2021年度も残す所、あと半月となりました。
毎度のことながら、年度替わりの時期は何かと異動の知らせも賑やかに感じております。三月末を以って「卒業」など、それまでの活動に終止符を打ち、この四月から新生活・新しい門出を迎えられる方も多いのではないかと思います。まずは、お疲れ様でした(ちょっと早いかな)。私も昨年11月半ばから続いている降雪予報期間のゴールが近づいてきました。
さて、昭和から平成、平成から令和に移り変わるにつれて、世の中の在り様は怒涛の如く変化しています。まさに「VUCA時代」と言う言葉に象徴されるように、従来の常識を覆すような社会変化が次々と起こっており、今となっては「将来」を予測するのが困難な状況です。
この「VUCA(ブーカ)」とは「Volatility:変動性,Uncertainty:不確実性,Complexity:複雑性,Ambiguity:曖昧性」を組み合わせた用語です。現代の状況を端的に表す4つのキーワードともいえるでしょう。まるで「下りのエスカレータをひたすら上っている」ような錯覚さえ覚えます。
このような時代の流れの中で変化を拒み続けることは、最早「保守的」や「停滞」所の話ではなく、確実な「衰退」を意味します。さらに時代の変化に伴い「加速度」も加わります。従って、この現代を生きていくためには、常に「学び、考え、行動し、成長する」ことが必要です。そして、この積み重ねこそが「努力」です。人は何のために学ぶのか。それは、このような激流の中を「生きるため、生き抜いていくため」と言っても過言では無いでしょう。
ところで、巷では「○○ガチャ」と言う言葉が流行しているようです。この言葉を使うことには賛否両論ありますが、私は肯定的に捉えています。要は「人に与えられる条件は必ずしも平等ではない」と言う本質を、カジュアルに表現したものです。別の言い方をすれば、人生には「自分の努力ではどうにもならない」要素が多いと言うことです。
確かに「ガチャ」に当たった人は幸運であり、「ガチャ」に外れた人は不運と言えますが、そもそも人生の「ガチャ」は無数にあります。ある「ガチャ」には当たれども、別の「ガチャ」には外れることもあり得ます。とは言え周囲を見渡せば、「当たりガチャ」が多い人もいれば、「外れガチャ」の多い人もいます。「やはり、人に与えられる条件は平等ではないのだ」とあらためて実感します。
しかし、「それならしょうがない」とばかりに、いつまでも同じ所に留まって、ボーッと救いの手を待っていても、誰かが手を差し伸べてくれるわけではありません。それこそ「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と言われるのがオチでしょう。「ガチャ」に外れたならば、その不運を乗り越えるための「努力」が必要です。しかし、「ガチャ」に当たったとしても、やはりその幸運を活かすための「努力」は必要です。
もちろん「ガチャ」と言うのは「努力ではどうにもならない」ものですが、「ある程度のダメージ・コントロール」はできるでしょう。いわば「運命」と言う名の荒波に乗るサーファーのようなイメージ、もしくは人生の「リスクマネジメント」とも言えるでしょう。努力は成功の必要条件なれど、十分条件ではありません。それでも努力を続ければ、どこかで道は開けるかも知れません。
私も何かと「ガチャ」に振り回されることが多い人生と感じてます。一方、人生の節目・分かれ道において「天の見えざる手」によって導かれているではないか、と感じることもあります。ただし、ここで「天」とはいかなる存在かについては考えません(これは「宗教」の領域なので、宗教家の皆様にお任せします)。
ふと、外に目を向けてみると「私たちの社会が多くの仕事によって構成されている」ことに気付きます。社会を構成する一人一人が各々の役割を担っており、各自の務めを果たすことで成り立っている、と言い換えることもできるでしょう。
別に「社会」と言った大きなものに限りません。例えば、「オーケストラ」であれば、大きくは弦楽器・管楽器・打楽器に分けられ、さらに指揮者やソリスト、曲目によっては合唱団が加わることもあります。各々の奏者が譜面を通して与えられた旋律を奏でる事で、全体として壮大な音楽が作り出されます。また、「野球」や「サッカー」などの団体球技でも、様々なポジションがあり、その各々に固有の役割があるはずです。
さらに、様々な意味でマジョリティが存在する一方、マイノリティも存在します。そして、それぞれに何らかの役割があるはずです。社会はまさに多様な人材の多様な役割によって構成されています。この多様性こそが「ダイバーシティ」です。
ただ、ここで悩ましいのは、個々人が「どのような役割を担ってこの世に生を受けたのか」つまりは「天によって与えられた役割(使命)」が判らない、と言うことです。予めそれが判っていれば、今更「何を学ぶべきか、どのような行動を起こすべきか」と迷うこともありません。しかし、現実は違います。それは、換言すれば「自らの創意工夫によって、自らの活路を切り開くことが可能」と言うことです。
もし「大まかな役割(方向性)」は与えられていたとしても、その具体的な在り様は、時々刻々とその状況に応じて変わります。VUCA時代には「決まった答え」のない問題が山積しています。自分の役割を果たすといっても、その現れ方のヴァリエーションは無限にあるでしょう。
そして、その活躍の「根源」となるのは、自らの中に構築される「知識・知恵の体系」すなわち「知のテーパ」です。そして、自らの中にどのような「知のテーパ」を構築するのか、それは人それぞれです。昨今のコロナ禍における制約もありますが、学び、考え、行動と成長を重ねることで、来るべき「アフターコロナ」に備えましょう。
