アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

二は一に由って有り

2023-01-23 20:40:42 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎禅の三祖僧さんの信心銘から

(2019-02-08)

 

『二は一に由って有り

一もまた守る莫(な)かれ

一心生ぜざれば

万法咎(とが)なし』

 

【大意】

『二は、一があるからある、

だがその一にもこだわってはいけない

一心が生じなければ、あらゆる事象あらゆる生物無生物に問題はない。』

 

このように、まずここではすべての問題の根源は一心という見ている自分であるとしている。

 

『咎なければ法なく

生じざれば心なく(不生不心)

能は境に従って滅し、

境は能を逐(お)って沈む』

 

【大意】

咎がなければ、法(ダルマ)はなく、

一心という見ている自分がなければ心はない

主観(能)は客観(境)に従って滅し

客観(境)は主観(能)を逐って沈む

 

前段で一心がなければ咎がないと言っているのに、それに反して咎なければ法がないなどと、咎という無明マーヤ撲滅の修行の方向をわやにする表現が出てくる。

見ている自分が残っていて初めて主観と客観が成立。

主観と客観の関係性はこれだけの表現でははっきりしないが、続く一段で明らかにされる。

 

『境は能によって境たり

能は境によって能たり

両段を知らんと欲せば

元もと是れ一空なり』

 

客観は主観があることで客観、主観は客観があることで主観たりえる。両方知ろうと思うだろうが、どっちも『空』である、ということで、この話は空の話であることが分かる。

 

『空』はこの一なるもの、有、アートマン、サビカルパ・サマディー、チベット密教の空性の悟り。

 

空もひとつの悟りだが、『空』では、なにもかもなしには届いていないと思う。

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OSHOバグワン信心銘を説く

2023-01-23 20:35:20 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎そのような思いは、ついには一瞬にして止む

(2021-01-23)

 

歴史とは暴力を記録するもの。これに対し、聖者の言行録とは、言葉にできないものを言葉でなぞるもの。

禅の第三祖僧さんは、北周武帝の仏教弾圧下で、各地を漂泊せざるを得ず、その中で、達磨にも二年ほど仕えたらしい。

 

OSHOバグワンを読もうとする人ならば、数少ない大書店の精神世界コ-ナーやブッククラブ回などに行って、どれを読もうかと本を選ぶ。その中で「信心銘」は、馴染みのないことから真っ先に切り捨てられる本の一つだろう。その「信心銘」を読んでみる。

 

OSHOバグワンは、あらゆる「しなさい」「してはいけない」が人を殺すと言う。(信心銘/ラジニーシ/禅文化研究所P28)

 

つまり人は、「愛しなさい、憎んではいけない。」「平和を望みなさい、戦争と暴力はいけない。」「リラックスしなさい、緊張はいけない。」などと、いくらでも頭でやっている。

 

だが本来愛するのも簡単で、憎むのも簡単なことである。えり好み、好き嫌いが、他人を殺し、弱小民族を圧殺し、敵国を滅亡させ、自分を殺し、あらゆる狂気と暴力の巷を現出するのだ。

 

そこでOSHOバグワンは、息をすれば生命力プラーナを取り入れられるから「息を吸うだけで呼かないことにしよう」などと唱えてみる。なぜなら吸気は生で、呼気は死、一呼吸一呼吸の間に人は生死を繰りかえすから。だが、息を吸うだけで呼かなければ人は死ぬ。

 

えり好みをするというのは、そういうことだ。

どうすれば、えり好みをせずにすませるのか。

 

信心銘から、

「迷えば寂乱を生じ、

悟れば好悪無し。

一切の二辺、妄りに自から斟酌す。

 

夢幻空華、何ぞ把捉に労せん。

得失是非、一時に放却す。

眼若し睡らざれば、諸夢自から除く。

心若し異ならざれば、万法一如なり。

 

一如体玄なれば、兀爾として縁を忘ず。

萬法斉しく観ずれば、帰復は自然なり。」

 

これが、OSHOバグワンでは、こうなっている。

『安心も不安も迷いの故だ。

光明とともに、好悪は消える。

 

すべての是非は、無知なる解釈によって起こる。

夢のようなもの、空中の華のようなもの、

捕らえようとするのは愚かなことだ。

得だとか、正しいとか、間違っているとか、

そのような思いは、ついには一瞬にして止むべきものだ。

 

