アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

暗夜から光へ-8

2023-02-15 18:28:59 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-5

(2006-09-04)

 

その後、バーナデット・ロバーツは、四人の子供の母親としての日常生活を継続することができなくなって、シエラ山の森林で雪が降るまでの5か月間キャンプをすることになった。家の中での雑事や雑音にはとても耐えられないし、絶えず起こる混乱に対処するための力が失われていたので、四人の子供の母としての役割を果たすことはできなくなっていた。

 

あらゆることを管理する自己がないので、肉体の条件反射だけで対処せざるを得ないが、それでは参ってしまうと感じ、長い間静寂を乱されずに自然に接することが必要だと考えたのである。

 

山の中での生活では、

『一言でいえば、今までただの一日もほんとうに生きたことはなかったと思ったほどでした。確かに私は「大いなる流れ」の中にいて、それと一つになっていました。そういう時によく言われるような、エクスタシーとか愛とか歓喜というような言葉が無意味になるほど、単純明瞭に一つになっていたのです。

 

森の生活には投げやりや怠慢の入る余地はなく、そこではすべてが鋭敏に感知され、はつらつとしています。しかし自由な生活というようなものではなく、「大いなる流れ」に引き込まれてすべてが流れて行き、少しでも流れの外に出て休んだりするひまはありません。つまり余計なものはただの一つもないのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P29から引用)

 

大徳寺の大燈国師が悟りを開いた後に、京都の鴨川の川原で何年も乞食をしていたが、これは、聖胎長養とよばれ、漠然と悟りという神秘体験を日常化・定着化するものだと理解していたが、この心境の流れを見ると、ものの見方が100%逆転してしまっているので、聖胎長養というものをしないと、とてもではないが、日常生活に適応していくことはできないので、そのための訓練という側面があるように感じる。勿論これは人間社会の側からの見方ではある。

 

また山に入って自然そのものの生活リズムに入り込むことが、逆転したものの見方をノーマルな形で調節していく機能があることがわかる。ここに修験道という、山での修行を本旨とした修行の存在意義、必要性というものが現れてくるように思う。バーナデット・ロバーツに限らず、神の側に取り込まれ始めた人が、山や野での生活に本能的に入って行くのは、このような背景を抱えてのことではないかと推察することができる。

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暗夜から光へ-7

2023-02-15 18:20:04 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-4

(2006-09-03)

 

『この10日ばかり後にビッグ・サーの修道院で静修をしました。その二日目の午後遅く、海を見下ろす丘に立っていた時、かもめが一羽風に乗って滑るように飛んできました。私はそれを生れて初めて見るように眺めました。まるで催眠術にかかったようで、かもめと私の区別がなく、私が飛んでいるのを見ているようでした。

 

しかし区別がないというだけではない何か、本当に美しく未知の何かがそこにありました。そののち私は修道院の後ろの松林の丘に目を転じましたが、やはり自他の区分がなく、一つ一つのものと風景全体をとおって、「何か」が流れていました。すべてのものが合わされた「一なること」を見るのは、まるで特殊な立体鏡をのぞいているようでした。

 

そこで私は、ああ神はどこにもいるというのは、このことなのだと思ったのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P26から引用)

 

カモメと私の区別のない体験は、荘周胡蝶の夢と同じである。荘周胡蝶の夢とは、荘周が夢の中で胡蝶と化して楽しく飛び回り、自分は胡蝶なのか荘周自身なのか、区別できなくなったという故事。自己というものがなくなりつつある過程の中で、神が自己の側に到来・浸透しつつある段階において、この状態が、起きていることに注目したい。荘周は、老荘の荘子のこと。

 

また自他の区別がない見方において、はじめて「神がどこにでもいる」ということを実証、納得するものだということがわかる。「神がどこにでもいる」は、ちょっと爽快で高揚した、しみじみとした気分の時には感ずることがあるものだが、ホンチャンの「神がどこにでもいる」実感は、このレベルで初めて出てくるものなのだろう。

 

