2006年を表す漢字は「命」でありました。私達はその命がある限り、生き続けます。それでは、私達は何のために生きるのでしょうか。すなわち「人生の目的」とは何なのでしょうか。ふと、そんな事を考えています。
旧年中は「いじめ」による自殺という痛ましい事件が立て続けに起こりました。「生きているだけでも大きな価値がある」と思えるような力を与えてあげられる存在が、まず「家庭」であって欲しい。今、強くそう思います。
自分を愛してくれる人がいる、必要としている人がいるという事が、どれだけ尊い事か、どれだけ価値あることか。今、私達は再認識すべきなのかも知れません。
改めて「人生の目的とは何か」を考えてみると、壮大且つ深遠な問題だけに確固たる解を示す事は出来ません。ただ、少なくとも「自分の持ち味を存分に発揮し、人々から感謝されるような仕事を成し遂げる事ではないか」と私は思います。自分の理想や信念、使命感に裏付けられた専門性を持つ事ができれば、自分自身の生き方がぶれる事はないでしょう。もしそれができれば幸せな事ではないか、と思います。
そのために大切なのは「自分はどうするか」という視点では無いでしょうか。自分が成長でき、自分に誇りを持って、納得して生きていける方向性を考えるための思考力と判断力、そして決断する勇気を培う事が重要です。私達を取り巻く状況は日々刻々と変化しています。自らの価値観も変化していきます。今の延長が未来永劫に渡って続くことはありえないのです。従って、軌道修正は必然的に必要となります。最後は自分で決断しなければならない。その判断を的確に行うためには、それに相応しい判断基準となる人生観や価値観と思考力・決断力を培う必要があるのです。
2006年は高校の未履修問題が全国的な規模で発覚しました。そもそも、人はなぜ学校に行くのでしょうか。確かに、社会システムそのものが学校へ行く事を前提として構築されているため、という考え方もできるでしょう。私はやはり、学校とは「勉強をする場所」なのだと認識しています。しかし、その内容は、単に知識や技能の授受に留まらず、多くの集団生活を経験する事を通じて、周囲と調和し協調しながら生活していく術も学ぶ事だと思うのです。
社会もまた大きな規模での集団社会です。学校生活とは、広い社会の社会の入り口なのかもしれません。色々な個性が集まって色々な勉強や体験をします。ある意味、社会の縮図なのかもしれません。その中では当然、辛い事や苦しい経験をする事もあるでしょう。嬉しい事や悲しい事もあるでしょう。その一つ一つの経験が知恵となり信念となり、自らの進むべき道を指し示す羅針盤へとなっていくのではないでしょうか。
つまり、私達が学び続けるのは「自分の人生の目的を見出し、それを全うする」ためなのではないかと思うのです。
自分が人生を通して目指す事、それが自分の生きる「目的」であり「意味」なのかも知れない。もし、今その答えが見えなくても、探し続けていれば、その答えを見出す時がきっと来るでしょう。
もしかしたら、それは華やかなものや大きなものであるとは限りません。ささやかなものかもしれません。地味なものかもしれません。しかし、それは他の誰かでは成し遂げられない事なのでしょう。そして、その実現が他の多くの人々を喜ばせる事ができるのです。
一人一人が「誰かを喜ばせよう」そんな気持ちになれたなら、きっと未来は明るくなるのではないでしょうか。大きな可能性があるのなら、より良い方向に羽ばたいていくべきでしょう。だからこそ、可能性を狭めてはいけないし、奪ってはいけない。ましてや殺してはいけない。
この一年は、親が子供を殺め、子供が親を殺める事件も発生しました。そもそも「家庭とは何か」という問題を生物学的見地から見てみると「子孫反映のためのメソドロジー」と見る事が出来るかもしれません。男(オス)と女(メス)が出会い結ばれ、性の営みを経て子供が生まれ、家庭(群れ)の中で生きるための基本的な規律や生きる術を学び、生かされ育てられ、やがて巣立って行く。そしてまた新たな家庭を築いていく・・・この繰り返しなのではないでしょうか。
戦前・戦後・そして現在では家族・家庭の形態は変遷を重ねてきました。大日本帝国憲法下での旧制民法では「家督制」が法として定められていましたが、日本国憲法公布後の民法改正と同時に家督制度は廃止されました。そもそもこの制度は「武家社会」の名残と思いますが、戦後の高度経済成長と国内産業の多様化に伴い家族・家庭のあり方も多様化が進み、核家族が普及したのは周知の通りです。