ーつの眼が眠らなければ、

一切の夢は自ずから止む。

想いがどんな区別もしなければ、

万物は、そのあるがままで

ただ一つの精髄の顕れになる。

この精髄を理解することが、

あらゆる混乱からの解脱だ。

一切が等しく見えるとき、

永遠の自己に到達している。

そこには比較も比喩も不可能な、

因果の絆の断たれた所だ。』

(信心銘/ラジニーシ/禅文化研究所P283から引用)

 

ここでは、悟りは光明だと謂い、万物の帰っていくところを精髄と呼ぶ。だが、光明も精髄も理解などという言葉も原文にはない。

一切が等しく見えるの「見える」という言葉もなく、「永遠の自己」という言葉もない。一如体玄には見る自分などないからである。

 

OSHOバグワンの見ているであろう英訳が結構いろいろ問題がある印象である。だがOSHOバグワンは、見る自分のない一如体玄はちゃんとわかっている。

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熟睡中に眠らなければ夢も見ない

2023-01-23 20:26:41 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎信心銘でアートマンの後先

(2019-05-24)

 

信心銘の続き。

『眼(まなこ)若し睡らざれば 諸夢 自ずから除く

心 若し異なざれば 万法一如なり

一如体玄なれば 兀爾(こつじ)として縁を忘ず

万法 斉しく観ずれば 帰復 自然なり』

 

※眼(まなこ)若し睡らざれば:

熟睡中に眠らない自分。ウパニシャッドの頻出テーマ。荘子大宗師篇にも寝ても夢見ないというのがある。ケン・ウィルバーが、自分では悟ったと思っていた時期に、熟睡中に眠っている自分を発見して愕然として、修行をし直した例もある。

 

※心 若し異なざれば:

臨済録に、『如何なるか是れ心心不異の処?」と弟子が問うと臨済が云く、「あなたがこれを問おうとしていることは、既に異であって、いけない。』というのがある。これに続く言葉である万法一如(ア―トマン)と心が異なってはならない。

 

※一如体玄なれば 兀爾(こつじ)として縁を忘ず:

万法一如(ア―トマン)は、この一つながりのものであって、万物も時間も空間も物質もあらゆる生物無生物の想念も感情も意思も含まれる今ここしかない今。これが玄(神秘)なのだが、ごつごつとした石くれのように取り付くしまがなく、非人間的な乾いたもの。

そこでは、あらゆる人間ドラマを起こす原因である縁すら忘れられている。

 

※万法 斉しく観ずれば 帰復 自然なり:ここで斉(ひと)しく観ずるのは、男女、天地、有無、善悪、貧富、貴賤などあらゆる区別。万法アートマンという石ころの心から一歩出て区別がスタートしたら、以前とは別の本来のナチュラルな自分らしい自分が始まる。

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智者は無為なり愚人は自縛す

2023-01-23 20:22:29 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎信心銘から

(2019-05-23)

 

禅の三祖僧璨(ソウサン。達磨の弟子の慧可の弟子)の信心銘から。三祖僧璨は、中風を病み、臨終時は立ったままだった。仏教禁令の時代を片腕のない慧可と過ごした。

 

『智者は無為なり 愚人は自縛す

法に異法は無く 妄(みだ)りに自ら愛著す

心を将(も)って心を用う 豈に大錯に非ずや

迷えば寂乱を生じ 悟れば好悪は無し

一切の二辺は 妄(みだ)りに自ら斟酌する

夢幻虚華 何ぞ把捉を労せん

得失の是非 一時に放却す』

 

※大錯:大間違い

※寂乱:寂と乱の対立、差別

※夢幻虚華:夢と幻想と空虚な華

大意:

心をもって心を用いるのは、大間違い。心が静まったり乱れたりするのは、実体のないことで、迷うから起こるもの。男女、天地、貧富、貴賤など一切の二辺の区別は、心が起こすものであって、そうした実体のないものをことさらに追うべきではない。メリット、デメリットの判断は捨て去ることだ。

 

これを哲学と見るようなことは禅者はしない。このメリット・デメリットでの区別全盛の時代に、それをほおっておくことを求める。

 