そして、すべてのものが、本当に美しく未知で、初めて見る見知らぬものであるという印象。これぞ、自他と区別のない「見方」で特有の印象なのだと思う。この辺がバーナデット・ロバーツの体験が正統的なものであるという証左だと感じる。

 

蛇足だが、龍も天使も出て来ていないことにお気づきと思います。

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暗夜から光へ-6

2023-02-15 17:45:45 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-3

(2006-09-02)

 

彼女には四人の十代の子供がいた。

 

自分の内部に何もなくなった彼女は、次に外を探し求め、枝をつかんだり、土を手ですくったりして、自分の中には何もなくとも、あたりに生命があふれているので、これで良いのだと思った。

 

当時家の中にいると、あまりにも機械的で、索漠として耐えがたく、自分の力がないので、最小限の日常の仕事をするのがやっとの状態だった。そこで一週間丘や川岸や浜辺を歩き回り、戸外にあふれる生命を感じ、忘却と平安の中にいるようにした。

 

けれども、彼女の中に生命がないのと同様に、個々の松の木や野の花にも生命がないけれども、あたりは生命に満ちているという、つまり周囲の自然のどこかに生命があるだろうという予期の中にあった。

 

そして、絶壁の上にある糸杉の根の間で坐っていた時にバーナデット・ロバーツは、自然の秘密を見た。

 

『個々のものの中に神あるいは生命があるのではなく、逆にすべてが神の中にあるのです。それも海中の一滴というようにそこだけ取り出せるというものではなく、うまくいえませんがたとえばゴム風船の一点のように、そこだけを切り離せば破裂して全部なくなってしまうというようなものです。

 

何ものも神から切り離すことはできないので、別々であるという考え方を捨てさえすれば、神であり、生命でもある全体の中にすべてが戻っているのです。(中略)

 

以上の洞察で新しい扉が開け、私は物事を別の見方で見るようになり、生命を捜し回るのを止めました。生命は明らかにどこにもあり、実はそれしかないのです。(中略)

 

自己を捨てたのは、私でなく神でした。そして自己を超えてしまえば何もかも、私が残ると思っていた「それ」さえもなくなってしまうのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店から引用P24-25)

 

バーナデット・ロバーツは、最初に内に生命を求め、次に外に生命を捜すというあてのない試行錯誤に苦しんだ。その結果、すべてが神の中にあると知った。

 

ここで特徴的なことをいくつかあげると、彼女には特定のグル・師匠がいなかったこと。キリスト者でありながら、そのシンボルである「神の栄光の中にあるイエス」なんかを見なかったこと。この点で、毎日観想に明け暮れていたイグナティウス・ロヨラがキリストの人間性を内的な眼で見たりしたのとは相当に異なっている。彼女は観想はあまりせず、生活者だったからだと思う。日常生活を普通に営みながら神を求めていく人の、神に行き着く形の一つの典型はこのようなものなのだと思う。

 

自己を捨てたのは、私でなく神と述べているので、これは第三夜の特徴。

 

そして彼女は、知性は普通の常識的な考え方から出てくるものなので、本当の洞察を汚すような動きをするから、本当の洞察を知性で操作、評価しないことが大切と指摘する。

 

彼女の境地は更にこの後深まりを見せる。

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エノクは神に連れ去られた

2023-02-14 16:37:44 | 究極というものの可能性neo

◎さてその後は死ぬるばかりよ

 

古代ユダヤでは、どうもエリヤとエノクがクンダリーニ・ヨーガの奥義を体得した人物のようである。2人とも死んでいないとされるからである。

 

エノクは、ノアの曾祖父であって、旧約聖書創世記5章に、

『エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。

エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。

エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。

エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。』

とあり、召命の後、死んではいない。

 

 

よの中はくうて糞して寝て起きて

さてその後は死ぬるばかりよ 一休 

 

このデリカシーのなさ。

けれども“死ぬるばかり“になりきらぬと、死の本性が見えてこないのであって、前半の” くうて糞して寝て起きて“ばかりに気を取られると、生き地獄から抜け出せないままに終わる。

 

幸運にも抜け出したのが、エノク。

 

