アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

村田珠光の印可のあかし

2023-01-11 19:50:59 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎圜悟禅師の墨跡

 

茶道の山上宗二記に、『円悟禅師の墨蹟 堺、いせや道和所持。右一軸は、昔、珠光、一休和尚より申し請けられ、墨蹟の懸け始めなり。』とあり、村田珠光の印可(悟りの証明)の証拠として一休より村田珠光に与えられたという。

 

円悟禅師とは、臨済宗の圜悟克勤禅師(1063~1135)のことで、碧巌録の編者。

 

室町時代の茶道では、唐絵を茶席に掛けるのが多かったが、村田珠光が茶室に圜悟の墨跡を掛けて茶会を催したのが墨跡を茶席に掛ける始まりとなって、以後武野紹鴎も古筆を掛けたなどとされる。

 

村田珠光の文書は、彼の高弟であった古市播磨宛の手紙である『心の文』くらいしか残っていないので大方は伝承である。

 

それにしても自分宛の印可状を焼いた一休が印可を出すのは良いとして、その一休に印可されたほどの男、村田珠光が、いわばこれみよがしに我が印可状たる圜悟禅師の墨蹟を茶室に掛けて茶をいただくというようなことができるものだろうか。そもそも客に見せるようなものなのだろうか。

 

師一休からの大恩の証ではあるだろうが、そういう印可の証は秘するのがゆかしい作法であり、かたや自分では墨跡一枚に何の価値もないことをもよく承知している。そんな村田珠光の心中を推し量れば、その仕方はおよそ侘び、寂び、凍み、枯れなどからは遠いように思える。

 

なお圜悟禅師の墨跡は、村田珠光のそれではないが、東京国立博物館にある由。

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白隠と本山

2022-12-28 15:25:46 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎紫衣と黒坊主

竹田黙雷の続黙雷禅話(1907竹田黙雷=国会図書館デジタルアーカイブで読めます)の『十七 白隠の述懐』に白隠と本山について書いた部分がある。

白隠は原の松蔭寺にいたが、松蔭寺は、興津清美寺の末寺であって、妙心寺の孫寺にあたる。

当時の清美寺の住職は仕方のない凡僧であったから(ママ)、始終本山風を吹かせていじめたらしい。白隠の述懐に、「小糠三合でもあったら、孫末の黒坊主になるものではないと、冗談半分で言われた」そうなので、孫末寺の黒坊主であった白隠は、カチンと来てたらしい。

黒坊主とは、紫衣の対極にある僧の地位のシンボルで、高位の僧に対する低位の僧の蔑称みたいなところか。

黒坊主派の代表格は一休であって、紫衣を着ることはほとんどなかったようだが、例外的に応仁の乱で廃墟となった大徳寺再興のために大徳寺の住職になったことがある程度。

大徳である白隠も本山にはこれだけやられるのだから、宗教組織の中では悟境とかは問題にされないのですね。

世俗の秩序とは恐ろしいもので、OSHOバグワンは、インドのカーストの最下層ハリジャン不可触選民の起源は、13世紀の仏教滅亡時に逃げ遅れた仏教徒だということを言っていたようだ(出典は不明)から、胸を張って仏教徒として生きれる日本はありがたい。

ただ日本の被差別の起源を調べていくと、千年とか1500年のタームではなく、もっと数千年の歴史をみないと真相はわからないのではないかという印象を持っている。

インドのそれについても単純に仏教徒だけのことではないように思う。
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芭蕉の野ざらし紀行

2022-12-26 20:52:13 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎捨て子

悟りすました後でも、現実の貧しい生活は変わらないし、思いのままにならない、どうしようもないことばかり多い。「俺は神・仏に出会った。でも、なぜまたその後も毎日しようもない労働をして金を稼いで生き続けなければいけないのだろうか」とは、覚醒した方たちが、等しく思うところの感慨に違いない。

そこで芭蕉の野ざらし紀行

野ざらしを心に風のしむ身かな。
野に捨てられたされこうべである「のざらし」になると決意して旅に出たものの、やはり秋風は身にしみるわい。

猿をきく人すて子にあきのかぜいかに
芭蕉が富士川のあたりを通っていると三歳くらいの捨て子を見かけた。その鳴き声を聞けば誰しも何とかしてやりたいとは思うものだ。このままほっておけば、飢えて死を迎えるのは必定。

