップしていた。2年後の中学最後の試験で、チョウは170点の成績を残した。
「数学は『怖い』と感じていました」とチョウは話す。「でも個別指導を受けて、それほど難しくはないと分かったんです。おかげで別の道へと進む第一歩を踏み出すことができました」。
多くの専門家は、21世紀の教育においてAIが重要になるという。だが、いったいどのように重要になるのだろうか? 世界中の教育者が具体的な指導方法に頭を悩ませているとき、中国はすでに動いていた。この数年間で、AIに対応した教育と学習に対する中国の投資は爆発的に増加している。大手テック企業からスタートアップ企業、現職の教育関係者まで、誰もがAI教育に飛びついた。中国では現在、数千万人の学生が、なんらかの形でAIを利用して学習している。スクワールAIのような課外の個別指導プログラム、「17ZuoYe(一起作業)」のようなデジタル学習プラットフォームだけではない。普通の学校でさえ、AIは利用されている。中国は教育現場でのAI活用に関する世界最大の実験場であり、その結果は誰にも予測できない。
シリコンバレーも強い関心を寄せている。2019年3月の報告では、チャン・ザッカーバーグ・イニシアチブ(Chan-Zuckerberg Initiative)とビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団(Bill and Melinda Gates Foundation)が、AIは投資に値する教育手段だと認めた。アップルのジョン・カウチ教育担当副社長は、2018年に刊行した著書『Riwiring Education』(邦題『Appleのデジタル教育』、かんき出版刊)でスクワールAIを絶賛している(中国語版はスクワールAIの創業者、デレク・リーとの共著)。2019年、スクワールAIは、カーネギーメロン大学との共同研究所も開設した。目的は、個人に合わせた学習について規模を拡大して研究し、世界中に広めていくことだ。
だが専門家は、教育現場が急いでAIを取り入れている状況が、どのような結果につながるのか心配している。AIの効果は限定的で、教師が生徒の好奇心と長所を育めるくらいだろうと指摘する。最悪の場合、画一化された学習や試験へと向かう世界的傾向をさらに定着させてしまい、次世代の若者は急速に変化する世界にうまく適応できないかもしれない。
中国最大級のAI教育企業の1社として、スクワールAIはこの不安について注視している。そして、世界へAI教育を拡大する準備が整った企業の1社として、中国での実験が世界をどう変えていくのか、情報を提供しているのだ。
チョウが通う学習センターは、スクワールAIが開設した中でも最大級のセンターの1つだ。浙江省で2番目に大きな都市、杭州のにぎやかな商業道路に面したごく普通の建物の2階にある。吹き抜け階段の壁には数々の賞状が並ぶ。さらに奥には、少なくとも12人の男性の写真が展示されている。半数がスクワールAIの幹部であり、残りは指導教員だ。「指導教員(Master teacher)」とは中国の最高の教師に与えられる称号で、スクワールAIのカリキュラム開発に尽力した人たちを指す。
スクールの室内は質素だ。ロビーは小さく、鮮やかなライムグリーンがアクセントになっている。6室ほどの教室に続く廊下には笑顔の生徒の写真が飾られている。教室の中では、淡い色の樹木のシールや、「Be Humble(謙虚であれ)」といった短い標語が壁面をにぎやかにしている。ホワイトボードやプロジェクター、その他の機材類はなく、1教室ごとに6〜8人用のテーブルが1つあるだけだ。
学習手段はノートパソコン。生徒も教師も同じようにディスプレイを熱心に見つめている。ある教室では2人の生徒がヘッドフォンを着けて、英語の個別指導に夢中になっている。また別の教室では、チョウを含む3人の生徒が、別々に数学の授業を受けている。解答をオンラインで提出する前に、紙の練習問題に取り組む。それぞれの教室では、教師がダッシュボードからリアルタイムに生徒をモニタリングしている。
