かつて選挙の際に、国民は政治改革を望むと言う審判を下しました。公費の無駄遣いの削減を望んだのは事実です。しかし、それは今話題のガソリン税の問題に関連して明らかになっている道路特定財源の無駄遣い(マッサージチェアやら豪勢な丸抱え旅行やら)や訳の分からない公金の「裏金」等の不正を無くし、本当に必要な事業(社会福祉や医療を始め国民生活に必要な部分等)に経済資源を注入せよ、と意思表示であった筈。それがむしろ「無駄遣い」の方を守り、真の「公共の福祉」を蔑ろにするような流れになっては元も子もありません。折りしも国会関連のニュースを見ても、党利党略の駆け引きばかりが目立って「国民不在」の感が否めません。
そのような中でも、日々激務に追われている気象庁職員の皆様には頭の下がる思いです。それは今でも変わりません。国民の生命・財産、そして夢や希望を自然災害から守ろうとする、その尊く誇り高い使命の実現に向けて日夜、自然と向き合っている皆様には心から敬意を表します。しかし、だからこそ理不尽さを覚えるのは私だけではないと思います。
仙台・那覇高層観測『効率化』で月末廃止 気象庁『他地点で補完』(東京新聞)
この記事を拝見した時は、言葉を失いました。何とも驚いてしまう内容でした。本来削減すべき「無駄遣い」を何とかするのが先ではないでしょうか。なぜ、必要な公共事業の方が先に切り捨てられてしまうのでしょうか。
記事を要約すると「衛星やウインドプロファイラのデータを取り込んで数値予報モデルによるシミュレーションを用いれば、わざわざ仙台と那覇で高層観測を実施しなくても予報の結果に大差無い。高層観測を廃止しても、仙台と那覇の上空の様子はGPVで代替できる。」というものです。
そして、高層観測に関しては「衛星やウインドプロファイラのデータで代替する」旨の言及もありますが、観測し得る高度範囲が異なるので、果たして十分に代替できるのか、率直に疑問が残ります。もし、完全に代替できるのであれば何故、仙台と那覇「だけ」を廃止するのでしょうか。本当に全て代替できると言うのであれば、全ての高層観測が将来的には廃止されるのでしょうか。このまま「なし崩し的」に観測拠点を削減するような流れが起こらない事を切に願います。
また、「仙台と那覇の上空の様子はコンピューターで解析できる」との説明には正直、違和感を感じます。これは「仙台と那覇の上空の様子は、実際に観測しなくてもコンピューターで解析すればデータを得る事ができる」というニュアンスに感じられ、そこには、数値シミュレーション結果と実況観測を混同する、もしくは同一視する思想が垣間見れます。しかし、実況観測と数値解析は本来全く違う存在です。その究極の違いは「観測は実像(リアル)を捉えるものであり、モデルは虚像(ヴァーチャル)を表す」事にあります。虚像が実像に取って代わる事は出来ませんのです。
そもそも「モデリング」とは、本来複雑である「対象たる自然現象」を独自の自然科学的世界観に基づいて解釈し、その再構築を図るものです。要は、観測を通じて実際の現象と向き合いそれをどのように解釈したのかを「モデル」と言う形で表現するものです。
気象庁の数値予報モデルは世界屈指の技術水準を誇っておりますが、それでも完全・完璧では無いので、観測値と照らし合わせながら、モデル自身にフィードバックして行かなければなりません。この繰り返しでモデルは日々進化していくのです。従って、観測値とモデル値は本来異なる性質のものであり、コンピュータの計算結果の過信・盲信にならぬよう気をつけなければなりません。
但し、念のために申し添えますが、以上までの趣旨を持って、観測地点の無い「空白域」について、モデルの計算値を「推定値」として与えるという手法・計算上の工夫やノウハウ等を否定するつもりは勿論ありません。空白域については推定するしかないのは当然理解できます。確かに、上空ではパラメータの水平方向の変動は下層ほど急峻ではなく緩やかであるため、観測拠点の間隔を広げたとしても、補間する事である程度は推定する事はできると思います。しかし、その許容範囲を超えた場合は、数値解析が実像を捉えきれない事になります。むしろ、このような解析手法を成し得るのも「現在の観測があればこそ」ではないでしょうか。現在の18ヶ所の観測によって維持されていると考える事もできるのです。
