アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

道を行う者:西郷隆盛

2023-06-26 10:47:47 | 究極というものの可能性neo

◎意の誠否は、須らく夢寐(むび)中の事に於いて之を験すべし。

(2018-02-26)

 

西郷隆盛は、西郷南洲遺訓の中で自分のことを「道を行う者」と見ている。

彼は、天に直接相対する姿勢のことを誠と呼び、あらゆる発想、行動の根本に置く。

 

西郷南洲遺訓の中に江戸時代の儒者佐藤一斎の言志四録から抜き書きした部分がある。

「意の誠否は、須らく夢寐(むび)中の事に於いて之を験すべし。」

【大意】やろうとしていること思っていることが誠か否かは、夢の中、寝入りばな、あるいは寝起きに浮かんでくるもので、これをチェックすべきである。

 

西郷隆盛は、若い時に盛んに禅をやったが、沖永良部島の流刑時代のように狭い獄舎で冥想するしかない時期もあったろうけれども、実務の忙しい時期には、毎日ある程度冥想する習慣があったかかどうかはわからない。

よって、このように誰でもわかる表現である、「夢でチェックせよ」と書いているが、実は意識と無意識の境目に、それが「誠」つまり天意・神意に適っているものかどうかわかるコツがあると言っているように思う。

儒家の言は、荘子が盛んに揶揄したりネタにしたりするところではあるが、易経繋辞伝のように時間のない世界から書かれたものもあり、全部が全部おろそかにしてよいわけではなく、このように採るべきものもある。中庸の未発の中などもその一つ。

 

※西郷南洲遺訓は、国会図書館デジタルアーカイブからダウンロードしました。ありがたい時代です。

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世界は核戦争をしなければならない、という見方とは

2023-06-26 10:44:52 | 究極というものの可能性neo

◎西郷隆盛の予感、ダンテス・ダイジの予感

(2021-06-05)

 

渋沢栄一の実験論語処世談の中に西郷隆盛の人物月旦がある。これに、日本は維新後戦争をしなければならないという見方がある。

 

明治になってからの1871年の高官の会議で、西郷不在のままさる案件を決議して、西郷が到着して後、諸公から判子だけ押してくれと頼んだが、西郷は納得せず結局押さなかった。

 

西郷はその理由について説明しなかったが、

『日本は維新後まだ戦をする事が足らぬ。もう少し戦を為(せ)ぬと可(い)かぬ。そんな事は己れは如何でも可(よ)い』とだけ述べ、結局その議案はお流れになった。

渋沢栄一は、同年廃藩置県があったので、その時になってようやく西郷の言っている意味がわかったとしている。

 

1868年:明治維新、戊辰戦争

1871年:廃藩置県

1876年:廃刀令、秩禄処分により、士族の乱が相次ぐ

1877年:西南戦争

 

戊辰戦争以来戦争をやるやらないは、実質的に西郷の胸先三寸にあったと言えるだろう。ここで着目すべきは、戦争をやらないと民心が落ち着かない、あるいは修羅を求める気持ちを現実化せしめないと次の段階に進まないと見ていたであろう部分である。士農工商から四民平等に進むには、最大の被害者である旧士族の不満、叫びを消化する必要があった。

 

次の時代は、何でも金、経済的メリットと便利優先の人類を、100%逆方向の神仏が第一でその次に自分という行動規範と価値観に持っていくのだから、その衝撃を昇華するには、国家間の核戦争の発生は必至と見ているのではないか。

 

翻って、西郷隆盛もダンテス・ダイジも戦争の予感というのをそういう文脈で見ていたのではないか。戦争の予感は、現状の人心を自分の机上の風景をきっかけに感じることもできるし、道路を過ぎ行く自動車を見て気づくこともできるし、飛び去る烏の声で知ることもできる。

 

核戦争の発生が確実と見ていたのはダンテス・ダイジ。出口王仁三郎は、その辺は、あまりにも悲惨なので書いていない(あまり悲惨でよう言われんわい。)。

 

