アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

イメージ・トレーニング(観想法)

2022-11-13 06:20:42 | Overview of the meditation 冥想の全体像

【第五章】冥想の種類

  1. 単体冥想のいろいろ

 (1)イメージ・トレーニング(観想法)

 

観想法は、洋の東西を問わず様々な宗教シーンに出てくる。観想するとは、英語では、contemplateと訳されるが、日本語的には、imagine and realizeであって、また本山博は、アメリカでは観想のことをvisualizationと呼び「想いを見る」のだそうだ。

 

観想法は冥想修行者でなくとも日常的に使用されている。願望の実現を祈るというものがそれである。さらに祈っても現実化する願望とそうでない願望があることは皆知っている。

 

また人は髪の毛一本白くも黒くもできない一方で、時に自分勝手な願望が実現することがあるが反作用もある。

 

だからといって冥想修行者は、無形の究極であるニルヴァーナ、モクシャ、涅槃、大日如来、道(タオ)、天御中主神、Godばかりを観想しているわけではない。師匠の指導により適宜有形のもの(精神的なものも含む)も観想している。

 

観想法が深まれば、それがありありと現前するビジョンが見られるものだというが、本物のビジョンは、自らつかむのではなく、ビジョンの方からやってくるものだという。

 

【観想法関連記事】

観せる観想、観る観想(仏のみぞ知る)

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受胎と出産(肉体、空想力、形態、影響)

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13段観想から念仏へ-1(観無量寿経)
13段観想から念仏へ-2(舞台セットの構築)
13段観想から念仏へ-3(二段構えの構想)
13段観想から念仏へ-4(念仏はスタートライン)
13段観想から念仏へ-5(メイドインチャイナと道教)
丹田を錬る-5(古神道の禊の神事-4◎雄健(をたけび)の禊)
丹田を錬る-6(古神道の禊の神事-5◎雄詰(をころび)の禊)
霊操のメソッド(来たるものあり)
禅堂の生活と修道院の生活(冥想専門道場)

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単体冥想の評価

2022-11-12 07:19:24 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第五章】冥想の種類

◎単体冥想の評価

 

1.前提

冥想の分類にはいろいろあって、例えば目的や効果を求める冥想、それらを求めない冥想という分類もあり、また宗派別冥想という区分もある。宗派別冥想は、伝統的組織宗教では、複数の単体冥想手法を組み合わせたものがほとんどであり、「冥想の種類」を説明する材料としてはわかりにくいことになる。

よって、冥想手法をバラバラに分解して単体冥想を区分すると「3. 単体冥想のいろいろ」以下のようなところになる。

 

単体冥想については、単体冥想の優劣、すなわちどれが悟りを容易に開く道なのかという疑問を抱くものだ。その点について、例えばダンテス・ダイジは、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガを優れた冥想として推してはいる。だが、現代人は数分坐れれば悟る可能性があると言われているように、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガ以外の単体冥想でも悟る可能性がある上に、それ以外の偶発的冥想でもニルヴァーナに触れる可能性がある。

 

それは彼の次の言葉でわかる。

『プロセスもテクニックなぞも

ないことを体現している

あらゆるあなた達に捧げる』

(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ 序文から引用)

 

更に言えば、禅語録にはどんなタイミングで悟ったかの実例が多数書かれているが、大悟が起こったタイミングは、何か単体冥想に打ち込んでいる瞬間ではなく、鍵たばをガチャリと置いた瞬間とか、小石を投げて竹に当たりカーンという音がした瞬間などであった。

もっとも密教、クンダリーニ・ヨーガ、古神道では、山の洞窟や密室で観想などで長期修行するせいか、あまりそういうことは言わないのであるが。

 

2.注意事項

(1)冥想手法と結果が連動しないこと

一つの冥想法で最後まで行きつける人は多くはないのではないか。例えばマントラ禅に打ち込んでいても、ある日自然な只管打坐が起こりそのまま身心脱落したなど。この点はその過程の最初から最後まで見届けた人物でないとわからないが、どうもそうらしいということは、釈迦が四禅から涅槃に入ったことを確認した人物がいるというようなことで察するしかないように思う。

 

また名だたる冥想フリークはいろいろな冥想法を次々に変えてチャレンジを繰り返している場合が多い。洋の東西を問わず冥想フリークはいるもので、諸国の有名マスターを歴訪したり、場合によっては宗派も変えたりもしている。

 

(2)危険性

あらゆる冥想には、廃人になったり、精神障害になったりする危険な面も伴う。よって一人で自分勝手にやるのは危険。正師につくこと。

 

これは、冥想ではトランスを経由する場合が多いのだが、トランスとは無意識が顕在化した状態であるが、自分でそれをコントロールできるかどうかは、いろいろなファクターがからむ。自分で無意識をコントロールできなくなれば、廃人になったり、精神障害になったりする可能性が出てくる。そこで正しいマスターは重要である。出口王仁三郎の霊界探訪(霊界物語)などでも、独力でなく、神使に案内されながら慎重に進んで行ったもの。

行とは無意識を操作することだが、正しいマスターだけがそれをアドバイスできるのであって、マニュアルだけで進んでは一生を棒に振りかねない。密教系、古神道系、ソーマ・ヨーガ系などの本で、霊界で一生を棒に振ったらしき人を見かける記述を読むことがあろうと思う。

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マインド・コントロール対策

2022-11-11 05:48:04 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第四章】冥想の準備

4.マインド・コントロール対策

 

冥想修行者にとってのマインド・コントロール対策とは、それまでの教育、マスコミ情報から自分の好き嫌いまで、広い意味での既成概念をすべて棄て去り、かつ新たなマインド・コントロール的情報に汚染されないことであると思う。