要所要所で、教師の画面上には生徒の席に行って指導するよう、通知が表示される。教師は生徒のそばへ行って静かな声で何かを話し込んでいるが、おそらく指導システムが対処できない質問に答えるためだろう。見学中の私が立っている場所は彼らからほんの数メートルしか離れていないが、外の通りから聞こえるかすかな交通の騒音で、何を話しているのかは聞き取れない。
「すごく静かですね」。見学のために集まってくれたスクールと会社の関係者にささやく。杭州地区の担当部長は「教師が講義をする声は、まったく聞こえませんよ」と、どこか誇らしげに微笑んだ。
中国のAI教育ブームを後押しするものは、3つある。まず、AIベンチャー企業に対する補助金や減税だ。補助金や減税は、生徒の学習から教師の指導、さらに学校の管理まで、あらゆる教育関連のAIベンチャー企業を後押しする。ベンチャー・キャピタルにとって教育系のAIベンチャー企業は良い投資先になる。ある推計によると、2018年、世界中で教育系AIに投資された10億ドル超の1位は中国だという。
次に、中国の学歴競争の激しさが挙げられる。年間1000万人もの生徒が、大学入試「高考(ガオカオ=全国大学統一入試)」を受験する。この試験の成績によって、学位取得のための勉強ができるのか(大学へ進学できるのか)、どこの大学に通えるかが決まる。生徒1人1人の残りの人生の成功を左右する最大の決定要因とされることから、子どもの成功のために親は個別指導だろうが、何だろうが、喜んでお金を払うのだ。
最後は、データだ。中国の起業家は、自社のアルゴリズムを訓練し改良するために、大量のデータを自由に使える。人口は膨大で、データ・プライバシーについての国民の考え方は、欧米よりもはるかに緩い(特に、学業成績のような、どうしても欲しい利益が見返りとして得られるのなら、なおさらだ)。子どもたちの親世代はテクノロジーのおかげでわずか十数年で国が変わるのを目の当たりにしてきたから、テクノロジーの可能性を過大に信じるのも無理はない。
国民的な「高考不安」をそのまま反映して、スクワールAIは標準化された試験でより良い成績がとれるよう支援することに注力している。毎年、80%以上の生徒が試験前に通いにくるという。スクワールAIは当初からより多くのデータを保存できるように設計されており、そのおかげでさまざまな個別化や予測が可能になっている。学術的出版物や国際共同研究、受賞歴などを通じて技術的能力を大々的に売り込み、上海地方政府のお気に入りともなっている。
こうした戦略により、スクワールAIは驚異的な成長を遂げている。創業以来5年間で200都市に2000カ所の学習センターを開設し、登録生徒数は100万人を超える。ニューヨーク市の公立学校制度全体に匹敵する人数だ。 今後1年以内に、中国国内でさらに2000の学習センターを開設する計画もある。現在までに1億8000万ドル以上の資金を調達し、2018年末にはユニコーン企業としての地位を獲得。その評価額は10億ドルを超える。
スクワールAIは、AI家庭教師のコンセプトを追求した最初の会社ではない。教師を「複製」しようとする最初の試みは、コンピューターが教育現場で使用され始めた1970年代にさかのぼる。その後、1982年から1984年にかけて実施された米国のいくつかの調査によって、1対1で指導を受けた生徒は集団指導を受けた生徒よりもはるかに優れた成績を収めることが分かった。それを機に、1人1人の生徒に注意を払ってくれる教師を機械で再現しようとする、新しい試みが多く実施されるようになった。その結果が、幼稚園から職場訓練センターまで、いたるところで見られるようになった「適応学習(アダプティブ・ラーニング)システム」だ。
スクワールAIが革新的なのは、その細かさと規模の面だ。提供されるすべてのコースについて、技術チームと指導教員陣が協力し、教科をできるだけ小さな「ピース」に細分化する。たとえば、中学の数学であれば、有理数、三角形の性質、ピタゴラスの定理など1万以上の「原子(最小単位)」、つまり「知識ポイント」に分割される。目標は、生徒の理解不足の箇所をできるだけ正確に突き止めることだ。