エノクはこの世の初めから終わりまでを語り聞かせ、予言したというが、これは、悟った人はそういうのをなぜか語りたがるものだ。

 

エノクの生きた超古代には、文化、時代の風光、言葉、流行語などあらゆるものが今とは違っていたのだろうが、時代を超えたものだけが、あるいは今の時代に通用するものだけが、聖書外典などで伝承されてきたと思って間違いないのだろうと思う。

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暗夜から光へ-5

2023-02-12 16:54:52 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-2

(2006-08-30)

 

バーナデット・ロバーツは、自己の中心が消え、そこに残った空虚と沈黙と歓喜こそ神自身に違いないと踏んで、その内部を見つめていた。

 

『ある時このように喜びを求めて内部を見つめたところ、突如この空虚が急速に拡がり始め、今にも爆発しそうになりました。

 

そのとき私はエレベーターで100階も落ち続けるような気分を胸元に感じ、生きている感覚がなくなってしまいました。落下し尽くして底に着いたときに、はっきりと分かったのは、人格的な自己がない時は、人格的な神もなく、この二つは互いに相伴うものだということでした。その二つがどこに行ってしまったのかは、ついにわかりませんでした。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P20から引用)

 

これ以後、彼女からは、「生きている」という感覚が失われ、内部がないということを知ったので、内的生活は終りになった。夕食の支度をしても動作がひどく機械的でロボットになったようであり、自分で自分が何かをしているという感じがなく、すべて条件反射で動いていた。

 

「生きている」という感覚が失われる状態は、神との合一の前段階として、しばしば現れるものであるが、生の感覚を確認するために自傷・リストカットする人もいて、それが単に精神病の一症状に過ぎないケースもあることはいうまでもない。

 

自分の内部に何もなくなった彼女は、次に外を探し求めることになった。

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暗夜から光へ-4

2023-02-12 06:49:48 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-1

(2006-08-29)

 

カトリックの冥想の進行は、例の冥想十字マップでいえば、垂直方向ではなく、水平方向に進む。十字架の聖ヨハネの第三夜は、神から個人への働きかけが主となる受動的な段階のことであるが、ヨハネは詳述してはくれなかった。

 

ここに第三夜の一つの例と思われる世界を見つけた。それは、バーナデット・ロバーツというカリフォルニアの中年女性が入った世界である。

 

『私が住んでいたところの近くの海のそばに修道院があり、わたじは午後暇があれば、よくそこの静かな聖堂で過ごしました。事の起こった日の午後もそこにいて、いつものように深い静寂に引き込まれ、それを破る恐怖の来るのを待ちましたが、それがなかなか来ないのです。

 

恐怖の期待か潜在的な恐怖によるのかわかりませんが、私はしばらくのあいだ不安定な状況に置かれ、自己と「不可知のもの」の間にある断崖に渡された一本の綱の上に立っているようでした。今度は向こう側に行ってしまうのか、それとも恐怖が起こっていつものように戻れるのか、それは自分で決定することができません。

 

身動きできないまま、内ではすべてが静まり停止しています。そのうちいつのまにか緊張が消え、それでも何か変化が起こるのを待っていましたが、それも起こらないまま深い沈黙の中に留まっていました。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P15-16から引用)

 

その後の三日間は、深い沈黙の中に呑み込まれまいとする意識的努力を繰り返しながら家事をするが、疲れ切って座り込んでしまい、その途端に意識を失い、夢も見ず、周りを意識しないのが数時間も続いた。

 

9日くらいたって、段々普通の生活ができるようになって来たが、何かが欠けているという感じがあってそれを特定することはできなかった。

 

この感じは最初は記憶が失われたと感じ、後に「不可知」なるもの、つまり神に引き込まれたと解釈していたが、それでも納得できず、図書館へ行き、この体験を説明してくれていると予想した十字架の聖ヨハネの本を読みあさったが、この神秘体験について書いてはいなかった。

 

つまりこの神秘体験は、十字架の聖ヨハネの暗夜の第三夜以降のものと考えられるのである。第三夜特有の受動性もある。

 