ほおっておくためには、まずスマホを離し、イアホン・ヘッドホンをはずし、テレビ・ラジオを止めることから始めなければならない。最初は、そのこと自体が惑乱と感じる人も多いのだろう。そして坐る。

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三祖信心銘

2023-01-23 20:19:37 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎至道無難

(2011-03-16)

 

禅の三祖の信心銘の冒頭

 

『至道無難唯嫌揀択

 

至上の大道は、すぐそこにあって、かれこれと七面倒くさいものではない。ただえり好みしさえしなければ、それでよいのである。』

 

「えり好みをしない」ことほど難しいものはない。

ただ「えり好みをしない」とは、正気で意識が清明であって、来るものを拒まないこと。

 

我が無くならなければそんな風にはなるまい。

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夏目漱石の禅

2023-01-20 16:48:15 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎見性失敗

(2007-12-25)

 

夏目漱石は、明治27年8月宮城県松島の瑞巌寺の南天棒に参禅し、生まれつき凡庸な素材なので、到底見性するような玉ではない(生来の凡骨到底見性の器に非ず)と、自分が全然悟れそうもないことを嘆いた。

 

同年12月今度は、鎌倉円覚寺の釈宗演に参じて、父母未生以前の本来の面目を見てこいという公案を与えられた。これは、本来の自己を徹見しなさいというものであったが、漱石は、「私のようなものには到底悟りは開かれそうにありません」と申し出て、円覚寺を下山することとなった。

 

円覚寺の参禅体験をそのまま書いたと言われる小説「門」では、腹痛がおさまらないまま6畳の自室に線香を持ち帰って、ぼんやりと坐ったが、腹痛で苦しんでいる最中にむずかしい数学の問題を出されて、解いてみなさいと言われたようなもので、まず腹痛がおさまらなくては、問題にとりかかるのは無理などと述懐している。

 

公案を透過するとは、公案そのものになりきることを要求されるのであるが、そのためには公案以外の教養とか博識とか腹痛などというものは、まず一切捨て去ろうという覚悟が必要なので、漱石はおよそそうした覚悟なく入ったようだ。

 

漱石の心は、弱くて落ち着かなくて、なんとか世の中を忍耐でもって渡っている状態であったから、禅で心を落ち着かせて力強く生きたいとでも思って参禅したのだろう。

 

こうした気分は、今の人も同じだろうが、参禅するからには、いきなり棒で殴られたり、大声で「カーツ」とどなられたり、水をかけられたり、意地悪な仕打ちをされたりすることに耐える心の準備が必要なことは当たり前だろう。

 

最後には片腕一本切り落として、達磨に差し出して安心を求める慧可のような不退転の決意があって初めて本来の自分の面目に出会うのであるから、何とも心もとない参禅に入る姿勢であったとは言える。

 

けれども最近の人が坐禅など冥想をしようというきっかけも、漱石と似たりよったりの人が多いのであろうから、まず漱石の見性失敗を笑うことはできまい。

 

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山水画とスピリチュアル

2023-01-17 16:57:59 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎迷いと悟りを一枚の絵に

(2010-10-20)

 

ノーベル文学賞はあるが、ノーベル絵画賞はない。文学とくらべて絵画への評価は、見る方の美意識そのものがより問われるというほどでもないのだろうが、不思議なことである。

 

水墨画には三遠という手法がある。これは遠景(高遠)、中景(平遠)、近景(深遠)を、それぞれ異なる眼の位置から見たもので、三つの情景のつなぎ部分には、雲や霞のようなものが描かれる。

 

高遠とは、山の下から頂上を見上げる仰角視点、平遠とは前山より後の山を眺める水平視点、深遠とは山の前からその背後をのぞき込むような鳥瞰視点のこと。

 

悟っていれば、あるいは悟りに近ければ、明つまりニルヴァーナを表現することはできる。しかし、悟りに遠ければ、明・ニルヴァーナを描くことはできず、無明・マーヤの混乱、騒擾に落ちる。よって後者のケースでは、世界そのものを一幅の絵に表現するという格調は感じられない。 

 

迷いと悟りを一枚の絵に仕立てる。それこそが画期的なのであって、これぞ真のスピリチュアル絵画なのだと思う。そのために、三遠という視点が複数存在するのは、唐代に開発され、宋代に完成された天与のテクニックというべきものだと思う。