戦争をしないと気が済まない人類の大多数を、マスコミなどによるマインド・コントロールでなく、本気で戦争なしで済ませることで納得させることができるかどうかが、この中距離核ミサイル何千発を構える虎狼の如き隣国やら西側勢力で核戦争が起きないために必要な条件だと思う。

 

ところで最近のスピリチュアルSNSでは、地震の予感は一生懸命やっているが、外国からの日本侵略の予感を上げていないのは奇妙で片手落ちなことである。既に相当に侵略されちゃっている?抱き込まれている?そもそもそういうSNSなら大三災(風水火)、小三災(飢病戦)すべてビジョンに乗ってくるはずなのだが。

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トースとダンテスの合体と伊都能売(いづのめ)-1

2023-05-25 16:22:57 | 究極というものの可能性neo

◎先行モデルとしてのアトランティス

(2021-08-11)

 

ダンテス・ダイジの語るトースとは、アトランティスの聖王。ダンテスとは、政教一致のアトランティスの神の宮 の13人のリーダー(超人)の一人だが、後に神の宮アメンティを離れ放浪する。これで12人+1人となる。

 

これでトース側12名とダンテス1名と別れたので、両性分離の嚆矢となった。

アトランティス時代にも黄金時代があり、黄金時代から時代が悪化する流れの始まりは、男女、陰陽、善悪など二元の分離から始まった。

この分離からしばらくしてアトランティス大陸は沈没し、アトランティス文明は滅亡。文明滅亡前夜にアトランティス密教のリーダー達は、エジプト、ギリシア、日本、中米、北欧などに別れて、古伝承、神話などを残し、それから1万2千年後の現代に再び人類滅亡の危機を迎え、その後にアトランティス時代を凌ぐ世界的に広がる黄金時代、至福千年、千年王国の到来を予見している。

ダンテス・ダイジは、フロリダ沖に再度浮上するネオ・アトランティスに再誕する予言を残している(今生を短縮したことで残しておいた寿命を用い)が、その際、トースとダンテスが合体してやって来るとも予言。このトースとダンテスの合体こそが伊都能売。

古事記に一行だけ神名が書かれてあって、日本書紀には記述のない伊都能売神。

だが伊都能売(いずのめ)神とは、古神道家出口王仁三郎の唱える重要な高級神霊であり人間でもある。伊都能売神こそは、男女両性具有であって、出口王仁三郎の云うところの厳(いづ)と瑞(みづ)の合体形なのである。

こうした伊都能売神を出口王仁三郎は、慈悲の本源であり、愛の神であるとする。更に伊都能売神こそが、またの名を観世音・観音といい、木花咲耶姫命ともいう。伊都能売神には既に男女の区別なく、善悪を超越し且つ審判思想を打破する、大愛大善大慈悲神である。大善大慈悲と言えば、天国のイメージだが、審判思想を超えているとは、天国も地獄も越えたところにあるということ。男女の別を超えるのは、人間としての完成形でもある。神でもあり、人でもあり。

さて出口王仁三郎の「大本の道」に伊都能売に関する短歌が並んでいる。

須弥仙の山の尾の上(え)に立ち給ひ宇宙を統べます伊都能売の神

須弥仙(すみせん)の山に腰かけとことはに天地六合(てんちりくごう)まもる伊都能売

伊都能売の神の御稜威(みいづ)は天地(あめつち)のももの神たち統べ守りませり

 

八百万神ゐませども伊都能売の神の分ちし霊魂(みたま)なりけり

八百万神はませども伊都能売のまことの神の御使(みつかい)なりけり

神柱あまねく地上にまくばりて世を清めます伊都能売の神

 

伊都能売は三十三相に身を変じみろくの御代を開かせたまひぬ

神となり仏ともなり鬼となり世を生かしゆく伊都能売の神

釈迦となりキリストとなり木(こ)の花の姫とあれます伊都能売の神

 

釈迦(さか)孔子(くじ)もその他の聖(ひじり)も伊都能売の神のいさをの分かれなりけり

弥勒といひキリストといふも伊都能売の御活動の一つなりけり

キリストの再臨弥勒の下生(げしょう)とは伊都能売神(かみ)の顕現なりけり

(続)