ところが芭蕉は、「父がお前を憎んでそうしたわけでもなく、母がお前をうとんでそうしたわけでもなく、ただ天命がそうするのであって、自分の運命(性)のつたないことを泣きなさい。」と、この世に生まれ落ちる以前から、自分でそういう環境を選びとってきたことを思い出せ、と言わんばかりの、まるで一人前の大人に対するような言葉を残してその場を逃げ去ってしまう。

和歌や漢詩で猿の声を風流と聞くような、鋭敏な感性を持つ人は、この捨て子の泣く声を何ときくのだろうか。現代も「虐待」という名の捨て子が増える時代となった。

現実の無慈悲さは変わらないが、本当は無慈悲ではないことを知っている自分があることを見極められるか。
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宗峰妙超の大悟

2022-12-26 04:13:10 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎他時異日、別生涯

宗峰妙超(大燈国師)は、鎌倉の高峰顕日から京都の韜光庵の大応国師の門に行くことをアドバイスされ、京都に向かった。

大応国師は、既に病に伏しており、門人に対してすら参禅を許していなかったが、妙超に対してだけは、参禅を認め、膝下に入ってから妙超の透過した公案はおよそ200則に達した。

大応国師が、1305年勅により万寿寺に移動するにあたり、妙超は、「雲門関」の公案を授かって、これを透過すれば、他時異日、別生涯があるだろうと、サジェストを受けた。別天地、別世界。

1307年、26歳の妙超は、執権北条貞時の要請で大応国師が鎌倉の建長寺に向かうのに随行し、途中一時正観寺に逗留した。

そんなある夕方、机の上になにげなく重い鍵がガチャと置かれた途端に、遂に「関」字の公案を透過、満身の汗をかいて、大応国師の方丈に走って、「幾乎(ほとんど)路(みち)を同じうす」と見解を呈示した。
(関を入ってみたら、ほとんど同じ路だったぁ???)

すると大応国師は、「実は昨夜、雲門大師が夢に現れて、わたしの部屋に入ってきたのを見た。お前は実に雲門の再来である。」とその大悟を認めた。

妙超は、これを聞いて耳をおおって退出し、翌日二偈を提出して、「近々故郷に帰ろうと思いますが、お別れにあたって一言頂けないでしょうか。」とお願いすると、大応国師は、偈の余白に「あまえはもうわかっている。私よりお前の境地の方が上である。だから、お前の代で禅は大いに興隆するだろう。ただし、もう20年長養し、人々にその悟りを知らせなさい。」と書きつけた。
その後、同年12月大応国師は示寂。

妙超は、さっそく京都に戻り、20年間の聖胎長養(悟後の修行)に入った。昼は五条の橋の下で乞食と共に過ごし、夜は6、7人の同輩とともに雲居庵で坐禅三昧という生活を続けたが、これを7年で打ち切り、紫野に引っ越した。

悟ってなくてもカルト教団の教祖は務まるが、大悟しただけでは、徹底しないことを禅のお歴々は知っている。十牛図第三図でも世間的には充分「悟り」である。それをどこまで深められたかは、大燈国師遺戒を見るくらいしかない。

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平常心是道

2022-12-23 10:14:32 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎人間の側の体験に非ず

8世紀の中国でのこと。師匠である南泉が弟子の趙州に「道とはどんなものですか」と質問された。南泉は、「平常心が道である」と答えた。

そこで趙州は、「平常心をそこへ向かう目標として据えてよいでしょうか」と問うと南泉は、「そこへ向かうようなことをすれば、たちまち落ちてしまう」と答えた。

さらに趙州は「それを目指さないならば、それが道であることをどうやって知ることができましょうか」と問う。

南泉は、「道は「知」に属するものでなく、かつまた「不知」に属するものではない。「知」は妄想であり、「不知」は、善でも悪でもないもの(無記)。もし、真に目指しようのない道に達してみると、それは虚空のようにがらりんとしたものである。これを強いて述べるべきではない。」

これを聞いたとたんに趙州は、大悟してしまった。
(無門関第十九則)

無門は、南泉は説明し過ぎだとクサしており、これで悟った趙州はもう30年修行せよ(修行が足らないということ)とまで言っている。

言葉による説明や問答で知的理解しても道には届かない。
天国も地獄も越えて、ことばで説明できないそのものずばりこそが平常心である。平常心とは、社会人の常識的心理状態を言うのではなく、不安や怒りや恐怖で動揺していない心理状態を言うのではない。それは人間の側の体験ではない。
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禅の悟りは展開しにくかったが

