◎禅マスター南泉の子猫斬り
(2021-06-02)
猫はかわいいものだが、子猫は無邪気さが加わってさらにかわいい。
南泉が住職の寺で、ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の子猫をどちらが飼うかについて言い争っていた。
そこに南泉がやってきて猫をぶら下げて言った。
「僧たちよ、誰か大正解の一語を言い得るならば、この猫を助けよう。言い得ぬならば、斬り捨てよう。」
暫時待ったが、残念ながら誰一人答える者はなかった。南泉はついに猫を両断した。
そこに趙州が外出先から帰ってきた。南泉は彼に猫を斬った公案を呈示すると、趙州は履(くつ)を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。
南泉は、あいつがあの時いれば、子猫は斬られずに済んだのに、とつぶやいた。
この出来事以後の南泉はダメになったと評価されたりもしている。
道元は、衆僧に代わって『南泉は只一刀で二つに斬ることを知っているが、只一刀で一つに斬ることを知らない』と答えてみせ、子猫は世界全体であり、これを見て直ちに衆僧は悟りを開かねばならないとする。(正法眼蔵随聞記巻二)
一般に仏僧にとっての殺生は、戒律を破ることだが、チベット密教のグルが、多くの動物を殺しては焼いて食べて、これは動物を供養しているのだなどと説明したり、不淫戒を守るはずの一休宗純が大徳寺の法事で大勢の読経の声が聞こえる別室で、愛人と快楽の限りを尽くしたりと、戒律をマスターが破るということはあるものだ。
イエス・キリストだって、弟子の前で愛人とキスしたり、他の弟子が当惑するようなことをすることはあるものだ。
この事件以後南泉を貶める評価もあるが、あまり真面目にとりあうこともないのではないかと思う。
子猫には、長寿も短命もあり、短命は短命なりの一生の中に春夏秋冬を持っているものではないかと思う。
弟子の僧たちは、一刀両断された子猫を見て、自分が一刀両断されたショックを感じ取らねばならなかったのだ。
道元は親切で優しい。