バーナデット・ロバーツは、図書館の帰途、自分の内部にあるはずの中心がなく、そこは空っぽであることを知った。

その瞬間、静かな喜びがあふれてきて、なくなったものは自分の自己であることが分かった。

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暗夜から光へ-3

2023-02-11 20:04:46 | 究極というものの可能性neo

◎第二夜について
(2006-08-25)

十字架のヨハネは、神との一致には次の3つが必要であると見る。
知性による信仰、記憶につながる希望、意志による愛である。そして、知性(理性)、記憶、意志それぞれが暗夜になる原因でもあると見る。

1.理性の暗夜
十字架の聖ヨハネは、神および霊的なものとの関連をもつ、理性的な高い部分についても、やはり同じように目をつむって、真っ暗な状態にとどまらなくてはならならいと言う。つまり理性は、不可知の暗夜を作り出すことになるのである。

というのは、超自然的な魂の変容と神との一致は、理性の捕らえられるところではないので、暗黒になるべきであるのは明らかであると説明している。カトリックの道で、光を持つためには、自らは闇の中にいなければならないのである。

こうして自分の理性を捨て、自我を捨て、無になったところに神が働くとする。

2.記憶の暗夜
神との一致の始めには、記憶の忘却と、想像の停止が起こる。希望は記憶を消去してしまうのである。この段階では、時に自分自身をすっかり忘れてしまうため、何かを思い出そうとすると非常な力と努力を要するほどだと言う。

『神は記憶によってとらえられるような形やイメージを持たないので、記憶が神と一致する場合には、(毎日の経験においてみられるように)何の形もイメージもなく、想像も絶えて、記憶は全く忘却のうちに一言も思い出すことのない至福の状態に置かれる。というのはその神的一致は、イメージをなくし、形や概念のすべてを一掃し、記憶を超自然へと高めるからである。』
(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)

3.意志の暗夜
  意志による愛を貫きとおすために、意志の暗夜がある。そのためには神のために意志力を蓄える必要があるが、その力を散漫なものにする障害が、乱れた欲望であったり、よこしまな執着であったりする。具体的には、神以外のものに対する喜びと期待、また神以外のものに対する悲しみと恐れである。これが意志の暗夜と呼ばれるもの。

現代人は、神以外のものに対する執着が強いことが普通なので、それは一種の意志の暗夜であるといえる。
「神は彼らを、そのよこしまな心のままにゆだねたもうた。」聖パウロ

こうした暗夜を超えて、神との一致に進んでいく。

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暗夜から光へ-2

2023-02-11 19:58:19 | 究極というものの可能性neo

◎第一夜について

(2006-08-24)

 

カトリックの冥想プロセスに特徴的なものではあるが、神の観想を進めていくと、自分はすっかりダメな奴で、悪と罪に満ち満ちた者であるという、苦悩と困窮に追い詰められるものである。これは、神の認識の光に照らして自分を見つめると、自ずとそうなっていくものである。

 

もちろんそうした状態は、ノイローゼだったり、うつという病的な精神状態に過ぎないのか、それとも神との一致に進む途上の正統的な「暗夜」なのか見分ける必要がある。

 

カトリックでは、観想法が用いられているところが特徴的である。禅では観想法はなく、クンダリーニ・ヨーガにはあり、たとえば日本密教(真言、天台)でも月輪観など観想法がある。

 

第一夜は、感覚的な欲望の暗夜がテーマ。

まず神と合一しようとする精神的な愛の炎が絶えがたいほどに燃え上がらないと、感覚的、官能的なものへの誘惑を退けて、感覚の暗夜に入っていこうとする勇気が起こらない。

その勇気をもって、欲望を弱め、静めていくと、いつしか感覚的な暗夜を通過したことに気づく

 

第一夜に該当する詩句

 

『暗き夜に

炎と燃える、愛の心のたえがたく

おお幸いなその時よ

気づかるることもなく出づ、

すでに、我が家は静まりたれば』

(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)

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成功ほど失敗するものはない

2023-02-06 20:59:00 | 究極というものの可能性neo

◎非二元、ノンデュアリティだけでは

(2016-03-09)