 

(1)何をマインド・コントロールと見るか

マインド・コントロール研究が広汎に行われる端緒となったのは、朝鮮戦争からの帰還米国人兵が、中国の巧妙な共産主義洗脳にやられて多数帰国したこととされる。

実は、それ以前にソ連での共産主義洗脳やら、ナチスの洗脳宣伝やら、大日本帝国の国家神道などのマインド・コントロールも行われており、中国、日本における『道という究極なき』儒教もマインド・コントロールの側面なしとはできないように思う。

 

要するに神仏を目指さない社会や国家を標榜する教育、宣伝は、なべて求道者にとってのマインド・コントロールなのである。

また神仏を目指さないか、あるいは神仏を意識しない心性や社会通念は、およそマインド・コントロールと考え、最終的に好き嫌い・えり好みすら排除していこうとするのが、冥想修行の方向性である。

 

(2)マインド・コントロールのツールと分野

(a)ツール(媒体)

TV、ラジオ、スマホ、新聞、インターネット、教科書など

(b)分野

食物、飲料、嗜好品、ファッション、音楽、映像、イデオロギー・ドグマ、歴史、教育など

 

(3)正気を失う

覚者の世界観は、自分が世界全体・宇宙全体であるから、未悟の者の世界観とは、逆転・倒立している。覚者の世界観を正気とすれば、未悟の者が大半であるこの社会を肯定するプロパガンダは狂気ということになる。

未悟の者の世界観の特徴は、利己主義であり、金と便利優先の発想である。

したがって、この社会で行われるあらゆるプロパガンダを浴び続けてそれに適応して暮らしていくということは、とても骨の折れることなのであって、うつ病の生涯有病率は男性で10%前後、女性で20%前後などということになっている。

 

(4)マインド・コントロールを回避する

冥想修行者は、修行をスムーズに進めるためには、マインド・コントロールを回避することになる。

だが、今時スマホなしで仕事はできないし、新聞を読まない人が多い中、スマホが主たる情報源の人も多い。

30年前なら、TVを見ないことで、結構マインド・コントロール回避効果はあったものだが、今は、それにスマホまで見ないことが追加される。要するに極めてマインド・コントロール回避のできにくいライフ・スタイルになったのだ。

 

こうなると残されたマインド・コントロール回避方法は、睡眠時間を削って冥想を行うことがメインの手法となり、活動時間帯なら他人に見られない場所での短時間冥想を都度都度繰り返すしかないのではないかと思う。

 

要するに社会人にとって日常においてマインド・コントロール回避することは、とても難しい時代になってしまったのだ。

それでも坐るしかないと思う。

 

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呼吸法(プラーナ・ヤーマ)

2022-11-10 03:47:59 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第四章】冥想の準備

◎3.呼吸法(プラーナ・ヤーマ)

 

3.呼吸法

 

只管打坐にはそれに適した呼吸があり、クンダリーニ・ヨーガにはそれに適した呼吸があり、丹田禅にはそれに適した呼吸がある。坐相は、その精神状態に対応した坐相となるように、呼吸も坐に対応した呼吸法がある。

それを踏まえ、以下(1)~(3)は冥想の準備として単独の呼吸法として挙げてみる。

 

⑴基本呼吸

充分にからだを柔軟にして、姿勢を気にすることなく、鼻から一杯に大気を吸い込む、大気が一杯に身体に充満したら、そのまましばらく呼吸を止めて、全身の力をすべて抜き、心を気海丹田の中心に置く。

 

それから大気を口から、どこまでも眺めるようなつもりで吐き出す。しみじみと、静かに、完全に身体の中の大気がからになるまで吐き出すのである。

 

⑵完全呼吸

ハタ・ヨーガの完全呼吸と同じ。

 

①意識を丹田(へそのやや下)において腹をひっこめ、息を十分に吐きだす

②1~2秒息を止めてから、腹の力をゆるめる。すると自然に鼻から息が入り、腹が少しふくれる。

③胸を広げ、まず胸の下部分に息を入れ、次に真ん中とだんだん上方に息を入れていき、最後に肩を上げ、胸の上部にまで一杯に息を入れる。息が胸に滿ちるにつれ、腹は自然に少し引っ込む。意識は、息で膨らむ部位とともに上へ上へと位置を変えていく。

④しばらく息を止め、やがてゆっくり息を吐く。まず腹がすぼまり、次に胸の下部、中部、上部とすぼまりながら、完全に吐く。 意識をすぼまる部分にそって移動させる。

 

⑶片鼻呼吸

ハタ・ヨーガにおけるイダー・ピンガラーの呼吸法と同じもの。

この呼吸法では、激情、興奮は禁物である。

①右手の人指し指を眉間にあてる。(口も閉じる)

②十分に息を吐き出してから、右手の親指で右の鼻孔をふさぎ、左の鼻孔から完全呼吸法と同じやり方で息を吸う。

③吸い終えたら中指で、左の鼻孔もふさぎ、息の出入りを止める。

④苦しくない程度に息を止める。(保息=クムバカ)

⑤右手の親指を外し、右の鼻孔からゆっくりと完全呼吸法と同じやり方で息を完全に吐く。

⑥右の鼻孔から、完全呼吸法と同じやり方で息を吸う。

⑦吸い終わったら、右の鼻孔を右手の親指でふさぎ、息の出入りを止める。

⑧苦しくない程度に息を止める。(保息)

⑨右手の中指を外し、左の鼻孔からゆっくりと完全呼吸法と同じやり方で息を完全に吐く

 (②へ続く。)以下吐息・吸息・保息の繰り返し。

 

