エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-VIII-16

2023-08-07 13:35:09 | 地獄の生活
興奮が冷めると、彼女は自分が手に入れた優位を過大評価するのでなく、むしろ疑いをもって吟味し始めた。それというのも疑いの余地のない完璧な勝利を望んでいたからだ……。ド・ヴァロルセイ侯爵の犯罪を暴くことにさほどの意味はないように彼女には思われた。それよりは、彼の計画の真意を見抜くことが必要だと心を決めていた。彼が執拗に彼女を追い求めるその隠された理由を突き止めることだ……。自分自身素晴らしい武器を手にしていると思ってはいるが、侯爵の手紙に書かれていた脅しのことを考えると不吉な不安を追い払うことが出来なかった。
『協力者のおかげで』と彼は書いていた。『かの気位高き娘を非常に危険かつ悲惨な状況に置き、一人では脱出できぬと思われるその状況の中で……』
この文言はマルグリット嬢の頭から離れなかった。この今にも自分の頭の上に襲い掛かってくるという危険とは一体どういうものであろうか? どこから、どのように、どんな形で来るのか? 冷酷なやり方でパスカルを陥れたこの卑怯者ならば、いかなる心胆を寒からしめるべき奸策をも考え付くであろう。どのような攻撃をしかけてくるつもりだろう?若い娘の評判を傷つけるようなやり方か、それとも直接彼女自身への危害か? 何か忌まわしい罠の中におびき寄せられ、恥知らずな悪人どもの手に委ねられるのか?
彼女が製本屋の見習いとして働いていた頃の嫌な記憶が蘇り、頭にかっと血が上った。
「私は身を護るものを持たずに外に出たりは決してしない」と彼女は心に誓った。「私に魔の手を伸ばす者に呪いあれ!」
ああ、だが、漠然とした脅威は不安を二倍にするものだ。正体の分からぬ、謎の、それでいて差し迫った、常に脳裏を去らない危険を直視できる勇気などというものは存在しない。しかもそれだけではないのだ……。
彼女の敵はド・ヴァロルセイ侯爵だけではなかった。言うならば周り中が敵であった。危険な偽善者であるフォンデージ夫妻は彼女をより確実に滅ぼすことができるように自分の家に引き取ったのだ。ド・ヴァロルセイ侯爵は、フォンデージ夫妻など気にすることはない、彼らの手口などはっきり分かっていると述べていた……。一体どんな手口なのか? 夫妻は彼女が彼らの息子の妻になることを強く望んでいるが、一体どこまで彼女を強制するのであろうか?
ここに来て激しい恐怖が彼女を動転させた。つい今しがたまで希望と安心感に満たされていたというのに……。
もし誰かに襲われたとしたら、自分が誰かを知らしめたり、あの手紙の複製を有効に使えるだけの時間が与えられるであろうか!
「誰か、信頼できる人に秘密を知らせておかねば。その人に仇を取って貰うために……」8.7
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2-VIII-15