 

最近覚醒剤で逮捕された野球の○○選手は、かつては金も名声も地位も得た世間的には十全の成功を成し遂げた稀有な人物だった。

 

世間一般では、世俗の栄耀栄華を極めれば万事問題なしだと言われている。しかし真相はそうではない。どんなに成功しても、権力を得ても、家庭のこと、健康のこと、自分の老化は防げないこと、何より自分の孤独であることなどは、解消などするものではない。

 

要するに世俗の面での成功は、本当の幸福とは何の関係もない。人格ですら本当の幸福とは何の関係もない。何より世の中での成功は、意識と何も関係がない。

 

世間で成功した人々は、一般にいわばとんでもなくわがままで負けん気の強い奴らなのだ。そうした人物で人当たりの良いのは、学習効果であり、そうした牙を表に出さないのがうまいだけとも言える。

 

そこで悟ったと言われる人を見れば、人間のあらゆる実感を通過した人間である。覚者も一旦は、世俗での大成功の何たるかを知ったことがあるのだ。そんなわがままで鼻つまみな時期を経過してきたのだ。

 

先入観なくみれば、釈迦が王族に生まれ、道元・親鸞・一休が貴族の係累に生まれたというのも、そうした流れとは無縁ではあるまい。

 

そうした個人の成功への思いの先に、初めて非二元、ノンデュアリティが問題となる。そうした思いが吹っ切れた人だけが、非二元、ノンデュアリティを課題とした冥想に取り組める。またその人の体質、気質、カルマを踏まえた冥想というのがあるので、その意味で正師は、それを呈示し得る師だけが正師となる。

 

非二元とは、ニルヴァーナのことを言っているつもりだろうが、両性具有を経過した先でもある。

 

※両性具有の意味は、男女という極く限定的な意味ではなく、光と闇、天国と地獄、善と悪、天と地、太陽と月、陰と陽、快楽と苦悩、欲求と嫌悪、快と不快、寒と暑、貴と賤、聖と俗というようなあらゆる反対物の一致という意味。

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君達が遭遇する事件はすべて

2023-02-05 20:19:10 | 究極というものの可能性neo

◎君達自らが招き寄せたものである

(2019-02-25)

 

他人のせいにしたりするのは簡単だ。

 

『誰の人生にも起こる様々な出来事は、

すべて自らが招き寄せたものである。

それをどう処理するかは

本人が決めることだ。』

(リチャード・バック/イリュージョン/集英社P134から引用)

 

これが、原典『救世主入門』だと、やや変わっている。

『君達すべての者に告げる

君達が遭遇する事件はすべて

君達自らが招き寄せたものである

その事件の発展の方向を決めるのは

もちろん君達であって

神ではない』

(十三番目の冥想 雨宮第慈(ダンテス・ダイジ)講話録/渡辺郁夫編P112から引用)

 

これだけ読めば、何か切羽詰まった事態に追い込まれている人に対してのアドバイスとしては、やや冷たいかもしれない。

 

だが、第六身体、有、アートマン、この一つながりのものを前提とすれば、今ここしかない今において、このアドバイスを取り出してくるのは、至極当然なのだ。だが、人間の都合には、おかまいなしのところはある。

 

自分自身のアップグレードを要求されているのだ。

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このことは憶えておく必要はない

2023-02-05 20:16:48 | 究極というものの可能性neo

◎見知らぬ世界に

(2018-12-02)

 

『このことは憶えておく必要はない

君はいつも見知らぬ世界に

いつも見知らぬ旅人としてある

君たちは常に今から

まったく新しい旅へ出発する』

(ダンテス・ダイジの原典『救世主入門』の一節)

 

見知らぬ世界の見知らぬ旅人とは、ありふれているとも言えるし、さほど頻繁に出会うものでもないとも言える。

 

酒を食らいすぎて目が覚めたら、自分が「見知らぬ世界の見知らぬ旅人」であったことを自覚したこともある。

 