 

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雪中庵蓼太の蛙とびこむ水の音

2023-01-17 16:51:45 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎自ら飛び込む

(2016-03-25)

 

俳人の雪中庵蓼太が、白隠を沼津市の原の松蔭寺に訪ねたところ、

古池や蛙とびこむ水の音

の句の水の音をどう聞くと迫られた。

 

雪中庵蓼太は、坐禅冥想を何年も誠心誠意続けたが、ついに白隠は遷化してしまった。

彼はやむなく白隠の後継者である東嶺和尚を龍澤寺に訪問し、教えを乞うた。

 

東嶺和尚は、彼があと一歩まで近づいているのを看取して、一句を与えた。

 

飛び込んだ 力で浮かぶ 蛙かな

 

雪中庵蓼太は、これを見て、忽然と悟るところがあった。

 

 

例によってどうやって悟ったのか、何を悟ったのかは詳述されていない。だが、その真贋を見抜く師家がいる。悟りの何たるかが判らない弟子にそれを説示して理屈でわかるものではない。悟りマニュアルなどあったらそれは嘘っぱちである。だからといって冥想指導なき「今ここ」は、クリシュナムルティが一生をかけてチャレンジしたが、成功したとは言えない。「今ここ」は最後は飛び込むのだが、それには機が熟している人を飛び込ませて初めて成功するのであって、誰でもむやみに飛び込ませることはできない。

 

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かわず飛び込む水の音

2023-01-17 16:46:24 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎古池真伝

(2006-06-18)

 

松尾芭蕉は37歳の時、深川芭蕉庵で出家して、仏頂和尚に印可(悟りの証明)を受けた。俳句を詠むというのは、容赦のない現実に直面するという禅の現実認識の姿勢とは、一見相容れないところがあるように見える。そうした心境において、一種の歌心というべき心の余裕がないと俳句は詠めるものではないと思う。

 

さて仏頂和尚が、字は読めないが禅機鋭い六祖五兵衛居士を伴って、深川の芭蕉庵を訪れた。

 

六祖五兵衛は門をくぐって、芭蕉の顔を見るなり、

「庭の草木の中に仏法はありますか。」と問いかけた。

芭蕉は即座に「葉々は、大なるものは大であり、小なるものは小である。」と答えた。

 

今度は仏頂和尚が、

「この頃の調子は、どうだい」と問うと

芭蕉は、

「雨が過ぎて、青苔を流している」と答えた。

 

更に仏頂和尚が「青苔がまだ生えないで、春雨がまだやって来ない時はどうする」と畳みかけると

 

その時ちょうど一匹の蛙が庭の古池に飛び込んだ。

芭蕉は、

「蛙飛び込む水の音」と答えた。

 

仏頂和尚は、これを聞くと、にっこりと微笑み、持っていた如意を与え、芭蕉の悟境を認める偈を与えた。

 

本分無相(本来の自己に相はない)

我是什麼者(私は、言葉では語れないそのものズバリである)

若未会為汝等諸人下一句子(もしあなたがたが、もう一句に出会っていなければ)

看看、一心法界法界居一心 (ちょと見てみなさい。一心は法界(真理・実相のこと)であり、法界は一心である)

 

その様子をつぶさに見ていた門人たちから、お祝いを述べるとともに、嵐雪が「これでは、冠の句がありません。どうぞ五文字をつけて下さい。」と申し出ると、

芭蕉は、「それでは貴方がたの意見を聞いてから決めよう。ためしに上の句を行って見てください」

 

杉風は 「宵闇や」、

嵐雪は 「寂しさや」、

其角は「山吹や」、と出したが、いずれも平生の句より出来がよいが、どれも芭蕉の気にいらなかったので、自ら

 

古池や 蛙飛び込む 水のおと

 

に決めた。

(参考:禅門逸話選/禅文化研究所)

 

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選り好みをしない-3

2023-01-12 06:14:03 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎放射性物質と日本人の行方

(2011-03-31)

 

唐代の禅マスター趙州に対して、弟子が問うには、

「至道無難唯嫌揀択。わずかに言語あれば是れ揀択。(至道は難しいことはなく、ただ選り好みをしないだけだ。しかし言葉で表現した途端に、それは選り好みだ。)だそうですが、師匠はそれをどのように人に表現されますか。」