2022-12-20 20:52:46 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎人類が存続するようなら禅が流行し、人類が滅亡するようならクンダリーニ・ヨーガが流行する

信心銘で、禅の悟りを象徴している言葉は、万法一如、真如法界、空、大道等々で、色味がなく、せいぜいがモノクロの山水画を見ているような感じ。これに対してクンダリーニ・ヨーガ系の悟りは、それまでのステップで、十分に枝葉をつけているものである。例えば錬金術書『逃げるアタランタ』XXⅢ図では、背景で、太陽とヴィーナス神が交わって、男女両性具有が成り、その結果、あるいは同時に白髪の赤子が誕生し、世界は黄金を降らして言祝ぐ。

同じくクンダリーニ・ヨーガ系である古事記では、天照大神が素盞嗚尊と天の安の川原で仲直り誓約をするシーンが、男女両性具有の実現であり、禅でいう『好悪なし』。この誓約で生まれた神が、伊都能売神。

道教では、柳華陽の慧命経に、微細身が肉体から離脱して、妙道(クンダリーニのエネルギーコードか)を上昇して「有」を出て「無」に入る(面壁図第七)。さらに心印懸空月影浮(大悟した心は月のように空に浮かぶ)、筏舟到岸日光融(有なる筏舟は太陽の岸に着いて融ける)と、有は無に転ずることを示す。
次の粉砕図第八は、一円相。全体としてダンテス・ダイジの示したクンダリーニ上昇の秘儀に、とてもよく似ている印象がある。

このようにクンダリーニ・ヨーガ系は各ステップの描写が細かく、具体的なものだが、禅は誠にストレートで核心をついているが、枯淡と言わざるを得ない。

そうしたもともと展開しにくい禅の文化的展開は、書院建築、作庭、華道、茶道、書道、水墨画、わび、さび、俳諧、禅文学、武士道、華美を忌み勤倹を旨とする習慣などに展開していったが、その源流は室町の夢窓国師にある。

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」藤原定家。

禅には、しっかりした根はあるが花も紅葉もなかったところに、それを見せてくれた夢窓国師は日本を豊かにしてくれた。

これからは、クンダリーニ・ヨーガ系も力を入れないと。
※ダンテス・ダイジは、この時代、人類が存続するようなら禅が流行し、人類が滅亡するようならクンダリーニ・ヨーガが流行すると予言。
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南泉の猫を斬った後

2022-12-11 20:49:36 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎やり過ぎた咎め

南泉が猫を斬ったのは、猫好きにとってはありえない話である。ところが、傑僧趙州の師たる南泉は猫を斬ってからは、そのことを負い目に感じていたようだ。というのは、猫を斬ってから利他行=カルマ・ヨーガのことでもある異類中行を、南泉は言い出したからである。猫も異類である。

そこで、趙州は、南泉さん本気でそんなことを主張するのですかと言わんばかりに以下の問答を仕掛ける。

趙州は、南泉に問う。「(異類中行)の異についてはお尋ねしません。では、その(異類中行の)類とは、どんなものですか?」

南泉は、四つんばいになってみせた。

趙州は、その南泉を踏み倒した。それから自室の涅槃堂に帰って「残念だ、残念だ」と大声で叫んだ。

それを聞いた南泉は、人をやって何が残念か尋ねさせると、趙州は「もう二踏みしなかったのが残念だ」と答えた。


また別の日、南泉は、自室の戸の前にぐるりと灰をまいて、弟子たちに「諸君らがちゃんとした一言を言えたら戸を開けよう」と宣言し、多くの雲水の言葉を聞いたが、どれも気に入らず、結局「がっかりだ、がっかりだ」と嘆き、自分で戸を開けた。

このように猫を斬ってからの南泉は、昔日の平常心是道で颯爽としていた南泉ではなく、勢いを失ってしまった。趙州を大悟させるような力量ある人物でも一回の修羅業をきっかけに、迷いの世界に戻る。

本来、弟子たちがダメだからといってやる気を失う老師は、禅ではありえない。OSHOバグワンは、冥想コミューンを立ち上げたが、途中で弟子の指導に飽きたふしがある。長い一生のうちには、大悟したといっても行動が大きく振れることがあるのだろう。


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眼(まなこ)もし睡らずんば

2022-12-07 10:19:34 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎宗派によらない体験とは言えない体験