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西欧古代から中世の迷路

2023-05-15 20:30:28 | 究極というものの可能性neo

◎無文字の謎

(2017-02-13)

 

オリエントから西には、古来王侯の庭園や教会の内部あるいは外の敷地に迷路を置くことがあった。

今やモバゲーやPCゲームにダンジョンは欠かせないが、ネタバレを見ながら解くのが一般的になっているかもしれないので、迷路本来の機能は失われている。

人間社会のあらゆる問題は死の恐怖から来ている。生保、損保、そして生活を安定させ余計な死のリスクを分散させる税の再配分のシステム、家庭、社会秩序、軍備、政治イデオロギー、そうしたものは本来時々刻々直面している自分の死のリスクから来る緊張を緩和するために作られたものである。

死のリスクを論じるならば、死のステップをチベット死者の書などで見ていくことも避けられない。死の初段は、肉体死から「原初の光」を意識しつつ、エーテル体の崩壊、中有へ移動、アストラル体への移行と進む。

そしてアストラルに留まればそれは単なる霊がかりであって、本質的な解決には程遠いものに終わる。

東洋では迷路などを置かなくてもそういう問題意識や解決の方向性は、自然や社会の中に備わっていたところがある。

西洋では、人間知性の限界と闇を無文字な謎という形で訴求しようとしたのだろう。

【ローマ時代の迷路_イタリア_クレモナ】

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私たちの初めての体験は神の喪失

2023-05-08 15:14:52 | 究極というものの可能性neo

◎三歳の童子

(2019-10-27)

 

フロイトの弟子にして、ニーチェから求婚されたルー・アンドレアス・ザロメ。

 

彼女の回想録冒頭。『私たちの初めての体験は、特筆すべきことに、神の喪失なのである。』

(ルー・ザロメ回想録 自伝文庫/ルー・アンドレーアス・ザロメ/ミネルヴァ書房P1から引用)

 

今でははっきりとは思い出せないが、確かに3歳の頃は、神と一体であるみたいな、全一性のような、全く問題のない状態にあったようだ。

 

ところが5、6歳になって、何か得体の知れぬ喪失感を、常に全人的に感ずることになって、確かにあの充実感、全能感はあったのだが、どこをどう探してみても見つからないという虚脱を毎度おぼえた。

 

それをルー・アンドレーアス・ザロメは、神の喪失だと言ってのける。

 

子供は子供でも、5、6歳になってしまえば、神なき人間という点では大人と全く変わらない。

 

ダンテス・ダイジも『三歳の童子』の全能感、つまりエデンの園における神と一体であることをアプリオリに感じ、生きていることについてほのめかしているような部分がある。

 

霜を履んで堅氷至る。3歳を過ぎて万人一斉に神を喪失するが、それからの神への再アプローチは各人に任されている。神への喪失に直面するということは自分自身に出会うということであり、堅氷を見つめ打ち破って行くことに取り組むということである。

 

3歳以前の子供が、自分の前世はこれこれで私が誰それの生まれ変わりなどと語ることもあるが、それは神の喪失という決定的な事件に比べれば些細なものだと思う。

 

(出口王仁三郎の随筆玉鏡の再生に以下エピソードがある。

『王仁三郎の長男六合大(くにひろ)の葬儀に当り王仁は遺骸に向つて「大本は男の子は育たぬのであるから、今度は女の子に生れてお出で」と言った。

 

すると、満一年後尚江が生れ、彼女が三歳の時、背負って六合大を祭つてあるところにつれて行くと、突如背中から

 「ここには私を祭ってあるのだ、私は六合大さんの生れ替りじゃ」と叫び出したので、王仁もゾツとした。』)

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ノストラダムスの純粋なきらめき-1

2023-05-02 10:19:46 | 究極というものの可能性neo

◎火の神ウルカヌスとヘルメス

(2008-05-24)

 

ノストラダムスの大予言関連本は、1999年7月が過ぎてからは、ぱったり出版されることがなくなった。不安を興味本意に煽っただけでは何も解決しなかったのだ。

 

