◎慈悲を行って慈悲の作為がなければ、既に仏になっている
至道無難は、心はもともと何もないが、その姿を仏、神、菩薩と呼ぶ。その心の変化の相は、第一に慈悲、そして和、そして素直である。最初に慈悲が出るのが特徴で、慈悲は別名“愛”である。
仏と云い、神と云い、菩薩と云い、如来と云う。色々有り難き名は、人の心をかへて云う也。心本(もと)一物もなし。心の動き、第一、 慈悲なり、和なり、直(すなお)也。(『即心記』奥書)
じひ(慈悲)するうちは、じひに心あり。じひ(慈悲) じゆく (熟) するとき、じひをしらず。じひしてじひしらぬとき、仏といふなり。(『即心記』)
※コメント:イエスは、マタイによる福音書第六章で、どのようなことが善行であるかを説明している。
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように注意しなさい。もしそうしないと、天にいますあなた方の父から報いを受けることがないであろう。
だから施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それはあなたの施しが隠れているためである。すると隠れていた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」
このようなやり方を至道無難は、次のように歌う。
ほとけは、じひして、じひをしらず。 (『即心記』)