⑷題目、念仏、マントラなどの声をあげての読唱も一種の呼吸法としての作用がある。

 

(5)ヴィパッサナー

これは単独の呼吸法ではなく、呼吸を見つめる行を中心とする冥想法の複合体。釈迦がこれで大悟したと言われる冥想法ではあるが、危険度も高いので、安易に取り組むことには慎重に。

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食事・嗜好品

2022-11-09 07:28:59 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第四章】冥想の準備

◎2.食事・嗜好品

 

(1)食事について

禁酒、禁煙、禁肉(菜食)等それをすることにより、あなたが調子が良いと思うもの。(出所:冥想道手帳/ダンテス・ダイジ)

 

ハタ・ヨーガは、生涯のうちに、クンダリーニ・ヨーガができるまでの肉体の浄化が目的だが、基本は菜食となる。

たとえば、クリヤー・ヨーガ・センターでも菜食方針。

 

出口王仁三郎は、古事記大気津姫の段で、爛熟腐敗した肉食文化の象徴たる大気津姫を殺した時(古事記による)に、その遺体から稲、粟、小豆、大豆、麦などの穀類が生った(死からの再生)ことを根拠にして、人間の正食とは穀食であって、肉食ではないとする。

また出口王仁三郎は、将来中国軍の空襲で日本が毒ガス弾(生物化学兵器または核兵器)を投下された際に、菜食であれば、生存率は高いとする。

 

クンダリーニ・ヨーギ本山博は、断食をするのも、眠らないのも、休みをとらないのも、菜食するのも、要するに物理的な次元での肉体の働きが弱まるようにするためだとしている。そういう側面もあろうかと思うが、悟後は違うのではないかとか、肉体を傷めるという事自体どうなのかという側面はあるように思う。

 

この他に穀断ちというテーマもあるが、それは万人向けの食事のあり方とは思えないところがある。笹目秀和の出会った崑崙山の500歳の仙人は、食も水も乏しく、2、3日は堪えられるかもしれないがそれ以上は難しいと考えられるほどの食事量だった。さらに空海は臨終直前の何か月はほとんど水も食もとらなかったという事績もあり、単純に肉食と菜食だけ考えればよいということでもないと思う。

 

(2)嗜好品

お茶、コーヒー、紅茶、たばこを代表とする嗜好品は、それを喫することにより、自分が調子が良いと思うものならよいと思うが、ストレスの日常的なガス抜き手段として大いに機能している。世界的にたばこを規制しようと動いているが、その表面的な規制理由とは異なり、人類を快適に暮らさせず争闘を増やそうと企んでいる勢力があるのだろうと思う。

なおストレスは、深刻なものについては、社会的な死への恐怖と肉体の死への恐怖に由来する。

 

 

※参考:出口王仁三郎の肉食の害の見方

『『種々』(くさぐさ)と云ふ事は、臭々の意味であつて、現代の如く、一も二も無く、上下一般に四足動物を屠殺しては舌鼓を打ち、肉食の汚穢を忌み、正食のみを摂つて、心身の清浄を保つてゐる我々大本人を野蛮人民と嘲笑するに立到つたのは、心身上に及ぼす影響の実に恐るべきものがあるのである。肉食のみを滋養物として、神国固有の穀菜を度外する人間の性情は、日に月に惨酷性を帯び来り、終には生物一般に対する愛情を失ひ、利己主義となり、かつ獣欲益々旺盛となり、不倫不道徳の人非人となつて了ふのである。虎や狼や、獅子なぞの獰猛なるは常に動物を常食とするからである。牛馬や象の如くに、体躯は巨大なりと雖も、極めて温順なるは、生物を食はず、草食または穀食の影響である。故に肉食する人間の心情は、無慈悲にして、世人は死なうが、倒れやうが、凍て居らうが、そんな事には毫末も介意せない。只々自分のみの都合をはかり、食色の欲の外天理も、人道も、忠孝の大義も弁知せない様に成つて了ふのである。』

(霊界物語第11巻16章大気津姫の段(二)から引用)

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柔軟体操

2022-11-08 06:43:43 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第四章】冥想の準備

◎1.柔軟体操

 

肉体の柔軟性への配慮がなければ、ノイローゼ(神経症)等に起因する病気にかかりやすい。

次のようなもので自分がそれをすることにより調子が良いと思うものを行う。

⑴ラジオ体操

⑵太極拳

⑶八段錦(太極拳の一種)

⑷ハタ・ヨーガ

通常10種類程度のアサナで十分。

屍アサナ、前屈、コブラ、魚、ねじり、弓、

首立ち、スキなど。

⑸インディアン体操

⑹その他 

 

これは、もともとの出典は、ダンテス・ダイジの冥想道手帳。これをやるこつは、『しみじみとやること』。

ダンテス・ダイジ曰く、『肉体的柔軟への配慮がなければ、禅病にかかりやすい。肉体以前の霊的柔軟さを自覚していないのなら、柔軟体操は役立つ。』(冥想道手帳から引用)

 

禅病とは、禅僧白隠が罹患して軟酥の観で全快させたような病気のこと。

 

私も40年ほど毎朝柔軟体操をやり続けているが、筋力のやせ・低下が顕著になり、以上のようなメニューのみでは足らないことを自覚している。若い時から言われてはいたのだが、特に只管打坐のように不動の姿勢を求められる冥想では、特に筋力は必要なものだ。山本玄峰宮崎奕保らは長寿だったが晩年は坐禅するのが大変だったらしいことを読んだことがある。

 

