◎出口王仁三郎の罪人橋
最近ネット詐欺など、人に騙される話が多い。ところがその被害者は一般に善人であるという前提に立っているが、被害者が詐欺にあったことで、逆恨みし、神も仏もあったものかと神仏を離れ、地獄への道を進む者がいると、出口王仁三郎は注意している。
そうした被害者でもそんな悪の道に入ると、その地獄から娑婆に戻るには、大きな川にかかっている細い長い橋を無事に渡らねばならない。この橋を罪人橋という。
出口王仁三郎は、罪人橋を渡らねばならぬ人は、そもそも自分の強欲と不注意によって損害をこうむったのだが、それを棚に上げて、神仏を逆恨みすることがあるという。
最近は、何も悪いことをしていなくても、システムや法律、手続の不備をついて、詐欺を行う人間が出てきている。そうした犯罪に遇う人間には何の罪もないのではないかと思う人も多いと思うが、出口王仁三郎は、そこは厳しく、悪を行わず善だけを行う人間にはそういうことはないと主張する。
出口王仁三郎のその見方は牧歌的なのか、それともあくまで人間のカルマの真相を突いているのだろうか。
現代は、強欲は違法でも道義的責任もないとされるのだろうが、だから地獄がほとんど現界に移ってきているのだ。不注意はあり得るが、できる限りは人事を尽くす。
『自分の迂愚不明から悪人に欺かれ自ら窮地に陥り、遂には其人間を仇敵の如く怨み且(かつ)罵り、遂には自分の悪欲心より出でたる事を平然として口角に束ねながら、其竹篦(そのしっぺい)は遂に神の御上にまで及ぼすものである。
彼等は茲に至つて天道は是か非か、神は果して此世にあるものか、果して神が此世に儼存するものならば、何故斯の如き悪人に苦しめられ居るのも憐れみ給はず傍観的態度を執らるるや、吾々は斯の如き悪事災難を免れ家運長久を朝夕祈り立派にお給仕をして信仰を励んで居つたのに何の事だ。
神には目がないのか、耳がないのか等と云つて、恨言を百万陀羅並べ立て、遂には信仰より離れ自暴自棄に陥り、益々深く地獄の底に陥落するものである。』
(霊界物語 第48巻第9章 罪人橋から引用)