2023-08-04 13:54:20 | 地獄の生活
マルグリット嬢がフォンデージ邸を出てから一時間超が経っていた。
「ときが経つのってほんとに早いのね!」と彼女は呟いていた。人目を引かぬ範囲内で最大限に足を速めながら。それでも、いかに急いでいたとはいえ、ノートルダム・ド・ロレット通りの裁縫材料店に立ち寄り、五分ほどを費やさねばならなかった。黒いリボンやその他の喪のしるしの小物を買うためである。召使の誰かが出て来て外出の理由を聞かれることがあった場合に備え、説明できるように、であった。そういうこともないとは言えず、むしろありそうなことであった。あらゆる可能性を彼女は考えていた。
しかし、『将軍』邸の前の階段を上がり、門の呼び鈴を鳴らしたときは緊張のあまり鼓動が胸を突き破りそうになった。この彼女の計画と冒険が成功するか否かは、彼女の行為とは無関係な外的要因に依存しており、それに対して知恵では対抗できないからだ。
フォンデージ夫人とマダム・レオンが既に帰宅していて、手紙を持ち出したことがばれていたとしたら!
しかし幸いなことに、『将軍夫人』が思い描いているような衣装のための材料を買い揃えるには一時間では足りなかった。二人の婦人はまだ帰宅しておらず、家の中は彼女が出て行ったときのままだった……。彼女は手紙を引き出しに戻し、鍵をかけ、マダム・レオンの服のポケットに鍵を戻しておいた。
このときになって初めて彼女は安堵の息を吐き、この一週間で初めて喜びの感情が湧き上がるのを感じた。もうこれでド・ヴァロルセイ侯爵に気づかれることなく、彼女は彼を牛耳ることができる……。彼がどんな狡猾な策略で彼女を窮地に陥れ、その後彼女を救い出すという筋書きを立てようと、もう彼を怖れることはないのだ……。
彼は翌日あの手紙を焼却し、悪だくみの証拠はすべて消滅したと思うだろう。ところがどっこい、侯爵が勝利を手にしたと思うお定まりの瞬間に、自分がこの手紙の複写を取り出し、敵を粉砕するのだ。この輝かしい奸策をやってのけたのは単なる小娘、この自分なのだ!
「これで少しはパスカルにふさわしい女になれたかしら」 彼女はちょっぴり自慢に思う気持ちに心が揺れながら独り言を言った。
しかしマルグリット嬢は運命の女神が一度微笑んでくれたからといって頂天になるような弱い人間ではなく、軽率にも最初の成功で油断してしまうことはなかった。8.4
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2-VIII-14

2023-08-01 12:28:50 | 地獄の生活
そうこうしている間に助手が機具を持って戻って来たので、彼はその機具を小サロンの中で組み立て設置した。準備がすべて整うと彼は言った。
「ではそのお手紙をお渡しくださいますか、マダム」
一瞬の戸惑いが感じられた。しかしそれはほんの一秒ほどのものだった。この写真家の誠実で親切な顔つきから、彼は信頼を裏切ることはないだろうと彼女は確信した。この人ならむしろ自分に力添えをし、救ってくれるであろう、と。彼女はド・ヴァロルセイ侯爵の手紙を悲痛な威厳を持って差し出し、はっきりした口調で言った。
「貴方様の手に託しますのは、私の名誉と未来でございます……。でも私には不安はありません。何も怖れてはおりません」
写真家はマルグリット嬢が何を考えているのかが分かった。秘密にしておいてくれ、と敢えて口にしなかったこと、それは不必要だと彼女が判断したということを……。彼の心に同情心が湧き起こり、最後の懸念が消し飛んだ。
「私はこの手紙を読ませていただくことになります」と彼は言った。「ですが、それは私一人だけであることを誓ってお約束いたします。私以外の誰もこれを目にすることはありません」
胸が一杯になり、マルグリット嬢は手を差し、写真家はそれを握りしめたが、彼女の言葉は素朴なものだった。
「感謝します……二重に御親切を受けましたわ……」
手紙の完全な複写を作成するには高度の技術が必要で、ときにかなりの時間を要する。しかし二十分ほど後に、素晴らしい出来栄えを保証する二枚のネガを写真家は手にすることが出来た。彼は満足げにそれらを点検した後、手紙をマルグリット嬢に返した。
「三日後には写真が出来上がっております、マダム、住所をお教えくださればお送りすることも出来ますが……」
この言葉に飛び上がったマルグリット嬢は急いで答えた。
「いえ、どうか送らないでくださいまし。お手元に保管しておいてください。ああどうか厳重にお願いします。誰かに見られたらおしまいですから……私が自分で取りに伺います。それか誰か人を寄こしますので……」
それから、こんなにして貰った信頼に応えねばと思い、付け加えた。
「でも、おいとまする前に名前だけは明かしておきます……私はマルグリット・ド・シャルースです」
そして彼女は出て行った。後には、今起きた出来事の意外さと彼女の美しさに幻惑された写真家が残された。8.1
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