◎ケン・ウィルバーの意識のスペクトル
(2014-12-15)
ケン・ウィルバーは、見たところ只管打坐系冥想による見性体験のある覚者。アートマン・プロジェクトという著書のP218にあるように、未だアートマンの残る十牛図第七図レベルでの世界の統合をテーマに活躍しているように見える。
そしてスタニスラフ・グロフなどのトランス・パーソナル心理学などの古今東西の多くの学者、聖者の見解を取り入れて、意識だけではなく、現象全体の統合、マッピングを図ろうとしている。ケン・ウィルバーにおいても、悟りは意識の深化の延長線上にあるという考え方である。(ただし彼は、宗教によっては、狙いどころが必ずしもアートマンであるとは限らないということも云っている。現世利益を求める宗教は、表向きはアートマンを標榜していることになっているかも知れないが、その実はそうではあるまい。)
そうしたケン・ウィルバーには、定番の意識のスペクトル説がある。これは意識レベルをいくつかに大分割するものであるが、内訳のカテゴリーには更に詳細なものもある。また分割数にもいくつかのバリエーションがあるが、ここでは、近著「インテグラル・スピリチュアリティ」(春秋社)のヴェーダンタなどを参考にした意識の5段階説を挙げてみる。
『
1.粗大な覚醒の状態
自転車に乗ったり、このページを読んだり、身体運動を行ったりしているときの状態。
2.微細な夢見の状態
鮮明な夢、鮮明な白昼夢、視覚化の訓練、あるタイプの形のある瞑想
3.元因-無形の状態
深い夢のない眠り、広大な「開け」ないしは「空」の体験
4.目撃者の状態
これは他のすべての状態を目撃する能力である。たとえば覚醒状態にあっても、明晰夢の状態でも、目撃者はそれを目撃する。
5.常に現前する非二元的意識
これは状態というよりは、他のすべての状態に対して常に現前する基底(グラウンド)である。そしてそのようなものとして経験される。
ヴェーダーンタもヴァジラヤーナ(金剛乗)も、これらすべての状態(そして、それに対応する身体ないし存在領域)は、「貴重な人体」のおかげで、あらゆる人間に獲得可能であるとしている。この意味するところは、これらの主要な存在と意識の状態は、発達のいかなる段階であっても、程度の差こそあれ、すべての人に獲得可能なのである。それには、幼児も含まれる。幼児もまた覚醒し、夢を見、眠るからである。』
〈「インテグラル・スピリチュアリティ/ケン・ウィルバー」(春秋社)P112から引用〉
ケン・ウィルバーは、「3.元因-無形の状態」から先がアートマン以上だと見ている。
ケン・ウィルバーはこの全レベルを1人称の体験として確認したと述べているので、見性したことで相違あるまい。
ケン・ウィルバーは、アートマン・プロジェクトにおいて、ニルビカルパ・サマディー、十牛図第八図人牛倶忘を、「3.元因-無形の状態」と「4.目撃者の状態」にカテゴライズしている(P162)。つまりケン・ウィルバーは、人牛倶忘は、一つの通過点として見ているのである。
ニルビカルパ・サマディー=十牛図第八図人牛倶忘を過ぎると、次は目撃者と目撃されるものが同一となり、全世界は、発現するものより完全に上位にあって先行しているが、全世界のどの部分も、そこから現れ出る個々の事物以外の何ものでもないとする。要するに個々が全世界と同一になって現れ出でる。これを以って彼は十牛図第十図だとする
またこの5段階は、悟っていない人間から見れば、2と3の間が不連続に見えるが、覚者からみれば、5段階連続している。ケン・ウィルバーは、これを承知しているが、そのことをあまり問題にしないという態度である。
ケン・ウィルバーは「社会全体の自己感覚の平均的あり方」をテーマにしてはいるが、覚者側に立っているがゆえに、その不連続を殊更に強調する必要を認めないというところだろうか。あるいは「社会全体の自己感覚の平均的あり方」からすれば、微細な夢見の状態以下は一顧だにする価値のないものとされるか、存在していないものとされているという現実を踏まえた方針なのだろうとは思う。