多くの家庭における「嫁をもらう」や「長男」や「跡取り」という言葉を聞くと多少の違和感を覚えます。例えば、「嫁」という字は「女+家」です。単純に「女は家に居て家庭を守る」という解釈もできますが、「女は○○家に来て○○家の存続を守る」と解釈する事も出来ます。これは天と地ほどの違いです。嫁を「もらう」という表現についても他に適切な動詞が無いという理由もあるかと思いますが「よそから物をもらってきた」という感覚を覚えるのです。
かつては「○○家」という家督制度に執着することはむしろ当たり前でしたが、現在では。むやみに「○○家の跡取り」等と桎梏(しっこく)に縛り付ける事が、当事者にとっての幸福になるのかどうか疑問を生じるようになりました。縛り付けるという事は、図らずも「子息の人生における可能性を奪い取る事になりかねない」と私は思います。
子息の人生は親の所有「物」ではないのです。以前、テレビで「子供は投資と回収の対象になっている。回収が期待できる子が『良い子』になっている」と指摘した方がいました。面白い比喩ではありますが、思わず「なるほど!」と唸ってしまいました。実際にあれこれ干渉して我が子の人生を支配しようとする親がいるのは事実。その結果、最悪の場合は本人の自立を阻害するのみならず「ひきこもり」「家庭内暴力」と言った状態を引き起こす事もあるのです。
私の場合は、幸いにして一人っ子の長男であるにも関わらず「○○家の跡取り」を強要される事はありませんでした。しかし、「結婚する事」それ自体は激しく強要されております。それはもう「結婚できない人間はダメ人間だ」と言わんばかりです。
確かに「家や親戚等との付き合いが大事」とは思いますが、これは究極的には「子孫繁栄を基軸とした、皆の幸福実現のためのツールでありメソドロジーであり具体的な形=システム」だと思うのです。この従たるシステムの存続や世間体のために、仮にも主たる若者の未来が犠牲になってしまうのであれば、本末転倒以外の何物でもないのです。
但し、これを持って非婚化・晩婚化の傾向を正当化つもりは勿論ありません。むしろ精神的な親離れ・子離れもままならない状態で、結婚して夫婦二人で新しい家庭を築けるのでしょうか。まず「本人達が自力で人生を切り開いていこうとする姿勢を持つ事」が大事なのではないでしょうか。これは男も女も関係ありません。
さて、非婚化・晩婚化については若者世代の個人主義意識が顕著になった結果、引き起こされたものだ、と考える人が少なくないようです。しかし、これは社会現象の一面を捉えているに過ぎません。結婚したくとも先の見えない不安の中で結婚に踏み切れない若者も多いのです。正社員にもなれず、派遣社員や契約社員、フリーターといった就業形態を余儀なくされた結果、結婚どころではない状況の若年層が大量生産されている社会システムが実現しつつあると言っても過言ではないでしょう。
うがった見方をすれば、少子化は起こるべくして起こっている当然の現象だ、と見ることも出来ます。その上、話題の「ホワイトカラー・イグゼブション」が実現すれば、会社や上司に対する部下や従業員の視線はより厳しいものになるでしょう。私も前職の悲惨な体験から、モチベーションや労働の質の低下、ひいてはモラルハザードが容易に懸念されます。お上の立場でこの案を提案した委員の皆様におかれましては、是非過労死するまで働きまくって欲しい位です、残業代はゼロで。
また、以前も言及しましたが、そもそも「人の上に立つ」という事は「自分自身の発言に責任を持つ」という事です。少なくとも「その姿勢を持ち、そして見せていく」事が必要です。それだけ自分自身にもハイレベルが要求されると言う事なのです。部下より一段も二段も高い見識に立ち、部下を凌駕する幅広い知識を持ち、部下を指揮・指導しなければならないのです。つまり、常に見聞を広め勉強をし続けていかなければならないのです。
真にプロフェッショナルを目指す人間なら誰でも当たり前に行っている事ですし、このような人材の上に立とうとするならば、尚の事、その上を行く見識を持たなければならない。だからこそ尊敬に値するものなのではないでしょうか。私は真にそう思います。なぜなら「人生の目的とは、自分の持ち味を存分に発揮し、人々から感謝され喜ばれるような仕事を成し遂げる事」と考えるからです。
一年の最後に、思う存分書かせて頂きました。遂に4000文字を超えました。このような長い文章におつきあい頂きありがとうございました。
それでは皆さん、良いお年を!!
