アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

この世との折り合い

2022-11-24 19:00:12 | 只管打坐neo
◎悟りのビフォー・アフター

どんな高僧、善知識であっても、この世で生きていくからには、飯を食うために托鉢したり、御布施をもらったり、働いたり、炊事したり、衣服を洗濯したりしなければならない。つまり、世俗とどこかで折り合いをつけなければならない一点があるものだ。

それは自分が何のために生きるかという意味を求める現代人のほとんどが、内心ではなぜ食うために働く必要があるのかと日々疑問に思っているのと同根である。

イエスが明日のことを思いわずらうなと言ったのは、明日の食べ物の心配をするなと言ったのであるが、今日神に出会ってその感動に震えた者でも、明日になれば食べ物を探すことになるのだ。

禅では、世俗との折り合いにおいて、最も世俗を否定した側に位置する考え方の人物が二人いる。要するに、たとえたちまち飢え死にしても仏そのものを生きるべきだと考えた人たちである。

一人は臨済の友人である普化であり、もう一人は、唐代の疎山である。

普化は、いわば帝国ホテルのレストランのディナーに招かれて、話題が道のことに及ぶやいなや料理の並ぶテーブルを蹴り倒して出て行ったような猛者である。

疎山は、諸々の聖者のあとを慕わない、自己の神聖性も重んじないと言い放った。そう言ったからにはいつでものたれ死にする覚悟で日々を生きている。

悟った後にどう生きるかとは、世俗の折り合いをどこでつけるかという問題でもある。悟った人の生き方は、実際にビフォー悟りとアフター悟りでどう違うのか。そこをもある程度具体的に出していかないと、具体性と論理性とデータ重視の現代人を説得することは難しいのだと思う。

悟った人たち同士でも大きく見解が分かれるが、それは個性の違いに由来するので、それはそれでよいのだと思うが。
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