禅の達磨から三人目の第三祖僧さんが、体験とは言えない体験を説く。
『眼(まなこ)もし睡らずんば
諸夢 自ずから除く
心もし異ならずんば
万法一如なり』
(信心銘)

大意:眼が眠らなければ、様々な夢は自ずと見ない。
心がもし変わらず同じならば、すべての存在は一つである。

熟眠中でも夢を見ないというのは、インドでも冥想の重要テーマだった。
荘子にも『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。』(大宗師篇)というのがある。

宗派は異なっていても求める境地に変わりはない。個が宇宙全体・世界全体に転換するポイントがあって、それは冥想修行のステージの一つとして存在することは知られていたのだ。

そしてそれは、最初は特異な体験だが、日常に変わる。
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臨済が師匠黄檗を押し倒す

2022-11-24 19:18:32 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎師匠も生き埋め

禅では、その時すべきことをしているか、言うべきことをいうかが問題とされる、
一瞬も油断できない世界である。

師匠である黄檗が歩いていくと、弟子の臨済が鍬で畑を鋤(す)いてるところに出くわした。

黄檗を見ると臨済は鍬を杖にして立っていた。

黄檗は、彼に「疲れたのか」とジャブを打った。

臨済、「鍬も上げないでいるのにどうして疲れましょうか。」

黄檗は、持っていた棒を振り上げて打ち下ろした。臨済は、すかさず棒をひったくって体当たりをかまし、黄檗を地面に押し倒してしまった。

黄檗は維那(寺の庶務係)を呼び、「俺を起こしてくれ」と命じた。維那は、助け起こして「和尚はどうしてこんな気ちがいの無礼を許されるのですか」と言う。

黄檗は起き上がると物も言わずに維那を棒で叩いた。

一方の臨済はそんな騒ぎをよそにぐんぐん畑を耕している。
そこで臨済は「世間では火葬するが、俺のところでは一気に皆生き埋めにしてやる」と嘯(うそぶ)いた

黄檗も見事生き埋めにされたわけである。
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普化なる自由

2022-11-24 17:15:29 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎社会性とのバランス

普化は、唐代の人で、臨済禅を興こした臨済義玄より一枚上手の禅者。

普化の師である盤山宝積(720-814)が、その逝去に臨んで、「私の像を描くことのできる者がいれば、今すぐ描くよい」というと、多くの弟子がその肖像を描いて持ってきた。

そこに普化が手ぶらでやってきて、盤山の前に出るといきなり宙返りして出て行った。盤山は「普化はこの風狂さで今後世人を導くに違いない」と評したという。

ある日、臨済と普化が法要後の会食に招かれた。席上臨済が「一本の髪の毛で大海を呑み込み、芥子粒一つに巨大な須弥山を納めるというがこれは、超能力の奇跡か、それとも見性者に自然に備わる働きか」と質問をしかけた。

すると普化は、いきなり食卓を蹴り倒した。

臨済が乱暴じゃないかと言うと、普化は「ここで乱暴とか穏やかという場合ではあるまい」と応じた。

次の日二人は、別の法要後の会食に招かれた。臨済は、「今日のメニューは昨日のと比べてどうだ」と問うと、普化はまたまた食卓を蹴り倒した。

臨済が「それはそれで良いが、あまりに乱暴すぎる」というと、普化は「馬鹿野郎。仏法に穏やかだの乱暴だのということがあるか」と返したので、流石の臨済も驚いた。

一無位の真人とか、本来の自己と言えば、なんとなく知的なイメージを膨らませて理解することができるが、普化が何のためにこんなことをして見せるのか理解に苦しむ人が多いのではないだろうか。

本当に素直になった人は、自分がどのようであっても何の問題もないことを知っている。何の問題もなければ、そこから流れだす自由というものがある。臨済禅では、大安心というものを求めるのと同時に、特にこの自由というものに力点を置く。禅家は、当意即妙とか、活殺自在などのむずかしい言葉を使うが要するに自由を言っている。

普化はロバになりきって、生の野菜をぼりぼり食べたり、勤行をしないで飯だけ喰らう泥棒になりきって、奇矯な行動をし続けた。

地獄的な環境にあっても本当に素直であれば、本当の自由を生きることができることを普化に見る。しかしそこに社会性とのバランスはない。「社会性とのバランスなんていうたわけたものは仏法にはない」という普化の言葉が聞こえてきそうだ。
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一路居士