山水画では、山岳河川などの大自然に比較して人物はあまりにも小さく、なぜ主人公である人間を「見知らぬ世界の見知らぬ旅人」のように一目で見えるような描き方をするのか。それは安藤広重の東海道五十三次の人物とは全く異なる構図である。

 

後に精神病者の症状の一つに「見知らぬ世界の見知らぬ旅人」である自覚を発見したこともあった。

 

『このことは憶えておく必要はない』とは、知識として理解しても何の意味もないからだとは、推測ができる。ところが、『このことは憶えておく必要はない』の狙いは、知識として理解しても何の意味もないからだとは推測ができるが、まさか『本当に自分がそうなんだから憶えておく必要はない』という意味であることを知るのは、それが起きて後の事だろうと見当はついている。

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マイモニデスの神

2023-02-02 05:55:42 | 究極というものの可能性neo

◎神の属性をイメージ

(2012-02-04)

 

マイモニデスは、12世紀スペインのユダヤ教のリーダー。4巻1000章の大部ミシュネー・トーラー(ユダヤ教法典集成)を完成させた碩学。

 

彼の神の見方は、学究肌らしく、他人に伝えるのにふさわしい言葉をさがしているが、次のような冷静な表現にとどまっている。例の体験とは言えない体験があったかどうかはこれだけでは断定できない。

同じ碩学のトマス・アクイナスのような、あるいは禅僧徳山のような、それまでに一生を捧げてきた学問をすべて捨てるシーンが出てくれば間違いないと思うのだが、そのような場面はなかったようだ。

 

『次のような彼の発言は自己告白のように響く。

「そういうわけで、人は形而上学を理解するために何十年も骨折って学問しながら、しかもその結果、神概念が否定されることになるのだ・・・・・」。

 

神認識を達成しえた静かな喜びと感謝の思いとが、讃歌のような次の言葉に表現されている。

「神は称むべきかな、神の本質は余りにも崇高ゆえ、それについて考察するとき、われらの思惟は理解に達せず、われらの知恵は、神の業が必然的に神自身の意思に由来する消息を考察するとき、愚かとなり、われらの過剰な言葉は、すべての舌が神の属性を称えようとすると、思うように話せず、口ごもり、気を失う」』

(マイモニデス伝/A.J.ヘッシェル/教文館P189-190から引用)

 

神が、単に知的なイメージに止まっている可能性がなきにしも非ずと思う。

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ユダヤ教の死者の復活

2023-02-02 05:51:14 | 究極というものの可能性neo

◎幽斎と悟り

(2016-01-12)

 

以下は、12世紀にモーゼス・マイモニデスが著した信仰の13原則。

 

『私は、以下のことを確信しつつ、信仰する。

 

一 創造主は、存在する森羅万象の作り主であり、導き手である。

 

二 創造主は唯一である。その唯一性は、他の物の唯一性とはまったく異なる。彼はわれらの神であり、永遠に存在する。

 

三 創造主には、身体もなく、物質的な特徴もない。彼は、存在する他の何ものとも比較することができない。

 

四 創造主は、万物の初めであり、終わりである。

 

五 創造主のみに祈り、他の何ものにも祈らないのは、正しいことである。

 

六 預言者たちのすべての言葉は真実である。

 

七 モーセの預言は真実である。モーセは彼以前、および彼以後のすべての預言者たちの父(すなわち、最大の者)である。

 

八 われわれが今もっているトーラーは、モーセに授けられたものである。

 

九 トーラーが将米変えられることはない。また、創造主が将来別のトーラーを与えることもない。

 

十 創造主は、人々のいかなる行動も、いかなる思いも知っている。

 

十一 創造主は、彼の戒めを守るものに報奨を与え、それに背くものを罰する。

 

十二 メシアの到来は遅れているが、人はその到来をつねに待ちわびねばならない。

 

十三 死者は復活する。』

(一冊でわかるユダヤ教/ノーマン.ソロモン/岩波書店P219-220から引用)

 

全体として、幽斎志向であり、顕斎(個別的、具体的願望成就)に傾きがちな祈りのバランスをとろうとしている。トーラーの不変を云うのはトーラーの内容が永遠から来たものであることを明かす。