ノストラダムスの大予言は、アカシックレコードに映じた様を4行詩に著したものだと思う。だから、正確に解読するためには、自分が自ら過去未来何千年のアカシックレコードを一旦見てみる必要があるのではないか。

 

つまりその見え方は、出口王仁三郎の云うように「過去、現在、未来が一度に鏡にかけたごとく見ゆるものであって、あたかも過去、現在、未来の区別なきが如くにして、しかもその区別が歴然推断され得る」なので、この状態で初めて4行詩が何のことを言っているのか確定できるものだと思う。

 

『日の国はメルキュールによってエクリプスを隠す

 

第二の空にしか置かれない

 

火と金属の神(ヴュルカン)により エルメスは祈らされる

 

日の国は純粋なきらめきとブロンドを見るだろう。

(諸世紀四巻29)』(大予言・日本編/五島勉/祥伝社から引用)

 

メルキュールを冥想技法と見れば、日本は伝承された冥想技法によりエクリプスである終末の大峠を乗り越えていくだろう。またその大峠=カタストロフィの間は、第二の空に置かれるだろうということか。

 

終末のメイン・シナリオであるハルマゲドンの戦の行なわれる空を第一の空とすると、第二の空にしか置かれないとは、日本はヘルメスの祈り以後は、しばし戦場にはならないだろうということだろうか。日本は、第二次世界大戦後の六十年間は戦場になっていない。

 

メルキュールは、メルクリウスのことであって、ヘルメスのこと。火と金属の神は、戦争の神であるマースであるが、マース(ウルカヌス=ヴュルカン)である戦争の惨禍を目の当たりにして、ヘルメスが日本を第二の空に置く祈りを強いられる。

 

さてエルメスはヘルメスのことだが、ヘルメスの祈る姿をノストラダムスは「純粋なきらめきとブロンド」と見たと考えるのが素直だろう。そこでノストラダムスの見た「純粋なきらめきとブロンド」は大弥勒のことと思い当たる。

 

火の神ウルカヌスは、炉に向かう錬金術師としても錬金術書では表現されるが、この詩のウルカヌスがヘルメスを観請したというくだりが、どうもハイレベルのご神業というべきものではないかと思われ、この詩の最大の眼目のように思う。

 

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出口王仁三郎の七福神

2023-04-14 11:56:21 | 究極というものの可能性neo

◎七福神の楽遊び

(2016-03-14)

 

出口王仁三郎は、七福神をことのほか重視し、その七柱にそれぞれ自ら扮装して写真まで撮影させている。現代に伝えられる多くの神話、神劇の最後に至福千年の到来が描写されているが、それに倣ったもののようだ。

 

この時代は、人間にとっては悲劇である世の大峠に向かう時代であるが、泥海を経て幸運にも生き残れば、千年王国ならぬ七福神の楽遊びの時代が到来する。

 

出口王仁三郎の随筆から

『七福神は神のあらゆる美徳をあつめたものである。

 

 これまでの大黒は仏の大黒天のことで、大黒主のことである。

本当は素尊の御子大国主命のことである。

大国が槌をもつてゐるのは土地開発の意味である。

 

 恵比須が鯛を抱へてゐるのは、国体保護の意味である。

 

 寿老人は長寿を表はしたものである。

 

 福禄寿は長者をあらはし、人を支配するのである。頭の長いのは頭の象徴である。

 

 布袋は太腹で杖をもつてゐるのは、人を指揮することを意味してゐる。

 

 弁天は芸術の神である。それで琵琶をもつてゐる。

 

 毘沙門は武力を表はしたものである。』

(玉鏡/出口王仁三郎から引用)

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釈迦の実力

2023-04-09 17:54:28 | 究極というものの可能性neo

◎ウダーナヴァルガ

(2009-05-18)

 

釈迦の名を借りた経典は多い。その中で釈迦本人の言と言われる数少ないものが、ウダーナヴァルガ(感興のことば)。

 

『25.来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。――――それが苦しみの終滅であると説かれる。

 

26.水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ---、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

 

27.そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

 