続いて 「シミュレーション実験したところ、仙台と那覇のデータはなくても予報結果に大差なかった」については、具体的にどのような実験が行われたのかは分かりませんが、要は「高層データを取り込んだ場合と抜いた場合でアウトプットは変わらないのだから抜いても良い」と言う趣旨であると理解します。しかし、逆の見方をすれば、このような「知見」が得られたのも「観測値があればこそ」と見る事もできるのです。
もし「シミュレーションさえ可能あれば、その結果をもって代替できるのだから観測を廃止して良い」と言う思想があるのであれば、これは厳に慎まなければなりません。それ以前に、この懸念が単なる私の妄想や勘違い、ミスリードであってくれる事を切に願わずには居られません。
近年、数値シミュレーション技術が飛躍的に向上している事や数値予報モデルの技術水準の高さに疑いの余地はありません。そして、その根幹を支えている基礎理論は、これまでの長い歴史の中で多くの先人達が培ってきたノウハウや森羅万象のミステリーと格闘し、その法則を解明する事で得られてきた知識を結集したものです。これらの多くの努力や苦悩、そしてその結果得られた英知に、心から敬意を表する事はやぶさかではありません。私もまた数値シミュレーションの分野を勉強してきた中で、先人達の残した成果の偉大さに感動している一人です。
しかしながら、未だ解明されない(モデルに表現しきれない)現象も多く存在します。このような部分の影響をどのように数値予報モデルに取り込み計算に反映させていくか、と言う分野では今尚それこそ壮絶な格闘が繰り広げられているのです。その際に重要な判断の拠り所となるのは、これまで見出されてきた自然界の法則、そして最後は観測データに行き着くのです。これらを組み合わせ、さらに議論と考察を重ねる事で新たなる理論が生み出され、モデルが構築されていくのです。我々の科学をもってしても未知なる現象がある、と言う事実に対しては謙虚でなければなりません。
記事によれば、気象庁内でも今回の施策には疑問の声が上がっているとの記述もありました。やはり庁内でも疑問視する方々は少なくないのでしょう。記事に見る気象庁サイドの説明も、見方を変えればやはり「できる事ならば観測を廃止したくない」しかし「コストをカットしなければならない」。その狭間での気象庁サイドの「悲鳴」なのかも知れない、と感じてきました。
これまで「民間で出来る所は民間に」というフレーズは、何度も聞いて来ました。逆に言えば「民間の力では出来ない所こそ行政が」ではないでしょうか。観測設備には莫大なコストが掛かります。投資対効果が明確に出るまでには時間も掛かります。極端な話、自前で独自の気象衛星をぶち上げる事は民間気象会社では到底、出来ません。このような壮大な公共事業が出来るのは、やはり「行政」の持てる力ではないか、と思います。
これから地球環境問題において国際的なフィールドでのイニシアチブを取ろうとしている日本において、このような現実があると言うのは、そして環境省と共に中核を担うであろう気象庁がこのような施策を取らざるを得ない状況にある(と言うよりも追い詰められている)と言うのは、行政主体たる国の姿勢が問われているようにも思います。
唯でさえ観測データは貴重な「財産」です。観測データを様々な角度から分析する事により、未知の現象や特性を明らかにしたり、新たな課題や問題を見出す事が出来るのです。それらが結果的に新たな気象学的知見やモデル、局地予報の際の予報則として蓄積され、広く国民、ひいては世界中の利益に還元されて行くのではないでしょうか。その事に思いを馳せると、今回の施策は残念でなりません。