そこで菊池和子先生の『きくち体操』は老人向けに秀逸なものと感じている。まだ初めて三か月も経っていないが、着実に筋力増加とそれに伴う血行の増加というものを感じている。老人の生活では、フレイル(虚弱)とサルコペニア(筋力低下)が常に問題となるが、『きくち体操』は、人はどのように健常者が老化による前傾から転倒、寝たきりになっていくかを知悉し、そこから逆算して寝たきりにならないためにどの筋肉を鍛えるかをメニュー作りしている印象を受ける。

 

世にストレッチ系の体操は多いが『きくち体操』の特徴は、すべての動作を『意識してやる』、『動かす部位を見る』『脳と筋肉をつなげる』という点。どうも認知症になると号令をかけても動作を号令どおり行ってくれないことから、『脳と筋肉がつながらなくなれば』、『きくち体操』もお手上げで、筋肉回復できないらしい。

 

『脳と筋肉をつなげる』という点では、(初心者意見だが)どこが脳と筋肉との結節点かと言えば、臍下丹田のように感じる。

奇しくも『しみじみとやること』は、きくち体操でも意識されており、きくち体操では、体操中に音楽を聴きながらとか、おしゃべりしながらは禁止している。

またダンテス・ダイジの柔軟体操でも手脚屈伸など動かす際に、同時に息を吸ったり呼いたりする部分もあり、いずれも実は単純な肉体動作ではない。

 

以上により、若い人は、冒頭の6メニューで十分だが、50歳以上はきくち体操も追加が必要だと思う。

 

 

 

 

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見神、神人合一を目指す

2022-11-07 05:56:42 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第三章】冥想の動機

◎3.見神、神人合一を目指すには、効果を求めない冥想、目的を求めない冥想に専念することが必要。

 

(1)功利的な説明

現代人は、冥想により、自分にとって金が儲かったり便利になることならば、迷わず冥想することを選びがち。これは、効果や目的を求める冥想。

ところが、人が個人であるのは第五身体コーザル体まである。

 

さて第六身体アートマンからは、人は世界全体、宇宙全体となるので、一個人が金が儲かったり便利になることは、世界全体、宇宙全体にとってメリットがあることとは言えない。

よって、見神、神人合一を目指すということは第六身体以上を目指すということだから、効果を求めない冥想、目的を求めない冥想に行くしかない。

 

(2)功利的でない説明

  真実の世界は、究極しかない。そこは過去も未来も現在も一緒になった時間のない世界であり、現在だけの世界。

 世界全体、宇宙全体が自分であるから、透徹した孤独だけがある、石ころの心

 石ころの心から、真善美愛が流れ出す。

 

その世界を見たり、合体しようと思うのなら、効果を求めない冥想、目的を求めない冥想しかないと、聖者覚者は口をそろえて言っている。

 

どうしてそうなっているのかわからないが、神仏は、常に自分をなくしていくという方向性にある。

たとえば善悪で言えば、善は自分をなくす方向であって、道教の善悪の基準の功過格はその点でわかりやすい。自分をなくしていくという方向性にあっては、効果を求めたり、目的の実現をもくろむ冥想はあり得ない。

 

シジフォスが山の頂上に岩を上げては落ちてきて、また岩を上げることを繰り返したり、禅僧馬祖が瓦を磨いて仏になろうとしたり、そのことを示唆するエピソードは多いものだ。

 

究極に進むということは、自分をなくす、あるいは自分が死んで世界の逆転に至るという表現が多用される。

 

生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき  (江戸時代の禅僧至道無難)

 

その死に方については、OSHOバグワンクリシュナムルティも、「日々瞬間瞬間に死ぬ」と同じことを言っている。自分が日々瞬間瞬間に死ぬのであれば、自分個人だけのメリットを求めることは意味がなく、効果を求めない冥想、目的を求めない冥想しかない。

 

 

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冥想には、効果や目的を求める冥想と効果や目的を求めない冥想の二種がある

2022-11-06 07:22:39 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第三章】冥想の動機

◎2.冥想には、効果や目的を求める冥想と効果や目的を求めない冥想の二種がある。

 

(1)効果や目的を求める冥想

効果や目的を求める冥想でいう、効果や目的とは、落ち着く、よく眠れる、気分が上がる、前向きな気分になる、手軽にストレス解消できる、簡単に気晴らしできる、健康になるなど生活全般が快適になることである。

 

そして冥想には願望成就専門の観想法があるが、これはほとんどの人が誰に教えられるでもなくやっているものだ。試験に合格したい、恋愛成就、金儲け成就、健康祈願、家内安全、交通安全、云々。

なお観想法といえば、キリスト教で、イエスの一生を観想で再体験しようというものがあるし、密教では、空の観想、阿字観などがあるが、これらは、世俗の願望成就とは少々違っており、究極に至る準備の一つになっている。

 

またや効果や目的を求める冥想として実際に出てくる看板には、ヒーリング、レイキ、オーラソーマ、催眠術、ヒノプセラピー、ヨガ教室、気功、太極拳、呼吸法、パワーグッズ、カード、マインドフルネス瞑想、ヒマラヤ瞑想などである。

 

さらにホロスコープ西洋占星術、八卦、九星、四柱推命、紫微斗数、タロット、ルノルマンなど無数の占術があるがこれらは、象やカード、卦、星などをきっかけにして自分の内側をのぞき込む手法の冥想と言える。

 

残念ながらこうしたものは、人生を生きていく上での快適さを求めるものであって、当座の一時しのぎにはなっても、理不尽、不条理、病気、怪我、老化、病気、死について最終的な解決を与えてくれるものではない。