28.さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いがなく、後悔のわずらいのない人は生存の矢を断ち切った人である。これが彼の最後の身体である。

 

29.これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。』

(真理のことば感興のことば/中村元訳/岩波文庫P244から引用)

  

修行の基本は、悪を為さず、善を為すこと。そこから始まって、地水火風の四大・四元素もない現象の生起しない世界に踏みいる。そこには光も闇もない。

 

これはもはや人間個人の世界ではなく、それを描写するに値する言葉もない世界のこと。第六身体以上の世界でのこと。

 

ウダーナヴァルガには所々に、解脱する人は最後の肉体であることが語られているが、今生で解脱するような人は輪廻転生の最終ターンとしての肉体であることが、堂々と指摘されている。さすがに釈迦であり、そのフランクな語り口で重厚な真実を惜しげもなく述べている。

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熟睡中の夢も見ない状態

2023-04-09 16:49:41 | 究極というものの可能性neo

◎神性の具現
(2009-06-01)

ウパニシャッドでは、インドラの師であるプラジャーパティが、「人が熟睡して、精神統一され、一点の曇りもない時に人は夢を意識しない。これがアートマンである。それは不死なるものであり、ブラフマンである」と説明したところ、

インドラは、「熟睡中の夢も見ない状態がアートマンであるという説には何のメリットもない」として納得しなかった。こうしてインドラは101年間プラジャーパティの下で修行をすることになった。

プラジャーパティの別の説明:
風や雷鳴は身体を備えていない。これらのものは、かの空間から立ち上がり最高の光となった後、それぞれ自らの形をもって現れ出る。

それと同様にアートマンはこの身体から立ち上がり最高の光となった後、それ自らの形をもって現れ出る。
(参考:人類の知的遺産・ウパニシャッドの哲人/講談社)

プラジャーパティの別の説明では、アートマンはかの空間である死の世界で発出して、最高の光に起源を持つが、その後個別性を持ってこの世に現出するというアートマンの位置づけを知り納得している。

つまり我々個人は熟睡中の夢を見ない状態でアートマンに帰り(アートマンに個別性はないが・・・)、その後個別性を持って夢の世界より帰還するのだが、それは個人の側から見た説明であって、アートマンの側からみれば、そのメカニズムこそが人の神性の具現であるということになるのだと思う。

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シルヴィウス溝

2023-03-10 17:02:42 | 究極というものの可能性neo

◎臨死体験の再現

(2018-04-08)

 

側頭葉にあるシルヴィウス溝を電気刺激すると、臨死体験が起きるなどと、メルヴィン・モースが言っている(NHKの立花隆の「臨死体験」という番組でそうしゃべっているシーンがある)。

 

臨死体験というのは厄介なもので、生還してこそ臨死体験であり、戻らなければ逝去である。臨死が生還になるための条件は厳しく、迅速な予後が必須である。

 

脳を物理刺激していろいろやってみるのは昔からある。ペンフィールドは、意識がある患者の頭蓋骨を開けて脳のいろいろな部位を刺激して何が起こるか見てみたし、スタニスラフ・グロフはLSDを与えて実験したりした(それが合法だった国でやりました)。

 

臨死体験あるいは、死の体験がキーポイントになることはチベット密教に限らず宗教シーンでは知られている。

 

チベット密教では、アジナー・チャクラの重要性に神経質になるあまり、額の中央の何センチか奥を金属器具で刺激するという技もあった。

 

脳のどこかを刺激する。それは電気あるいは物理刺激かもしれないし、ソーマなどの薬物刺激かもしれないが、臨死は起こせるものかもしれないし、起きないかもしれない。

 

呼吸停止、脈拍停止、脳死は起きるかもしれないが、脳刺激からそこに至るまでの仔細を意識清明のまま隈なく感知できていれば何が起こったかを理解できるだろう。

 

だがその感受性と冷静さ、そして生還できるという運がなければ、臨死体験において体外離脱した、トンネルを抜けた、天国の花園を抜けたなどというレポートを出してくることは叶わない。まして大悟覚醒をや。

 