旧年中は「いじめ」による自殺という痛ましい事件が立て続けに起こりました。「生きているだけでも大きな価値がある」と思えるような力を与えてあげられる存在が、まず「家庭」であって欲しい。今、強くそう思います。
自分を愛してくれる人がいる、必要としている人がいるという事が、どれだけ尊い事か、どれだけ価値あることか。今、私達は再認識すべきなのかも知れません。
改めて「人生の目的とは何か」を考えてみると、壮大且つ深遠な問題だけに確固たる解を示す事は出来ません。ただ、少なくとも「自分の持ち味を存分に発揮し、人々から感謝されるような仕事を成し遂げる事ではないか」と私は思います。自分の理想や信念、使命感に裏付けられた専門性を持つ事ができれば、自分自身の生き方がぶれる事はないでしょう。もしそれができれば幸せな事ではないか、と思います。
そのために大切なのは「自分はどうするか」という視点では無いでしょうか。自分が成長でき、自分に誇りを持って、納得して生きていける方向性を考えるための思考力と判断力、そして決断する勇気を培う事が重要です。私達を取り巻く状況は日々刻々と変化しています。自らの価値観も変化していきます。今の延長が未来永劫に渡って続くことはありえないのです。従って、軌道修正は必然的に必要となります。最後は自分で決断しなければならない。その判断を的確に行うためには、それに相応しい判断基準となる人生観や価値観と思考力・決断力を培う必要があるのです。
2006年は高校の未履修問題が全国的な規模で発覚しました。そもそも、人はなぜ学校に行くのでしょうか。確かに、社会システムそのものが学校へ行く事を前提として構築されているため、という考え方もできるでしょう。私はやはり、学校とは「勉強をする場所」なのだと認識しています。しかし、その内容は、単に知識や技能の授受に留まらず、多くの集団生活を経験する事を通じて、周囲と調和し協調しながら生活していく術も学ぶ事だと思うのです。
社会もまた大きな規模での集団社会です。学校生活とは、広い社会の社会の入り口なのかもしれません。色々な個性が集まって色々な勉強や体験をします。ある意味、社会の縮図なのかもしれません。その中では当然、辛い事や苦しい経験をする事もあるでしょう。嬉しい事や悲しい事もあるでしょう。その一つ一つの経験が知恵となり信念となり、自らの進むべき道を指し示す羅針盤へとなっていくのではないでしょうか。
つまり、私達が学び続けるのは「自分の人生の目的を見出し、それを全うする」ためなのではないかと思うのです。
自分が人生を通して目指す事、それが自分の生きる「目的」であり「意味」なのかも知れない。もし、今その答えが見えなくても、探し続けていれば、その答えを見出す時がきっと来るでしょう。
もしかしたら、それは華やかなものや大きなものであるとは限りません。ささやかなものかもしれません。地味なものかもしれません。しかし、それは他の誰かでは成し遂げられない事なのでしょう。そして、その実現が他の多くの人々を喜ばせる事ができるのです。
一人一人が「誰かを喜ばせよう」そんな気持ちになれたなら、きっと未来は明るくなるのではないでしょうか。大きな可能性があるのなら、より良い方向に羽ばたいていくべきでしょう。だからこそ、可能性を狭めてはいけないし、奪ってはいけない。ましてや殺してはいけない。
この一年は、親が子供を殺め、子供が親を殺める事件も発生しました。そもそも「家庭とは何か」という問題を生物学的見地から見てみると「子孫反映のためのメソドロジー」と見る事が出来るかもしれません。男(オス)と女(メス)が出会い結ばれ、性の営みを経て子供が生まれ、家庭(群れ)の中で生きるための基本的な規律や生きる術を学び、生かされ育てられ、やがて巣立って行く。そしてまた新たな家庭を築いていく・・・この繰り返しなのではないでしょうか。
戦前・戦後・そして現在では家族・家庭の形態は変遷を重ねてきました。大日本帝国憲法下での旧制民法では「家督制」が法として定められていましたが、日本国憲法公布後の民法改正と同時に家督制度は廃止されました。そもそもこの制度は「武家社会」の名残と思いますが、戦後の高度経済成長と国内産業の多様化に伴い家族・家庭のあり方も多様化が進み、核家族が普及したのは周知の通りです。
