◎冥想の縦軸と横軸
以上のように冥想の深浅高低について、ヨーガ・スートラと釈迦の冥想レベルの比較を出した。これは、ケン・ウィルバーが、その著書意識のスペクトルで覚者の世界観の区分をいろいろと並べているが、そうしたものの一つであって、これぞ絶対的な区分と頑張る必要はないと思う。おおまかにいえば、どのレベル区分法にもニルヴァーナとアートマンは大体あるものだ。ただしそれ以外の区分は人によって千差万別。
冥想の縦軸を七つの身体とし、冥想の横軸を深浅高低にとった場合に、冥想の縦軸である七つの身体でいう最後の2つは、第六身体(アートマン)と第七身体(ニルヴァーナ)であり、個別性を超えた神(仏、無)のことである。
そして冥想の横軸である深浅高低では、ヨーガ・スートラの最上位の二つである有想三昧と無想三昧は、個別性を超えており、いつかは滅びるものである物質性や時間性というものを超えた世界のものである。したがって有想三昧は、第六身体(アートマン)に照応し、また無想三昧は第七身体(ニルヴァーナ、宇宙意識)に照応するものであると考えられる。
したがって冥想の縦軸と横軸において、最後の2段階はそれぞれ照応するものと考えられ、特に最後の第七身体と無想三昧は同じことを言っているように思われる。
この結果冥想の縦軸と横軸は、縦軸たる七つの身体では、第六身体の手前で横軸と交わり、かたや横軸たる深浅高低では、有想三昧の手前で縦軸と交わるイメージになるように考えられる。
政治の紛糾、経済の混乱、人間関係・家族関係の悪化などは、いわば身体の表面に現れる病状であって、病気の原因ではない。これらの病気の本質的原因は、我々の心の内にあるのであって、それを探るためには冥想によるしかないのである。
ところが、あらゆる観点と立場というものは、ジコチューな欲望の一つのツッパリにすぎない。そのため、その原因を探るためには、観点と立場を相手にしない冥想が必要なのである。付言すれば、冥想は、縦軸から追っても、横軸から追っても、ついには「そこ」に到達できるのである。