そこが効果や目的を求める冥想の限界である。効果を期待する冥想・瞑想である限り、達成した効果、実現した願望は通り過ぎて、それは必ず隘路にはまっていく。そこで早晩人は効果や目的を求ない冥想に進んで行かねばならない。

 

(2)効果や目的を求めない冥想

これは、具体的には純粋冥想であって、只管打坐やクンダーリーニ・ヨーガを指す。クンダーリーニ・ヨーガと言っても、インドのクリヤ・ヨーガだけではなく、古神道、道教の周天、内丹、日本の密教、チベット密教、西洋錬金術などもクンダーリーニ・ヨーガ系といえる。

 

こうした冥想により、人は、ニルヴァーナ、モクシャ、涅槃、大日如来、道(タオ)、天御中主神、Godなど、そもそも言葉で表現できない究極に至る。

 

最近は、効果を求めない行動とか、メリットのない行動とか、目標を持たないでする行動とかをそもそも理解できない人も増えているのかもしれない。

 

(3)形のある世界と形のない世界、現象のある世界とない世界の区分

 

上記(1)(2)の考え方は、宗派によって区分は異なるが古来からある。参考までに古神道と原始仏教の区分だけ挙げる。

 

a)古神道:

出口王仁三郎は、

個別神を祭祀を以てまつるだけでは不足であって、主神を祈ることでバランスがとれる。両方相整って完成となる。生活の安穏、幸福、癒しを希望するケースで片方の斎事だけでは片手落ちであるという。

 

なんとなれば、天津神、国津神、八百万の神などの個別神だけが、この世を分掌しているわけではなく、その根っこには、主神たる天御中主神がおはしますからである。要するに個別神を祀るのが顕斎であり、主神を祀るのが幽斎であるが、人間の立ち位置は、その顕幽のバランサーなので、日頃の業として顕幽両方やらなければならないということ。

『道之大本 第三章

 

一.神を斎(いつ)きまつるには、顕斎、幽斎の二つの大別あり。

二.顕斎は、天つ神、国つ神、八百万神を祭祀するものにして、宮殿あり、祝詞あり、幣帛ありて、神の洪恩大徳を報謝して、敬虔の意を表するの道なり。

三.幽斎は、真神を祈る道にして、宮社もなく、祭文もなく、幣帛もなし。ただ願望するところを、吾人の霊を以て祈祷し奉るの道なり。

四.要するに顕斎は、祭祀を専とし、幽斎は祈祷を専とするの道なり。

 

五.真の神は霊なり。故に其至霊に対するは、霊を以て祈るべし。

六.顕斎のみに偏るも非なり。幽斎のみに偏するも亦(また)非なり。

七.ある宗教の唱ふる如く、「神は霊なり」として、霊のみに偏し、形あるものを祭ることを忌み嫌いて、顕斎の道を無みし、偶像宗教などとそしるもの、あまり偏見にして、未だ全き教理といふべからず。

八.斎きまつるには、神像必ず不可ならず。されど祭祀祈祷の大道を誤りて、顕斎のみによりて福祉を祈るは非なり。祈りは霊を以てせざるべからず。』

(出口王仁三郎著作集第一巻/出口王仁三郎/読売新聞社から引用)

 

※幽斎が、効果や目的を求めない冥想である。

 

b)原始仏教

1.原始仏教では、世界を三つの分野に分類する。欲界と色界と無色界である。

それぞれの分野が冥想の横軸である9つの冥想レベルに対応している。 

(1)欲界

最も下の世界で、淫欲と貪欲などの欲望を持つ生き物が住んでいる世界。

十界説では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間と、天の一部が含まれるとされる。

天の一部までのレベルの冥想は欲界定とされる。

 

(2)色界

欲界の上の世界で、既に欲望を離れた生き物の住む世界であり、姿や形のある「色」(物質)から成っている世界である。

十界説では天の一部、声聞、縁覚、菩薩、仏に当たる。

 

冥想(禅定)の4つのレベル(四禅)は、この色界からスタートする。初禅から四禅まで、どれも、気持ちよかったり、楽しかったりする状態のこと。

(a)初禅

(b)二禅

(c)三禅

(d)四禅

 

以上の欲界や色界での冥想の中で、様々な心地よいスピリチュアルな状態が起こると考えられる。たとえば、幸福感、清らかさ、安心感、静けさ、力強さ、さわやかさ、やわらかさなどが生き生きとした実感として感じられる状態のことである。また天の一部も含まれることから、一部の超能力の発現も起こることがあると思う。

 

(3)無色界 

欲望もなく、物質的なものも超えた精神性だけの世界。

(e)空無辺処定:限りない広がりがあるという意識

(f)識無辺処定:あらゆるものが限りない広がりにあるという意識

(g)無所有処定:なにもかもがないという意識

(h)非想非非想処定:なにもかもがないという意識もないという状態

 

(4) 滅想定:滅尽定(滅受想定): 心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な禅定の境地。(ニルヴァーナではない)

 

※滅想定以下すべてが、効果や目的を求める冥想に分類される。ニルヴァーナだけが効果や目的を求めない冥想。

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神仏とつながることが冥想の動機となる

2022-11-05 05:48:17 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第三章】冥想の動機

◎1.神仏とつながることが動機となる。

 

神仏とつながると言った場合、自分と神仏は別々であるということが前提になるが、実はそうではないことは既に述べた。

 

生活苦やのっぴきならない願望など現世利益で神仏を求める人もいるが、初詣、墓参りなど年中行事を含め、日常生活で素直に神仏の気配を感じることで神仏とつながる人も少なくないだろう。

 

そこには、みじめで情けない自分がいて、それを何とかしたいとして神仏に祈るということがある。

 