毎度のことながら、年度替わりの時期は何かと異動の知らせも賑やかに感じております。三月末を以って「卒業」など、それまでの活動に終止符を打ち、この四月から新生活・新しい門出を迎えられる方も多いのではないかと思います。まずは、お疲れ様でした(ちょっと早いかな)。私も昨年11月半ばから続いている降雪予報期間のゴールが近づいてきました。
さて、昭和から平成、平成から令和に移り変わるにつれて、世の中の在り様は怒涛の如く変化しています。まさに「VUCA時代」と言う言葉に象徴されるように、従来の常識を覆すような社会変化が次々と起こっており、今となっては「将来」を予測するのが困難な状況です。
この「VUCA(ブーカ)」とは「Volatility:変動性,Uncertainty:不確実性,Complexity:複雑性,Ambiguity:曖昧性」を組み合わせた用語です。現代の状況を端的に表す4つのキーワードともいえるでしょう。まるで「下りのエスカレータをひたすら上っている」ような錯覚さえ覚えます。
このような時代の流れの中で変化を拒み続けることは、最早「保守的」や「停滞」所の話ではなく、確実な「衰退」を意味します。さらに時代の変化に伴い「加速度」も加わります。従って、この現代を生きていくためには、常に「学び、考え、行動し、成長する」ことが必要です。そして、この積み重ねこそが「努力」です。人は何のために学ぶのか。それは、このような激流の中を「生きるため、生き抜いていくため」と言っても過言では無いでしょう。
ところで、巷では「○○ガチャ」と言う言葉が流行しているようです。この言葉を使うことには賛否両論ありますが、私は肯定的に捉えています。要は「人に与えられる条件は必ずしも平等ではない」と言う本質を、カジュアルに表現したものです。別の言い方をすれば、人生には「自分の努力ではどうにもならない」要素が多いと言うことです。
確かに「ガチャ」に当たった人は幸運であり、「ガチャ」に外れた人は不運と言えますが、そもそも人生の「ガチャ」は無数にあります。ある「ガチャ」には当たれども、別の「ガチャ」には外れることもあり得ます。とは言え周囲を見渡せば、「当たりガチャ」が多い人もいれば、「外れガチャ」の多い人もいます。「やはり、人に与えられる条件は平等ではないのだ」とあらためて実感します。
しかし、「それならしょうがない」とばかりに、いつまでも同じ所に留まって、ボーッと救いの手を待っていても、誰かが手を差し伸べてくれるわけではありません。それこそ「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と言われるのがオチでしょう。「ガチャ」に外れたならば、その不運を乗り越えるための「努力」が必要です。しかし、「ガチャ」に当たったとしても、やはりその幸運を活かすための「努力」は必要です。
もちろん「ガチャ」と言うのは「努力ではどうにもならない」ものですが、「ある程度のダメージ・コントロール」はできるでしょう。いわば「運命」と言う名の荒波に乗るサーファーのようなイメージ、もしくは人生の「リスクマネジメント」とも言えるでしょう。努力は成功の必要条件なれど、十分条件ではありません。それでも努力を続ければ、どこかで道は開けるかも知れません。
私も何かと「ガチャ」に振り回されることが多い人生と感じてます。一方、人生の節目・分かれ道において「天の見えざる手」によって導かれているではないか、と感じることもあります。ただし、ここで「天」とはいかなる存在かについては考えません(これは「宗教」の領域なので、宗教家の皆様にお任せします)。
ふと、外に目を向けてみると「私たちの社会が多くの仕事によって構成されている」ことに気付きます。社会を構成する一人一人が各々の役割を担っており、各自の務めを果たすことで成り立っている、と言い換えることもできるでしょう。
別に「社会」と言った大きなものに限りません。例えば、「オーケストラ」であれば、大きくは弦楽器・管楽器・打楽器に分けられ、さらに指揮者やソリスト、曲目によっては合唱団が加わることもあります。各々の奏者が譜面を通して与えられた旋律を奏でる事で、全体として壮大な音楽が作り出されます。また、「野球」や「サッカー」などの団体球技でも、様々なポジションがあり、その各々に固有の役割があるはずです。
さらに、様々な意味でマジョリティが存在する一方、マイノリティも存在します。そして、それぞれに何らかの役割があるはずです。社会はまさに多様な人材の多様な役割によって構成されています。この多様性こそが「ダイバーシティ」です。
ただ、ここで悩ましいのは、個々人が「どのような役割を担ってこの世に生を受けたのか」つまりは「天によって与えられた役割(使命)」が判らない、と言うことです。予めそれが判っていれば、今更「何を学ぶべきか、どのような行動を起こすべきか」と迷うこともありません。しかし、現実は違います。それは、換言すれば「自らの創意工夫によって、自らの活路を切り開くことが可能」と言うことです。
もし「大まかな役割(方向性)」は与えられていたとしても、その具体的な在り様は、時々刻々とその状況に応じて変わります。VUCA時代には「決まった答え」のない問題が山積しています。自分の役割を果たすといっても、その現れ方のヴァリエーションは無限にあるでしょう。
そして、その活躍の「根源」となるのは、自らの中に構築される「知識・知恵の体系」すなわち「知のテーパ」です。そして、自らの中にどのような「知のテーパ」を構築するのか、それは人それぞれです。昨今のコロナ禍における制約もありますが、学び、考え、行動と成長を重ねることで、来るべき「アフターコロナ」に備えましょう。