実はド・ヴァロルセイ侯爵は彼にそんなことは言っていない。というのはウィルキー氏とは殆ど面識がなかったからだ。しかし、そんなことは構うものか、かの侯爵を友達呼ばわりすることは気分が良いものだ。『あの愛すべき侯爵』と言う時の彼は得々としていた。
しかし彼の言葉には誰も耳を貸さなかった。そのことを忌々しく思った彼は矛先を『彼の騎手』に向け、彼に合図をして場外へと連れ出した。この騎手というのは役立たずの怠け者で、大酒飲みで無気力なので、どこの厩舎からも追い出された男であった。自分を雇っている若い主人たちを馬鹿にしきっており、臆面も際限もなく彼らから金をふんだくっていた。年俸八千フランという非常に高い俸給を要求する以外に、馬丁、調教師、騎手の三役をこなさなければならないからという口実のもと、毎月穀物屋、獣医、蹄鉄工、馬具師などからの高額の請求書を提出した。更に、『ナントの火消し』の飼料の燕麦を定期的に売りさばき酒代に充てていたので、この可哀想な馬は空腹で立っているのもやっとというほど衰弱していたが、馬が痩せているのは周到なトレーニングの所為だと彼は説明し、雇い主たちはそれを信じた。この男はまた『ナントの火消し』がレースで優勝するという偽りの約束を彼らに信じさせ、彼らはこの哀れな馬に金を賭け、損をした。実際のところ、レースに出場せねばならないという義務さえなければ、この騎手ほど幸福な男はこの世にいなかったであろう……。まず第一に彼はこのような馬に乗って障害物を飛び越えるのは非常に危険であると判断したが、それは尤もなことであった。次に三人の馬の所有者たちを代わる代わる引き連れて馬場を闊歩しなければならなかったのだが、これは極めて煩わしいことであった。しかしそれを拒否することも出来なかった。この悪賢い男は、雇い主たちが何よりしたがっているのは馬を見せびらかすことなのだとよく心得ていたからだ。競技場のトラックを、緑と黒の袖の付いたオレンジ色のカザックを着込んだ騎手と共に観覧席の前を気取って練り歩くことは、他では得られない虚栄心を満足させる瞬間だった。自分たちには大いなる敬意が払われていると彼らは確信し、自分たちは羨望の的であると考え自惚れではち切れそうになるのだった。三人のうちの誰かが騎手を独り占めしすぎるという非難の応酬がもとで一度など決闘騒ぎにまで発展したこともあった……。
その日一番先に到着したウィルキー氏は当然のこととして『ナントの火消し』虐めに取り掛かった。これほど都合良く事が運んだことはかつてなかった。その日の天気は申し分なく、観覧席は人の重みでギシギシ音を立てるほどだった。二万人の見物人がコースの端から端までぎっしり詰めかけていた。
ウィルキー氏の姿はどこにでも見られた。彼の騎手を後ろに従え、大袈裟な身振りをしながら甲高い声であれこれ命令していた。行く先々で『あの紳士は馬の持ち主だよ』という声を聞くのは何たる喜びであったことか!そしてどこかの町人が絹のカザックやブーツの折り返しを見たときの感嘆の声を耳にするのは最高の瞬間だった。10.24