 

趙州は、

「どうして古人の言葉を、(冒頭だけでなく)全部引用しないのだ。」

 

弟子

「私は、ここまでしか言えません」

 

趙州は、

「それこそが、至道無難唯嫌揀択(至道は難しいことはなく、ただ選り好みをしないだけだ)である。」

 

 

放射性物質の入った空気を呼吸することについて、私は選り好みできない。放射性物質入りの水道水を飲むことについて、私は選り好みできない。放射性物質のちりが入った雨に濡れることについて私は選り好みできない。

 

長期的に見て、多くの日本人が、こうしたことをきっかけに国を出ることになっても不思議はない。最近の英語ブームは、今までのそれとは違っているように感じるし、パナソニックなどの新卒採用がグローバル採用になったことなどともシンクロしている。

 

日本人は海外に出て行くことを、このようにじわじわと内外から催促されているように感じるのだが、『勤勉、熱心、平均学力が高い』というだけの特長でもって世界に日本人が歓迎されるとも思えない。

 

日本人全体に冥想の習慣が広がり、冥想の多くのバリエーションの手ほどきができる程度に冥想に熟練するというようなことがあってはじめて、今後の混乱の海外に出て行って、そこで日本人が歓迎されるのではないだろうか。日本が海外にODAなどでばらまく金が尽きようとする今、その思いは変わっていない。

 

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選り好みをしない-2

2023-01-12 05:49:39 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎覚者の行動ルール

 

唐代の禅マスター趙州は、弟子たちを集めて言うには、

「至道無難唯嫌揀択(至道は難しいことはなく、ただ選り好みをしないだけだ)というが、言葉で表現した途端に選り好みだ。

 

だからといって、私は明白なところにもいない。それでは一体あなた方は、どこに達磨の真意を見るのか。」

 

弟子が質問する。「趙州マスターが既に明白なところにもいないのであれば、どこを大事なポイントとするのですか。」

 

趙州「わしも知らない」

 

弟子「趙州マスターは自分で知らないと言うのであれば、どうして「明白なところにもいない」となぜ断言できるのですか」

 

趙州「質問はそれで良い。礼拝して、退出しなさい」

 

 

これは、三祖の信心銘では「至道無難唯嫌揀択」に続いて、「ただ憎愛なければ洞然として明白なり」とあることを前提としている。趙州は、愛憎がなくても明白なところにはいないとだけ述べる。どうしてそうなっているのかは、趙州も説明できず、ただ何でか知らないがただそうなっている、とする。

 

ここまで行くと選り好みをするしないの問題ではないのだろう。でも最初は選り好みをしないから入る。

 

選り好みをしないというのは、悟った人に共通の沢山ある行動ルールの一つなのだろう。でもそれをそうだと見分ける人は少ないのだと思う。

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選り好みをしない-1

2023-01-12 05:47:01 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎趙州のジレンマ

 

ある僧が問うに「至道無難唯嫌揀択(至道は難しいことはなく、ただ選り好みをしないだけだ)ということは、現代の禅者の巣窟ですね。」。

 

趙州は、「かつてこの問いを、誰かが私に尋ねたが、5年間わからぬままになっている。」

 

選り好みをしないのは、時間のない世界のことである。世界樹の聳え立つ世界にあって初めて、それを語りえる。

しかしこれを他人に問われれば、語った瞬間に選り好みが起こるので、至道でなくなる。

 

選り好みをするとは、スーパーで商品を選ぶ選り好みのことではなく、自分のさかしら、はからいを言う。

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空と不空

2023-01-11 20:20:54 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎あらゆる生死と涅槃

 

達磨の二入四行論から

『心は物ではないけれども、物でないということは、空であることではない。

心は物と心の立場を超えるが、虚空と同じでもない。ボサツははっきりと空と不空を認めるが、小乗は空を認めても不空を認めず、声聞は空に達しても不空に達しない』

(達磨の語録/柳田聖山/筑摩書房P254から引用)

 

更に吉蔵の三論玄義に

『小乗はただ空を究明するだけで、いまだ不空を知らず、大乗は空を究明するとともに不空を心得ている。それで『涅槃経』にいう、<仏弟子たちはただ空を知って不空を知らぬ、智者は空と不空をともに語っている。空とは、あらゆる生死についていい、不空とは涅槃についていう>』