多くの家庭における「嫁をもらう」や「長男」や「跡取り」という言葉を聞くと多少の違和感を覚えます。例えば、「嫁」という字は「女+家」です。単純に「女は家に居て家庭を守る」という解釈もできますが、「女は○○家に来て○○家の存続を守る」と解釈する事も出来ます。これは天と地ほどの違いです。嫁を「もらう」という表現についても他に適切な動詞が無いという理由もあるかと思いますが「よそから物をもらってきた」という感覚を覚えるのです。
かつては「○○家」という家督制度に執着することはむしろ当たり前でしたが、現在では。むやみに「○○家の跡取り」等と桎梏(しっこく)に縛り付ける事が、当事者にとっての幸福になるのかどうか疑問を生じるようになりました。縛り付けるという事は、図らずも「子息の人生における可能性を奪い取る事になりかねない」と私は思います。
子息の人生は親の所有「物」ではないのです。以前、テレビで「子供は投資と回収の対象になっている。回収が期待できる子が『良い子』になっている」と指摘した方がいました。面白い比喩ではありますが、思わず「なるほど!」と唸ってしまいました。実際にあれこれ干渉して我が子の人生を支配しようとする親がいるのは事実。その結果、最悪の場合は本人の自立を阻害するのみならず「ひきこもり」「家庭内暴力」と言った状態を引き起こす事もあるのです。
私の場合は、幸いにして一人っ子の長男であるにも関わらず「○○家の跡取り」を強要される事はありませんでした。しかし、「結婚する事」それ自体は激しく強要されております。それはもう「結婚できない人間はダメ人間だ」と言わんばかりです。
確かに「家や親戚等との付き合いが大事」とは思いますが、これは究極的には「子孫繁栄を基軸とした、皆の幸福実現のためのツールでありメソドロジーであり具体的な形=システム」だと思うのです。この従たるシステムの存続や世間体のために、仮にも主たる若者の未来が犠牲になってしまうのであれば、本末転倒以外の何物でもないのです。
但し、これを持って非婚化・晩婚化の傾向を正当化つもりは勿論ありません。むしろ精神的な親離れ・子離れもままならない状態で、結婚して夫婦二人で新しい家庭を築けるのでしょうか。まず「本人達が自力で人生を切り開いていこうとする姿勢を持つ事」が大事なのではないでしょうか。これは男も女も関係ありません。
さて、非婚化・晩婚化については若者世代の個人主義意識が顕著になった結果、引き起こされたものだ、と考える人が少なくないようです。しかし、これは社会現象の一面を捉えているに過ぎません。結婚したくとも先の見えない不安の中で結婚に踏み切れない若者も多いのです。正社員にもなれず、派遣社員や契約社員、フリーターといった就業形態を余儀なくされた結果、結婚どころではない状況の若年層が大量生産されている社会システムが実現しつつあると言っても過言ではないでしょう。
うがった見方をすれば、少子化は起こるべくして起こっている当然の現象だ、と見ることも出来ます。その上、話題の「ホワイトカラー・イグゼブション」が実現すれば、会社や上司に対する部下や従業員の視線はより厳しいものになるでしょう。私も前職の悲惨な体験から、モチベーションや労働の質の低下、ひいてはモラルハザードが容易に懸念されます。お上の立場でこの案を提案した委員の皆様におかれましては、是非過労死するまで働きまくって欲しい位です、残業代はゼロで。
また、以前も言及しましたが、そもそも「人の上に立つ」という事は「自分自身の発言に責任を持つ」という事です。少なくとも「その姿勢を持ち、そして見せていく」事が必要です。それだけ自分自身にもハイレベルが要求されると言う事なのです。部下より一段も二段も高い見識に立ち、部下を凌駕する幅広い知識を持ち、部下を指揮・指導しなければならないのです。つまり、常に見聞を広め勉強をし続けていかなければならないのです。
真にプロフェッショナルを目指す人間なら誰でも当たり前に行っている事ですし、このような人材の上に立とうとするならば、尚の事、その上を行く見識を持たなければならない。だからこそ尊敬に値するものなのではないでしょうか。私は真にそう思います。なぜなら「人生の目的とは、自分の持ち味を存分に発揮し、人々から感謝され喜ばれるような仕事を成し遂げる事」と考えるからです。
一年の最後に、思う存分書かせて頂きました。遂に4000文字を超えました。このような長い文章におつきあい頂きありがとうございました。
それでは皆さん、良いお年を!!