◎バーナデット・ロバーツの第三夜-5
(2006-09-04)
その後、バーナデット・ロバーツは、四人の子供の母親としての日常生活を継続することができなくなって、シエラ山の森林で雪が降るまでの5か月間キャンプをすることになった。家の中での雑事や雑音にはとても耐えられないし、絶えず起こる混乱に対処するための力が失われていたので、四人の子供の母としての役割を果たすことはできなくなっていた。
あらゆることを管理する自己がないので、肉体の条件反射だけで対処せざるを得ないが、それでは参ってしまうと感じ、長い間静寂を乱されずに自然に接することが必要だと考えたのである。
山の中での生活では、
『一言でいえば、今までただの一日もほんとうに生きたことはなかったと思ったほどでした。確かに私は「大いなる流れ」の中にいて、それと一つになっていました。そういう時によく言われるような、エクスタシーとか愛とか歓喜というような言葉が無意味になるほど、単純明瞭に一つになっていたのです。
森の生活には投げやりや怠慢の入る余地はなく、そこではすべてが鋭敏に感知され、はつらつとしています。しかし自由な生活というようなものではなく、「大いなる流れ」に引き込まれてすべてが流れて行き、少しでも流れの外に出て休んだりするひまはありません。つまり余計なものはただの一つもないのです。』
(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P29から引用)
大徳寺の大燈国師が悟りを開いた後に、京都の鴨川の川原で何年も乞食をしていたが、これは、聖胎長養とよばれ、漠然と悟りという神秘体験を日常化・定着化するものだと理解していたが、この心境の流れを見ると、ものの見方が100%逆転してしまっているので、聖胎長養というものをしないと、とてもではないが、日常生活に適応していくことはできないので、そのための訓練という側面があるように感じる。勿論これは人間社会の側からの見方ではある。
また山に入って自然そのものの生活リズムに入り込むことが、逆転したものの見方をノーマルな形で調節していく機能があることがわかる。ここに修験道という、山での修行を本旨とした修行の存在意義、必要性というものが現れてくるように思う。バーナデット・ロバーツに限らず、神の側に取り込まれ始めた人が、山や野での生活に本能的に入って行くのは、このような背景を抱えてのことではないかと推察することができる。