神仏につながるということは、大方の予想に反しほんわかした気分で幸福な雰囲気に浸るというようなものではなく、実は意識の絶対的な極限状況を通過しないとできないものである。

 

神仏につながる様態は三種であり、大神(主神。仏)を憑依させる(神下ろし)、見神・見仏、神人合一。

さはさりながら、冥想だけが、神仏に至るプロセスではなく、仕事や家事を一生懸命にやり続けてある日開けることもある。

 

神仏につながる道は多いが、その道をたどる人は、意外に少ないものだ。

 

そして人生上の経験値が十分でなければ、まだまだ贅沢な生活や燃え上がる恋なんかに未練を残していて、深いところの本音ベースでは、神仏につながりたいなどと思ってはいない人も少なくない。

 

精神的なものにさほど価値がないと思っている、金と便利優先の地獄的なこの時代。この世の理不尽、不条理を持て余し、この世を生きるのがつらい、生きるのが大変でどうしようもないという気分、生活実感というものもある。

 

そうした状況を見て、誰もが神仏を真剣に感じるイベントとして、凡夫の耳も菊の年とか最後の審判などの説もある。

 

そうした自分の切迫感と時代的な緊迫感を感じるというころが、冥想の動機となっていく。

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死後の輪廻転生はマンツーマン輪廻といえるとは限らない

2022-11-04 06:26:21 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第二章】神仏と冥想の関係

7.死後の輪廻転生はマンツーマン輪廻といえるとは限らない。

 

(1) マンツーマン輪廻とは

一般的には誰もが、自分は死んだら自分の霊魂があの世に行って輪廻するものと思っているものだ。

 

マンツーマン輪廻とは、一人の人間が死ぬとあの世では一人の霊になるという輪廻説の事。仏教では六道あって人間に生まれ変わるのは、上位から2段目であり、人間以外の畜生などのルートもあって、一見一人対一人のマンツーマン輪廻説をとっているかに見える。

 

なおキリスト教にもユダヤ教にも転生はなく、死後人は人として、天国か地獄か煉獄に進み再生しない。これは、まさにマンツーマンどころか輪廻転生を否定する説である。

 

(2)一対多輪廻とは

だが、仔細にマンツーマン輪廻説を検討していくと、そうではないという有力覚者が何人かいる。

 

それは、ダライ・ラマであり、ダンテス・ダイジであり、一対多があり得ること説明している。

 

ダライ・ラマは、人によっては、一つの輪廻から十の輪廻を実現するどころか、数百の輪廻、数千の輪廻をも、それも同時進行的に行なうことができることを認めている。

 

ダンテス・ダイジは、人は死ぬと宇宙意識(アートマン、第六身体)という無限の海原に行くが、その海原の中には無限のイメージが蓄積されており、そこからそのイメージが、時にイメージ自体で現れたとき、それを幽霊と呼ぶ。またイメージが仮に肉体として現れた時、転生と呼ぶ。そしてその転生が一対一であるなどということは言えないとする。

また転生自体が、今生の個人Aが来世では個人Bになるというような個人から出て直接個人に転生するわけではなく、個人Aは死において、過去現在未来と宇宙全体を含むアートマンに一旦戻り、それから個人Bに転生するとする。

 

そして転生前と転生後の個人は、まったく別人ではなく、大体似ているが少々違いがある。もっとも大体似ていないと転生とは見れない。

 

(3)マンツーマン輪廻も一対多輪廻も本質ではない

OSHOバグワンは、輪廻転生からの解放とは、あなたが二度とここに生まれてこないということではなく、「もは や "来ること"も"行くこと"もないということだ-どこにも、どの次元にも。」と言う。これを「自分が本当にいる場所にいる」とし、ここではじめて、真の喜び、幸福を見出すことができるとする。つまり、輪廻のなかを通っていくということは、幻想の場を彷徨っていくということだ、とする。

 

一般に輪廻転生の終了と言えば、七回とか百回転生すれば、輪廻が終了して二度と人間に転生して来ないことだと想像するものだ。OSHOバグワンは、そうではなくて、今ここに居ること、つまり大悟覚醒こそが、輪廻転生の終了だと唱えている。

 

ダンテス・ダイジは、転生ルートとは、個人A⇒アートマン⇒個人Bだと説明しているが、実は経由するアートマンの部分が大悟覚醒にあたる。チベット死者の書では、このアートマンのところが原初の光にあたる。

 

以上をまとめれば、すべての人は輪廻転生の途上で、肉体死に際し必ず輪廻転生から解脱しているという論理になるが、そうでもあり、そうでもないというところが、人間の重大なテーマとなっている。

その問題意識の下では、マンツーマン輪廻も一対多輪廻も本質ではないのだ。

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肉体が死んでもほとんどの人は悟らない

2022-11-03 03:32:35 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第二章】神仏と冥想の関係

6.肉体が死んでもほとんどの人は悟らない。悟りは起きているが何が起きたのかはわからない人が大半。

 

人間が悟りを開くには、生前冥想修行に打ち込んで臨終以前に大悟覚醒できるタイミングと、臨終時に大悟覚醒の2種類に分かれる。特に生前冥想修行に打ち込んで来た人間であっても、臨終時の覚醒になってしまうケースもある。

 

この点でチベット密教では、在家者の臨終時に、死にゆく者の耳元で、導師が死の進行状態を見ながら、眠り込むなとか、逐一アドバイスを送って、「意識清明なままで」死のプロセスに取り組むことで、最低でも見仏させ、あわよくばニルヴァーナに至らしめ輪廻転生から解脱させようとするもの。

 

この根本テキストであるチベット死者の書の著者はパドマサンバヴァであり、人類の進化に大きなサポートを与えてくれた。

 