臨死体験というと低俗心霊ネタに分類されることが多いのかもしれないが、道教の慧命経では、イラスト入りで人が体外離脱し、中心太陽に飛び込む様が描かれている。臨死体験は、競泳に例えればプールの縁に腰かけただけだが、腰かけるのは、物理刺激でできるかも知れないが、完走できるかどうかとは全く別物なのである。

 

泳ぎだしたが、ゴールとは全く違った方向に行ったり、プールの底に沈んでしまったり、スタート地点から動かなかったり。

 

これについて証明、証明というが、人が臨死を試せるのは、その肉体と脳に与えるダメージを考えるとせいぜい一回。証明は再現して初めて証明なので、再現などできないから一人の人間で証明することなどできない。

 

六度死んだ出口王仁三郎など例外中の例外である。

 

それは危険極まりないが、人間最奥の秘密もその先にしかないのだと思う。

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肉体とアストラル体の分離と健康喪失

2023-02-27 17:37:17 | 究極というものの可能性neo

◎それでもオレたちは窮極へ進む

(2020-11-09)

 

OSHOバグワンの最初の肉体とアストラル体の分離は、彼にとって大悟の前奏だった。分離した時に、彼は肉体とアストラル体間に銀色のクンダリーニのエネルギーコード(霊線)がつながっていることを目撃。

 

だが、最初の分離以後の半年で、肉体とアストラル体の分離は約六回発生。その結果、彼は寿命が十年短くなったと感じ、胸毛さえも白くなったという。

 

肉体とアストラル体はもともと相互に自動的な調整、調和を行っているのだが、一度でもこの分離、アストラル・トリップが起こると、その自動制御システムは破壊される。OSHOバグワンは、この破壊によって、有名ヨーギが短命に終わる例として、シャンカラチャリヤ(ヒンドゥー教の最高指導者であるシャンカラ派の寺院の法主の尊称)が33歳で死んだことやヴィヴェーカナンダが36歳で死んだことを挙げている。

ラーマクリシュナは、50歳で喉頭ガンで逝去。ラマナ・マハルシも71歳でガンで逝去。これらもその自動制御の喪失が原因であって、肉体的な原因ではないとしている。

 

おまけに(肉体とアストラル体を分離したことのある)ヨーギは不健康だとし、一旦分離が起きたら元の自動調整が戻ることはないと断言している。自動調整の復元の必要性について、その必要も復元する目的も意味もないとする。

(参照:死ぬこと生きること/OSHOバグワン/市民出版社P30-32)

 

冥想修行には肉体の健康が必要であるという大前提は百も承知の上で、ダンテス・ダイジが、『健康が人間にとって何を意味するのか?』と思わせぶりに発言していたのは、この辺のことを言っていたのだろうと思う。

 

究極に至る冥想修行では、アストラル・トリップでなく、メンタル体での離脱が問題になるが、一度肉体を離脱したら、健康がのっぴきならない問題として意識されることはないと言っているのだろう。

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人はどうやって超人になるか

2023-02-27 17:34:40 | 究極というものの可能性neo

◎四つの身体の純化と正師の助け

(2022-02-09)

 

『聖なる科学/ユクテスワ/森北出版』の最後の方に、人はどうやって超人になるかについての説明がある。

 

その方法は大別して二つであり、一つは四つの身体の純化、もう一つは正師の助けを得ること。

 

四つの身体の純化とは、

1.肉体の純化は、正しい食物や環境によってなる。

2.エーテル体の純化は、感覚と利己心の制御によって、いかなる環境にも心の平静を妨げられないことによってなる。

3.アストラル体あるいはメンタル体(これらが磁気的身体と思われる)の純化はマントラと呼ばれる呼吸の制御によってなる。

 

正師の助けを得ることについては、シャンカラチャリヤの言葉を引いて、『人生は、蓮の葉の上の水滴のように不安定で、たえず苦難にさらされている。

しかしたとえわずかな間でも聖者と交われば、救いを受けることができる』(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P91から引用)

とする。

 