2022-11-24 17:08:55 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎万事休すべし、如何なるか是れ一休

一路居士は、一休和尚の数少ないわけのわかった友人の一人。一路居士は、もと仁和寺の門主をされた方だが、和泉の国境に草庵を結んでいた。

その頃一休は、摂津の住吉におられ、一路居士を時々訪問していた。
一休が問うに、『万法路(みち)あり、如何なるか是れ一路』

一路『万事休すべし、如何なるか是れ一休』

一路居士の草庵にはいつももっこが吊るしてあって、その中に道行く人の志を受け、手取り鍋一つで粥を炊いたり湯を沸かしたりして、暮らしていた。

ところがある日、村の悪餓鬼がいたずらをして、もっこの中に馬の古沓(ふるくつ)を入れておいた。

すると居士は、『我が糧(かて)、すでに尽きたり』と言って、遂に食を断って死んでしまった。

この草庵跡が一路山禅海寺となっている。

もっこに古沓が入ったのを天意と見て、食を断つとは、自殺じゃないかと世間の人は言うかもしれないが、それが真正の道者の行き方である。

戦後のマスコミ報道や法曹教育のせいか、形式からみれば自殺ということが一律にダメ、という見方が、世間には徹底している。だが、そういう輩には、まともな禅僧の生きざまの機微など理解の外にある。

悟った者は、このように天意・神意を生きているから、その生きている姿は、諸悪莫作、衆善奉行なのである。

密教ではないが、禅であっても悟りは死の技術ではある。
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人間性という渇望

2022-11-24 17:00:32 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎なにもかもなしであるはずの禅

世界中のトップエリートが集う禅の教室(川上全龍/角川書店)では、相変わらずの禅をやるメリット強調の信者集めと『なにもかもなし』であるはずの純禅の相剋を改めて感じさせられたものだ。

唐末の禅僧趙州は、120歳の人生を極貧に生きた。いつも脚を補修した椅子に坐って人に応対したが、信者等から新品や中古のちゃんとした椅子を上げると言われてもすべて断り、別の部材で脚を補修し、その壊れ椅子をなおも使い続けたという。
それでも何の問題もないことを知っていた。

そういう家族も持たない、財産も持たない純禅の師家本来のありかたの方を強調せず、スティーブ・ジョブズなど有名人が参加しているなどと関係ないことで客引きをするなど、その姿勢が問われる。

普化は、臨済と一緒の食事招待の席で、テーブルを蹴り倒したが、そういうあり方では、テーブルを蹴り倒されようというものだ。普化は、死んで棺桶に入ったのではなく、棺桶に入ってから死んだ。

ダンテス・ダイジの詩に
『楽しさをあこがれ続けるらしい

運命はあるらしい
冬が終わって春が始まるように
運命を改善するテクニックもある
天命に流されるというのもある
地獄のどうどう巡りもあるだろう

これも過ぎ去る
変易しないものが何一つないのであれば
一体、人間性という渇望に
何が言えるというのだ

それでも人間性は
楽しさをあこがれ続けるらしい』
というのがある。(老子狂言から)

現代人は禅だけではつまらないところまで来たのかもしれない。
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誠拙和尚が大金のお布施をもらう

2022-11-24 16:31:07 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎寄進の作法

鎌倉の円覚寺の住職をやり、後に相国寺の住職をなさった誠拙和尚。

彼が、円覚寺の住職をしていた時に、江戸の豪商白木屋某という者が訪ねてきて百両を寄進した。

誠拙和尚は「そうか」と答えると、白木屋が、「和尚、一言の謝辞くらいあってもよかろう。」となじる。

誠拙和尚は、いきなり粥を煮ていた鍋のふたを白木屋に打ちつけて、「貴様が功徳を積むのにわしがお礼をいうことがあるか」と一喝した。

イエスも右手が寄進することを左手が知らないように寄進せねばならないと諭す。寄進には作法がある。だからといってふたを打ちつけるのは親切すぎる。黙っていてはわからないと思ったか。
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至道無難の衣食住観

2022-11-24 16:17:11 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎為すべきをせずに衣食住が楽なのは天罰がある