(達磨の語録/柳田聖山/筑摩書房P256から引用)

 

世の中のできごとの変遷、諸行無常なることは、空である。空まで達するとは、不条理を目の当たりにし思い知って、第六身体アートマンなる宇宙全体と一体となることである。ここで個人は全体となったのだから、救いと言えば救いである。

 

そこで不空がある。不空とは第七身体ニルヴァーナだが、それは第六身体と同様に人間の立場ではない。人間という立場には、救いがないことが明らかになっているので、その救いとは、人間である自分に都合のよい救いではないだろう。だから不空が救いであるという立場は、とても説明がむずかしい。

 

ボサツは、少なくとも見性した人だが、ボサツは空も不空をはっきり承知しているとあるので、ニルヴァーナを見た人ということになる。そうすると『空まで行ける人』というのは、見性、見神は通過し、宇宙と合一することでこの世の仕組みを見切ることはできるが、そこをまだ超えてはいない立場ということになる。

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パーフォーマー利休

2023-01-11 20:02:22 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎花入れに水だけ入れて飾る

 

永禄10年、利休は、東大寺大仏炎上といった乱を避けて堺にあった蜂屋紹左、大和屋正通、松屋久政の三名を自室に招待し、紫銅無紋の「ノハシ」花入れに水ばかり入れて飾った。

 

師匠北向道陳の勧めで、利休は武野紹鴎に入門しようとし、庭の掃除を命ぜられた。利休は庭をきれいに掃き清めた後、わざわざ葉を落としてみせた。この様を見て武野紹鴎は入門を許した。

 

堺に火事があって、利休宅が類焼した。武野紹鴎がこれを見舞ってみると、焼けた地面の灰をかき払い、破れ瓦など取り集め飛び石にしつらえて、早茶の湯の心がけがあったという。

 

これらパフォーマンスは禅機というようなもので、禅特有の一対一の一瞬の油断も許さない機鋒が見て取れる。要するに師匠武野紹鴎や招待客と弟子千利休の間で真剣な禅問答を交わしているようなものである。

 

こうしたパフォーマンスは、即興芸術としては一流のものだと思う。しかしながら武野紹鴎も千利休も悟ってなかったみたいので、芸術作品としては一流だが、求道者としては完成を見なかったというコメントになろう。

 

茶の湯という芸道者トップが、名物への目利きに執着して見せるなどは、真相を知らない者に物欲を掻き立てるだけであって、涅槃を求める者にとっては邪魔であるはず。当時は領地などの恩賞のかわりに名物を出していたという事情もあり、邪道ながら食うためにはやむを得なかったかもしれない。

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冷え、凍み、寂び、侘び

2023-01-11 19:55:05 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎恋、秘すれば花

 

日本の芸道は、その一片の恋心なくしては始まらなかった。その恋心を秘すれば花に変ずる。

 

室町時代のポップ・カルチャーである能・連歌・茶の湯のでは、定家の言う「情」(恋心)を秘する道具立てとして、「冷え」「凍(し)み」「寂(さ)び」「侘び」を盛んに用いた。

 

情(恋心)を引き立たせる背景として、あるいは補色として「冷え」「凍み」「寂(さ)び」「侘び」を盛んに用いたのである。

 

冷え、凍み、寂び、侘びと言えば、この情緒を端的に示しているようなのは、中国の禅僧趙州十二時の歌である。

 

趙州十二時の歌の生活は、世間的にはワーキング・プアやノン・ワーキングプアとしか言いようがないが、そこに花たる正念・リアリティを見なければならないのである。枯木寒巌に倚る三冬暖気なしの風情にあって、陽光を感じとらねばならないのである。

 

またこの辺の消息は、ダンテス・ダイジの石ころの心から暖かいものが流れだす風情からも感得することができる。冷え、凍み、寂び、侘びが石ころの心の風景なのである。

 

これを世阿弥は花鏡の中で「さびさびとしたる中に、何とやらん感心のある所あり」と解説する。世阿弥が、石ころの心に出会ったのか、あるいは一体となったかはわからないが、世阿弥は、それを直観したのである。

 

こうした室町芸能の源流が夢窓国師から出ていることに、夢窓国師の見かけ以上の偉大さに改めて感じ入る。

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