チベット死者の書によれば、肉体死の進行プロセスの中で、最初に原初の光を見る。この原初の光は、アートマンにして本来の自己にして仏なのだが、見たことを自覚できない人もいれば、数秒覚知する人や数時間覚知できる人もいるという。だがいずれにしても時間がたつと、原初の光は見えなくなる。

 

これを踏まえれば、成仏とは数秒以上原初の光を認識できた人ということになろう。しかしながらチベット密教では、原初の光を見ただけでは大悟覚醒とせず、生前に原初の光(母の光明)と同等の子の光明を開発せしめ、母の光明と子の光明を合体させて大悟覚醒としている。

 

だが、死にゆく人の大半が原初の光を認識しないことを踏まえれば、肉体死は悟りではなく、自我の死が悟りであるという、おおまかな仮説も許されると思われる。例外的に、肉体死に際して悟る人がいるにしても。

 

また原初の光を悟りと見れば、「悟りは起きているが何が起きたのかはわからない人が大半。」という消息は、以上のとおりとなる。

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見神が起きても、何が起きたかわからないということがある

2022-11-02 08:04:43 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第二章】神仏と冥想の関係

5.見神が起きても、何が起きたかわからないということがある。何が起きたかわかるには準備が必要。

 

手軽な見神、見仏のチャンスは、くしゃみである。万人は、くしゃみの瞬間に見神、見仏のチャンスを得ているがみすみす取り逃がしている。

 

お手軽ではないが、誰でも肉体の死に際して、原初の光という見神、見仏のチャンスがある。だが、中有到達時まで気がつかないので、三途の川を渡ると言う表現でその機微をまとめて表現することにより、見神、見仏のチャンスがあったなどとは夢にも思わないことがほとんど。

 

OSHOバグワンは、さらに突っ込んで、普通の人は時間は連続していると思い込んでいるが、実は連続しておらず、瞬間瞬間(刹那)で断絶しているとする。『この隙間があるからこそ、現象全体、世界全体は一瞬して無に帰すことができるのだ』ととれるような説明をしている。原子と原子の間に隙間があるようにこの隙間があるのだとして、その隙間により世界全体、現実全体は無となる、と。

つまり平常、意識は連続しているように見えるが、実は隙間があって、そこに見神、見仏のチャンスがあるのだろう。

 

取り逃がすという例では、以上のように偶発的自然発生的な見神、見仏、見性のチャンスを棒に振るケースの他に、もちろん見神、見仏をめざす冥想修行の途中で、不本意ながらそのチャンスに気がつかない例もある。

 

代表的なのは、敬虔なクリスチャンが毎日イエスの来臨を願っていたが、ある朝イエスが来臨したのに当の本人は眠っていて気がつかなかったという話。あるいは、禅で既に見性しているのに、見性したことを自分が認めないというものもある。

 

比叡山高野山で、不眠不休で仏を見ようとする行がいくつかあるが、それはその特殊な行の期間に何とか訪れる仏を見るチャンスをものにしようとするものではある。

 

ところが、実はOSHOバグワンのいうように平生であっても見神、見仏できるのであれば、見神、見仏が発生する特別な時間を捜し求める必要はなく、自分の意識を見神、見仏できるまでに深める方が本筋なのだろうと思う。(この辺に大量に覚者を出す方向性があるかもしれない)

 

そうは言ってもアヴィラのテレサの言うように、奇蹟には時を選ぶタイプのものと時を選ばないタイプのものがある。果たして見神、見仏はどちらのタイプのものなのだろうか。

 

さてヴィヴェーカナンダは、見神、見仏したことを自覚しながら、その先に進むことを拒否した。準備ができていないということには、以上のよういな見神、見仏を自覚する準備ができていないことの他に、その先のニルヴァーナ、究極に進む準備ができていないということもある。

 

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見神と神人合一は異なる

2022-11-01 03:19:43 | Overview of the meditation 冥想の全体像

【第二章】神仏と冥想の関係

◎4.見神と神人合一は異なる

 

ダンテス・ダイジが、見神・見性・見仏を一言でくくる。

 

『ううん、そうではなくてね、単なる見性ということならね、無数に起こるんだ。それはこっちから見るって世界。だからそれは消えてしまう。

 

その時は素晴らしい。見えたと思う。でも俺が見ているんだ所詮。

 

(中略)

 

そういう経験とか、そんなもの無数にあった。あったけど、それはまだ俺がいる。俺が経験しているんだ。

 

今、俺は何も経験していない。』

(素直になる/ ダンテス・ダイジ講和録4/渡辺郁夫編P99から引用)

 

たちまちに 死に果てて 見る心こそ 仮に佛とは 名は付けにけれ (至道無難)

 

この歌は見仏。

 

オカルトブームや、だいぶ下火になったとはいえ自己啓発セミナーや、霊的体験ショップ・ツアー、パワー・スポット探訪など神秘的体験で人の興味を惹きつけようとする動きはあまりにも多い。

 

その頂点付近に位置する神秘的体験が見神・見性・見仏であって、正統宗教でも比叡山で見仏目的に修行するカリキュラムもあって、見神・見性・見仏そのものが、『体験とはいえない体験』の前段のまともなステップであることは、言うまでもない。

 

禅の十牛図でもメイドインジャパンのうしかひ草にも見牛は出てくる。

 

だからといって、見神・見性・見仏は最終的なものではないと、ダンテス・ダイジは、そこを殊更に強調する。

 

『俺がいない、俺が経験していない世界』は、神人合一であって、禅の十牛図の第八図であり、うしかひ草の神無月である。神人合一では、神人合一を体験している自分はない、なにもかもない。