 

メシアの到来はいわゆる悟りのことであると思う。また死者の復活とは、アートマンと一体化して初めて死の世界がわがものとなり、そのことをあらゆる死者が復活すると表現したのではないだろうか。

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暗夜から光へ-3

2023-01-21 19:16:27 | 究極というものの可能性neo

◎第二夜について

(2006-08-25)

 

十字架のヨハネは、神との一致には次の3つが必要であると見る。

知性による信仰、記憶につながる希望、意志による愛である。そして、知性(理性)、記憶、意志それぞれが暗夜になる原因でもあると見る。

 

1.理性の暗夜

十字架の聖ヨハネは、神および霊的なものとの関連をもつ、理性的な高い部分についても、やはり同じように目をつむって、真っ暗な状態にとどまらなくてはならならいと言う。つまり理性は、不可知の暗夜を作り出すことになるのである。

 

というのは、超自然的な魂の変容と神との一致は、理性の捕らえられるところではないので、暗黒になるべきであるのは明らかであると説明している。カトリックの道で、光を持つためには、自らは闇の中にいなければならないのである。

 

こうして自分の理性を捨て、自我を捨て、無になったところに神が働くとする。

 

2.記憶の暗夜

神との一致の始めには、記憶の忘却と、想像の停止が起こる。希望は記憶を消去してしまうのである。この段階では、時に自分自身をすっかり忘れてしまうため、何かを思い出そうとすると非常な力と努力を要するほどだと言う。

 

『神は記憶によってとらえられるような形やイメージを持たないので、記憶が神と一致する場合には、(毎日の経験においてみられるように)何の形もイメージもなく、想像も絶えて、記憶は全く忘却のうちに一言も思い出すことのない至福の状態に置かれる。というのはその神的一致は、イメージをなくし、形や概念のすべてを一掃し、記憶を超自然へと高めるからである。』

(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)

 

3.意志の暗夜

  意志による愛を貫きとおすために、意志の暗夜がある。そのためには神のために意志力を蓄える必要があるが、その力を散漫なものにする障害が、乱れた欲望であったり、よこしまな執着であったりする。具体的には、神以外のものに対する喜びと期待、また神以外のものに対する悲しみと恐れである。これが意志の暗夜と呼ばれるもの。

 

現代人は、神以外のものに対する執着が強いことが普通なので、それは一種の意志の暗夜であるといえる。

「神は彼らを、そのよこしまな心のままにゆだねたもうた。」聖パウロ

 

こうした暗夜を超えて、神との一致に進んでいく。

 

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暗夜から光へ-2

2023-01-21 19:12:04 | 究極というものの可能性neo

◎第一夜について

(2006-08-24)

 

カトリックの冥想プロセスに特徴的なものではあるが、神の観想を進めていくと、自分はすっかりダメな奴で、悪と罪に満ち満ちた者であるという、苦悩と困窮に追い詰められるものである。これは、神の認識の光に照らして自分を見つめると、自ずとそうなっていくものである。

 

もちろんそうした状態は、ノイローゼだったり、うつという病的な精神状態に過ぎないのか、それとも神との一致に進む途上の正統的な「暗夜」なのか見分ける必要がある。

 

カトリックでは、観想法が用いられているところが特徴的である。禅では観想法はなく、クンダリーニ・ヨーガ系にはあり、たとえば日本密教(真言、天台)でも月輪観など観想法がある。

 

第一夜は、感覚的な欲望の暗夜がテーマ。

まず神と合一しようとする精神的な愛の炎が絶えがたいほどに燃え上がらないと、感覚的、官能的なものへの誘惑を退けて、感覚の暗夜に入っていこうとする勇気が起こらない。

その勇気をもって、欲望を弱め、静めていくと、いつしか感覚的な暗夜を通過したことに気づく

 

第一夜に該当する詩句

 

『暗き夜に

炎と燃える、愛の心のたえがたく

おお幸いなその時よ

気づかるることもなく出づ、

すでに、我が家は静まりたれば』

(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)

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