アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

エミー賞『SHOGUN 将軍』作品賞・真田広之主演男優賞など18冠達成

2024-09-16 15:58:18 | 達磨の片方の草履

◎見返りを求めない行動、これをZENという

 

『SHOGUN 将軍』エミー賞おめでとう。受賞の深因は、アメリカ人が求めるZENを、このドラマ・シリーズ全体に流れる個人的には自害のような大事でも「見返りを求めない行動」として淡々と行っていくところに発見したからではないか。

『SHOGUN 将軍』の特徴は、キリスト教では禁じられている自害が10例ほどはあるのだが、あろうことか誰もがそれを主君の命などを受け淡々とこなしていること。

イギリス人航海士の按針は、最初は理解し難く、驚いたり怒ったりしているが、最後はそれを骨身に染みて理解するほどまでになる。それが西洋と東洋の融合であった。

鞠子のモデルは、逆臣明智光秀の娘細川ガラシャだが、その何重にも抱えた重層的不条理が、薙刀での立ち回りの虚無性を増幅させ、生きること自体の困難さを、ろうそく照明をふんだんに用いた闇の中に浮き彫りにさせていた。闇は、心象風景でもある。

 

重層的不条理は、虎永にも藪重にもその他の主要なほとんどの配役にも見えるが、短い10回シリーズでよくここまで、現代人に共通する生きること自体の虚無性を喚起させることに成功できたものだと思う。

現代人の公私にわたる重層的不条理を解決するのがZENであって、それを生きたのが虎永と鞠子。それを真似び得たのが按針であった。

またZENは、挨拶の所作、手紙など小道具の扱いの一つ一つにまで現れている。これぞ日本人であるが、このドラマは、アメリカの資金と熱意が結実したものであることも忘れられない。

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目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、手がまだ触れなかったこと

2024-09-16 06:25:33 | イエスと救世主たち

◎言葉で語れないニルヴァーナ、白髪の子

 

トマス福音書から、

『一七

 イエスが言った、「私はあなたがたに、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、手がまだ触れず、人の心に思い 浮かびもしなかったことを与えるであろう』

(ナグ・ハマディ文書 2 福音書/荒井献/〔ほか〕訳/岩波書店P24から引用)

 

これは、言葉で語れないニルヴァーナのことであり、出口王仁三郎の次の歌と同じ。

 

耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず

 

耳も目も口鼻もきき手足きき 頭も腹もきくぞ八ツ耳

(出口王仁三郎)

 

『一一

 イエスが言った、「この天は過ぎ去るであろう。そして、その上(の天)も過ぎ去るであろう。

そして、死人たちは生きないであろう。そして、生ける者たちは死なないであろう。あなたがたが死せるものを喰う日に、 あなたがたはそれを生かすであろう。

 

あなたがたが光にあるとき、あなたがたは何をするであろうか。あなたがたが一つであった日に、あなたがたは二つになっている。しかし、あなたがたが二つになっているときに、あなたがたは何をするであろうか」。』

(上掲書P21から引用)

 

『天は過ぎ去る』とは、現象の転変が止まらない様。

生も死も一緒くたになった第六身体アートマンにある日が『死せるものを喰う日』であり、死人たちは生きず、生ける者たちは死なない。

 

一つの自分個人が一つの宇宙全体となる時、合計二つとなっている。その時誰の意思で何をするのだろうか。天意のみあり、恣意はない。

 

『二二

イエスは乳を与えられている小さな者たちを見た。彼は彼の弟子たちに言った、「乳を与えられているこの小さな者たちは、王国に入る人々のようなものだ」。

彼らは彼に言った、「私たちが小さければ、王国に入るの でしょうか」。イエスが彼らに言った、「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがた は、[王国に]入るであろう」。』

 (上掲書P26から引用)

 

『二つのものを一つにし』とは、一つの自分個人が死んで一つの宇宙全体となって再生すること。

 

『男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にする』は、両性具有、完全人であって、第五身体で成る。LGBTQではない。

個たる人間の最後の姿は、あらゆる正反対のものを包含して完全人であり、ミクロコスモスのようなものである。

 

『一つの目の代わりに目をつくり云々』は、人は誰でも転生の最初に全能の神に出会っているが、人生航路上で再度自分を死んで神に出会わなければ、真に神に出会うとは言えない。

だからチベット密教では、死の直後には神である母の光明に出会ってもこれを悟りとは見ず、後天的な冥想修行の努力において神に出会うことを子の光明として区別する。母の光明が最初の「目」であって、その代わりに作った「目」が子の光明。

 

老いたる子白髪の子としても表現される。

 

ここまでわかるイエス・キリストが磔にあうまで大悟しなかったのは、まことに不思議なところではある。

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