聖者の助けは万能だが、わたしは準備のできた者、資格のある者(公的資格なんぞではない)だけがそれを得られると思う。だが、聖者に出会うこと自体奇跡のようなものではあると思う。

 

これも『乾いた道』なのだろうか。

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暗夜から光へ-11

2023-02-22 18:16:06 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-8

(2006-09-09)

 

バーナデット・ロバーツは、ついに見た。

 

『それは冬の末のことでした。

川には2年前の山火事の焼け屑で一杯の泥水が流れていました。毎日私と息子は川岸で増大する流れを測り、息子は素早く流れ過ぎる木材を的にして、石を投げたりしました。

 

ある日、息子の来るのが遅れ、私は一人で川岸に降りて、木々が海に流れ下るのを見守っていました。

 

その時何のわけもなく、私の顔に微笑が浮かび、その瞬間に私は「見た」のです。ついに私は見ました。そこで見たのは、微笑そのもの、微笑するもの、微笑が向けられたもの、この三者が相互に区別されずに、ただ「一つ」になったものです。それもどのように一つになっているかをごく自然に見ただけで、それ以上の洞察や幻視などはないのです。

 

私は、自分の見たものを心に止めておくことができませんから、そのまま川の流れを見つづけ、その後少し歩きました。「通路」がもう終わっていることがわかりましたが、何もかも前のとおりで、何も変わっていなくてほっとしました。「見た」ということに何か特に素晴らしいことがあるとすれば、すべてがいつものとおりで、何も変わっていないことでしょう。(中略)

 

私に分かったことは、微笑が向けられた未知の対象が、その主体と同一であり、それがまた微笑自体であるということです。これは一体何でしょうか。これこそ自己がなくなった後に残っているものなのです。微笑という姿で「不可知のもの」が示現されたと言っても良いでしょう。ここで見たものは極めて重大ですが、心で把握することはできないのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P60-61から引用)

※通路:狂気と絶望を超えた窮極への通路

 

キリスト教風に言えば、微笑そのものは、父なる神、微笑するものは、聖霊、微笑が向けられたものは、人であり、ここでは三位一体を微笑という形で見たことが分かる。彼女は神を微笑として見たのだ。

 

神を最初に見た体験と、三位一体の構造で世界を把握した体験は、別であり、他の見者、たとえばイグナティウス・ロヨラの述懐においても、三位一体を見る体験は格別のものであり、大きな驚きと感動をもって受け入れられている。従って三位一体というのは、求道の頂点のシンボルとして、世界の秘密の開示として登場してくるのだろうと思う。

 

前回記事では、バーナデット・ロバーツが完全に見る準備がまだできていなかったせいか、肉体クンダリーニが上がる症状もみられていたが、ここではその症状も消えたようだ。

 

彼女の体験の記述は、十牛図でいえば、自己喪失とは、牛がいなくなったということなので、牛がなくなった第七忘牛存人のことが中心で、ここで第八人牛倶忘に到達したのだと考えられる。

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暗夜から光へ-10

2023-02-22 17:02:11 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-7

(2006-09-08)

 

その後彼女は、氷の指と呼ばれる虚無と、一瞬の油断もなく向き合うはめになった。

神に対して自分を捨てたつもりだったが、捨てた相手は実は無だった。自己を捨てた向こうには神はいなかった。

 

氷の指は、彼女にとって、ある時は発作的な狂気の恐怖、ある時は更年期障害かと思われたが、それが何であるとしてもその時は打つ手がなかった。

 

『この指は長く見つめるほど接近して、時にはほとんど触れそうになり、それから急に退きます。それは絶えず動いているように思われました。初めのうちの私の反応は、鳥肌がたったりぞっとしたりする位でしたが、そのうちに頭に火がついたように熱くなり、目の中に星が一杯見えるのです。その時私の足が冷え始め、その冷えが次第にのぼって、頭を除いた全身に及んできました。とうとう私は痙攣を起こして激しく動悸したまま背後に倒れてしまいました。

 

私は今にも真二つに割れてしまうと思いました。「氷の指」が私の身体を裂く間、いつ割れるかと待ったのですが、無限の時間のように思われました。内には何の動きもなく、恐怖もどんな感情もありません。(中略)

