◎自分とものとがひとつになっている状態を自分で知る
道元の正法眼蔵でも身心脱落についてすっきり説明しているところはない。そこで曹洞宗の原田雪渓禅師の身心脱落の説明。
『ですから、眼耳鼻舌身意の六つの働きを、本当に働きのままにまかせておくことのできる状態というのが、いちばん人として安心であり、平和の状態であります。
坐禅のひとつの方法に「ひたすらに坐る」、すなわち「只管打坐」という方法があります。只管打坐という坐禅は、いまご説明いたしましたように、六根―――眼耳鼻舌身意の働きを、自分の考えをまじえずに、まったくその働きのままにまかしている。見るもの、聞くもの、考えること、それを一切相手にせず、邪魔にせずして、凛として坐る。
それを只管打坐の坐禅といいます。
そういう六根のままにまかして、それを続けることによって、自分とものとがひとつになっている状態を自分で知ることができます。それを「身心脱落」と呼んでおります。』
(THE・禅/原田雪渓/柏樹社P69-70から引用)
普勧坐禅儀で、只管打坐の坐法はわかるが、身心脱落のイメージは初心者、門外漢には形成しにくいものだ。只管打坐はイメージ実現の観想法ではないが、ある程度はわかるように教えてもらわないとね。
ネットで道元の映画がyoutubeで置いてあったが、それに身心脱落シーンがあって、空中に昇っていくのだが、それで只管打坐をイメージするのでは大いに誤ろうというものだ。
こういう文章はありがたい。