 

本来もなきいにしへの我ならば 死にゆく方も何もかもなし (一休)

 

ダンテス・ダイジは、見神・見性・見仏を繰り返していくと、いつか神人合一である究極の悟りに届くと唱える。これは、禅で見性後に悟後の修行である聖胎長養を置く理由なのだろうと思う。白隠は自ら大悟18回、小悟数知れずと言っていたが、見神・見性・見仏を繰り返すということはそういうことなのだろうと思う。

 

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現代人はすぐに悟れる

2022-10-31 06:49:28 | Overview of the meditation 冥想の全体像

【第二章】神仏と冥想の関係

◎3.現代人はすぐに悟れる。

 

ダンテス・ダイジが、現代人は数分の冥想で悟ることができると言ったことがある。これは、神仏を見ること、すなわち見神、見仏、見性、一瞥を、悟ると称している。

 

OSHOバグワンは、人間の意識は自分では終始連続しているように思っているが、映画フィルムのコマとコマの間に隙間があるように、その意識の連続の間には、実は隙間があるとし、その隙間に覚醒のチャンスがあるとする。

 

またチベット密教は、自然発生的隙間に着目していて、その隙間は、くしゃみ、失神などでも発生し、その隙間では人間の肉体死の最後のステップで目撃される原初の光を見ることができるとする。

 

さらに禅では、禅語録でどんなきっかけで大悟するかを記録しているのだが、小石が竹に当たったり、暗闇でろうそくを吹き消されたり、花の咲くのを見たり、座っていて後ろに倒れたりなど、日常でありがちな出来事が並ぶ。

 

これらの例は概ね短時間な例であって、まずは現代人は数分の冥想で悟ることができる可能性の高さを示しているように思う。

だが本当に悟れるかどうかは、現代人の現実感覚が、いわばいつでも悟りを認識できるほど、「不条理、理不尽に出会って、オープン・マインドできるフランクさがあるかどうか」にかかっているように思う。この点を、現代人は数分の冥想においてクリアできるとダンテス・ダイジは見たのだろう。同様の認識は、万人が同時にその状態に至る日が来るということで、『死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。』(ヨハネによる福音書5章25~29節。)とか『凡夫の耳も菊の年』(伊都能売神諭 大正8年1月27日)という言葉でわかる。

 

勿論、突然の災害ですべてを失うなど、長時間の自然発生的な隙間、裂け目もあるが、裂け目であることに変わりはない。

 

こうした隙間で見ているのは、神仏であって、本来の自己とか神性、仏性と言われるもの。七つの身体論で言えば、アートマン。

 

ダライ・ラマは、こうした自然発生的、偶発的な隙間、裂け目の発生は、時間がたてば消えてしまい元にもどる。だからそれを永続化する冥想修行が事前に必要なのだと言う。チベット密教では、偶発的な隙間で見るものを母光明と呼び、冥想修行で得る同等の境地を子光明と呼び、母光明と子光明の合体により悟りを永続化できると考えている。

 

禅の十牛図で言えば、母光明は牛、子光明は牧人に当たる。十牛図でも二者合体して後、覚醒に至るわけだが、図らずも二つの要素を立て、合体するステップを見ているのは、チベット密教と共通しており面白い。

 

だが、隙間、裂け目が発生しても、何が起きているか認識できない人の方が多い。

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悟る仕方は三種。神仏に憑依される、神仏を見る、神(仏)人合一

2022-10-30 06:51:41 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第二章】神仏と冥想の関係

2.悟る仕方は三種。神仏に憑依される、神仏を見る、神(仏)人合一

 

人が神仏を悟るやり方の区分は次の三種類。

(1)神仏に憑依される

(2)神仏を見る

(3)神(仏)人合一

 

(1)神仏に憑依される

「神仏に憑依される」(帰神)の神仏は、大神、根源神、主神、大神、大日如来など無形の神を指すのであって、八百万の神、天使、菩薩、邪神、邪霊などの有形の神霊は含まない。

「神仏に憑依される」の欠点は、大神が憑依している際、本人は神仏の言葉を語るが、それを聞く他人は何を語っているかわかるが、当の本人はわからないということ。よって本人は、やがて「神仏を見る」などの方向を目指すことになる。

 

(2)神仏を見る

見神、見仏、見性、一瞥を神仏を見ると言う。これは禅の十牛図では第三図。これも悟りではある。

世間では、神仏を見ただけの人でも師匠、グル、マスターとして活躍しているということはある。

だが、「神仏を見ただけの人」の欠点は、ややもすればその後、元に戻ったり、悪化する人さえいるということ。それでも神仏を見た人は、現代では悟った人として差し支えないのだろうと思う。

 

(3) 神(仏)人合一

只管打坐の身心脱落、密教で言う入我我入、クンダリーニ上昇してモクシャに至るというようなものが神(仏)人合一。

神仏、ニルヴァーナは言葉で表現できないので、神(仏)人合一も言葉では表現できない。

 

神、仏、タオには2つの顔があり、有の側と無の側である。両方とも神、仏、タオであるが、どちらが奥かと言えば、無の側である。有の側はアートマンであるのに対し、無の側はニルヴァーナである。アートマンのことは、古神道では、天照大御神と素盞嗚神の事であり、ニルヴァーナ、無の側が、天御中主神。天御中主神の特性は無形、無声、無限絶対、無始無終の宇宙の大元霊(出口王仁三郎説)。いわゆる大神とは、無の側の方である。

 

神(仏)人合一にあっては、既に見ている自分はないので、「体験とは言えない体験」と呼ばれる。禅の十牛図では第八図。

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