 

次に気がついた時、恐ろしい相手はいつのまにか立ち去っていて、私は身体の感覚を全く失って、深い静寂の中にいました。すこしたってふと振り向くと、一尺ばかり離れたところに立つ野草の小さな黄色い花が目に入りました。

 

その時見たことはとても言い表せませんが強いて言えば、その花が微笑んだのです。全宇宙からの歓迎の微笑というように、私はそのまま目もそらせず身動きもできずに、その微笑の強烈さに耐えていました。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P46~47から引用)

 

それ以後、彼女は虚無の氷の指に出会うことはなくなったが、自分の存在の感覚もなくなった。彼女は、目に見えている時だけは自分があると思っても、祈っている時や何もしていない時は身体が溶けてなくなっているようだと感じていた。

 

彼女は、しばしば頭が燃えるように熱くなったといい、この場面でも、明らかに肉体レベルでクンダリーニが上がって頭が熱くなっている。残念なことに途中で気絶してしまい、そこで起きたことを知ることはできなかった。そこで起きたことを直視できるほどの情熱が足りなかったか、魂の成熟度が不足していたかという説明になるのだろう。醒めたままでいられなかったのだ。

 

ここまでの経過を見ると、自己を失うということは、既成の世界認識を失うということでもあるが、彼女の場合はそれが徐々に起きていった。この虚無との溶解の段階まで来ると、自己喪失という狂気と絶望を超えたトンネルの出口は近くなっている。

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暗夜から光へ-9

2023-02-22 16:54:08 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-6

(2006-09-05)

 

山から降りて、海に臨むキャンプ場に向かったバーナデット・ロバーツは、虚無と直面することになった。それまでの彼女には、「一なること」に達せられたという大きな解放感があった。

 

そして、それまでは常に「大いなる流れ」「一なるもの」と他のものの区別がない立体鏡で見えていたのが、この海岸にきた途端に、すべての差別が溶解していく先が得体の知れない虚無になってしまった。

 

『しかし絶えず虚無をみていることが、耐えがたく恐ろしいとしても、私がある朝海岸を歩いていて出会ったことに比べれば何でもありません。

 

私は突然周りのすべての生命が完全に停止してしまったのに気がつきました。どこを見ても恐ろしい虚無がすべてのものに進入して生命を奪ってゆくのです。皆忍び寄る虚無に息をつまらせ、断末魔のうめき声を発する他ないのです。生命が急に抜け落ち、その後には死と崩壊しかありません。

 

これは奇怪な恐ろしい光景で、こんなものを見てはもう誰も生きていられないと思いました。わたしの身体はその場に凍りついてしまったのです。

 

一瞬思ったのは、この光景から目をそらせ、何らかの説明を与えて片づけること、合理化してしまうことでした。しかしその途端に、私にはその手だてが何もないことに気がついてはっとしました。

 

そしてその時はじめて、自己と呼ばれるものは、絶対の無を見ること、生命の欠如した世界を見ることから人間を防いでいることがわかりました。自己がなければ、この虚無に直面するのを避けるすべはなく、直面してはとても生きられないのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P39~40から引用)

 

彼女は、この「恐怖も起こらず、逃げもできず、虚無を見守り続けるという生きた心地もない状態」から、海岸から2キロも駆け降りることで、逃げおおせることができた。

この虚無の恐怖を、彼女は氷の指と呼んでいる。これはあらゆる様相の恐怖と狂気が寄せ集まったもので心理的な殺し屋だとしている。

 

そしてまた、自己を脱ぎ捨てることは、どんな敵がいるかわからないところで武器を手放すようなもので、全く狂気の沙汰であると評価している。

 

まことにもって自我をなくす、自己を捨てるということは、神に対してオープンになっていくのと同時に、悪魔に対してもオープンになるということという危険性をはらむものであることがよく分かる。彼女は、虚無が悪魔だとは言っていないが、ここは自己を捨てることは捨てたが、捨てきれていない揺り戻しと見たい。捨てきるというのは、とても難しいものなのだと思う。

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