江戸時代初期の禅僧至道無難の衣食住観。皆、生活は、少しく苦しいが坐り続けるもの。

『一、主人を持つ人は、それを頼りにすることもあるが、道心者にとっては天地の中に頼りにするものがない。
自身の悪業を除きつくし、天地と一体と成るとき、天下の人が尊敬することは自然の道理である。このやうに努力しないうちは、衣食住に苦しむ事、言葉に言えないほどである。


一、道心を守る人は、すべての物事に自分が過ちをしないように恐れるべきだ。自分の為すべき事をせずにいながら衣食住が安楽なのは、必ず天罰を受けるものだから、道心を守るには、すべてが不足不如意なのを吉とする。』
(至道無難の自性記より(日本の禅語録 無難・正受P120より引用))
※文中の「主人」は師匠でなく、ものを布施してくれる人のことで、パトロン、支援者のこと。

まずは、天地と一体となったら衣食住に苦しむものの、衣食住の不足は本当の問題ではないことに気がつくだろうってこと。

そして、為すべきことをせずに生活が安楽なのは危ういとし、すべて不足不如意がよしとするのは、現代では極めて変な考え方とされる。
たとえば為すべきことをせずに生活が安楽なのは、ただラッキーなだけだし、それをとやかく言うのは、そんな生活をねたんでのことだろうと思われがち。またブランド・ファッションも身に着けられないし、たまにはグルメにも行けない生活は、ミジメなだけだし、外聞も悪いだけのことと思われて終わることがほとんど。

東北関東大震災や原発事故は、そうした歪んだ考え方、気持ちの持ち方に一石を投じたはずだが、まだまだ『自分は悟ってないのに、衣食住に不自由がないのは、危険である』とまで思っている人は全然少ない。
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無聞思聡の冥想の深まり

2022-11-22 09:03:56 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎小悟何回、大悟何回

無聞思聡は、最初に独翁和尚の下で「不是心、不是仏、不是物」という公案で参禅した。その後、六人のグループでお互いに深めていった。

次に淮西の教無能禅師から「無字」の公案をもらった。
その後淮上の敬兄に「あなたは6、7年参禅しているようだが、どんな境地か。」と質問されて、無聞はしどろもどろになり、悟っていないことがバレた。

無聞は、敬兄に「それでは、どうすればよいのでしょうか」と問うた。敬兄は、「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」と教えてくれて去って行った。※南を向けば北斗星は見えない。が、北斗を南に向かって看(み)よ。

以後35日間、無字の公案はやらずに、「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」の公案に取り組んだ。その間、歩いて歩いていることを忘れ、坐って坐っていることを忘れるという状態だが、どうしてもこの公案が解けなかった。ある時皆と坐禅している際、食事時にふっと心がゆったり清らかになった。この時感情も想念も破裂し、一枚一枚皮を剥いでいく(シュンニャ)ようになった。目の前の人も物も一切見ないこと虚空のようであった。

半時ばかりして我に返って、全身から汗が流れた。そこで「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」の公案を悟り得た。敬兄に伺ってその見解が正しいことを確認してもらえた。

だが、自分では、境地が自由自在(洒落)ではないことを自覚していたので、その後香巌山に入って一夏を修行した。そこは坐禅中に蚊がひどく、痛さに両手を組んでいれなかったが、痛みの肉体感覚から離れ、歯を食いしばってこぶしを握りしめ、ただひたすら無字の公案に取り組んで、忍びに忍んでいた。

すると、思わず身心が寂静となり一軒家の四方の壁が崩れたようになり、身体は虚空のようになり一つとして心にかかるものはなくなった。午前8時に坐り始め午後二時に定から出た。自分でわかった、仏法が人を裏切るものではなく、ただ自分の努力や工夫が足らないだけであることを。

だがこれでも小さな隠れて見えない妄想が滅し尽くされていなかったので、さらに光州の山中に坐ること六年、陸安山中でも六年、また光州の山中に三年にしてようやく大悟(頴脱)した。
(以上禅関策進/汝州香山無聞聡禅師から)

よく禅では小悟何回、大悟何回などと言う。だが、いわゆる大悟ですら不完全だったり戻ったりする。あるいは、真正の大悟ですら彼にとって一片の素敵な思い出になってしまう(ダンテス・ダイジ)。

この話のように大悟した後、悟後の修行(聖胎長養)をするケースや、もう一度大悟にチャレンジするケースもあるだろう。また大悟の後に生存しないケースもある。大悟の後に酒徳利を抱えて街をうろうろするのもよい。どれが善い悪いなどは言えない。

それでも今日も冥想を。
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