◎出口王仁三郎が無常を歌う
昭和の大宗教家出口王仁三郎の歌集言華(下)から「無常」
『無常
春の日を咲きほこりたる山桜の一夜の嵐に散る世なりけり
友垣と語らふ間さへ死の神のかげはその身を襲ひ入るなり
青空の奥の奥まで澄みきりし日も夜の間に雨となるなり
死の神の手にゆだねたる人の身を生き通しなる神にすがれよ
生き生きて生きのはてなき命こそ天津御神の賜(たまもの)なりけり
肉体はよし死(まか)るとも魂は幾万劫の後まで生きん
栄枯盛衰常なき人の身にしあれば栄えの神を夢な忘れそ
親しげに語り合ひたる友垣の一夜(ひとよ)さのまに訃を聞く世なり
露の身のはかなき命を思ふかな若かりし友の訃を聞く夕べを
若返り若返りつつ幾千代も生き通すなり神にある身は
今日ありて明日なき命を持ちながら欲のかはきて人に憎まる
風なきに桐の葉ひとり落つるごとはかなきものは命なりけり
一度(ひとたび)は死ぬべき命と知り乍(なが)ら欲に底なきおろか者かな
老若の区別はあれど生命の命(いのち)はすべて同年なりけり
三歳で死するともよし百歳の命保ちて死するも亦(また)よし
一度(ひとたび)は死なねばならぬ人の身と思ひて命の神を祈りつ
限りなき命の神に頼るこそ人生唯一の幸福と知れ
うつそみの人の命は春の雪野べの陽炎に勝りてもろき
春の雪の忽ち消ゆるさま見れば人の命の果敢(かい)なさを思ふ
木枯に吹き叩かれてあともなく梢放るる落葉の命よ』
(言華(下)/出口王仁三郎/みいづ舎P137-139から引用)
無常とは、永遠不壊に変わらないものなどなく、世の中のすべてのものが移り変わり、生滅すること。
『若返り若返りつつ幾千代も生き通すなり神にある身は』の生き通しの神が自分であるとは、自分が世界のすべてであって過去現在未来を含む一枚板のような現実に生きているということで、神人合一の第六身体のこと。
それでも神ならぬ自分は、一度(ひとたび)は死なねばならぬ人の身と思って命の神を祈るのだ。