アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

如浄、道元の只管打坐コンプレックス

2022-11-20 16:38:21 | 只管打坐neo
◎日常の動作・挙措に及ぶ

天童如浄、道元と言えば、寝食の時間を惜しんでひたすら只管打坐したというのが、第一印象で、その他の冥想修行をしていないようなイメージがある。ところが実際は、天童如浄も師松源嵩岳の下でこそ只管打坐専一にやったようだが、それ以前の叢林遍歴では臨済宗楊岐派の公案参禅主体の修行の方を相当に積んでいる。

道元についても、つらつら日暮さんのgoo blog記事「只管打坐論」(2005-08-13)によれば、焼香する、師匠を礼拝する、懺悔もする、念仏もする、看経もする、勿論公案もやっている。一般に如浄、道元と言えば、オンリー只管打坐の代名詞だが、実はその修行法は、それ以外の行との複合体なのである。

如浄、道元もメディテーション・コンプレックスだったわけだ。

坐法には身体をがっちり固定する只管打坐みたいなのもあれば、クンダリーニ・ヨーガみたいに楽にするのもある。深まってくれば、心が坐相に反映するということも出て来る。

いずれにしても肉体は何もしなければ、老廃ガスが体内にたまり、肉体の不調の原因にもなるし、魔境や妙な心境の原因にもなる。よって肉体のガス抜きや凝り解消のため、柔軟体操(ハタ・ヨーガなど)や呼吸法は必須なものである。そして内分泌腺の活発化のために適度な作業(作務、労働)も欠かせない。

スタート地点の肉体を整備し、呼吸法や体操などで、エーテル体を整備し、冥想を始める。

また人は頭で納得しないと坐り始めない。理解できないと冥想を始めないものだ。しかし、だからといって、それをやれば金がもうかるとか、健康になるとかいう具体的目的があって、冥想を行えば決して山頂にはたどりつかない。これは冥想修行のモチベーションのジレンマ。

冥想は、ただ漠然とあるポスチャーで坐れば良いというものではなく、冥想以外の日常のそれぞれの動作・挙措の中に複雑で精妙な守るべき多くのルールがある。覚者を身近に見れば、彼らは意外にもそうした細かいルールに沿って生きていることに気がつくことがあるのではないか。
また悟りは簡単ではない。

それでも今日迷いのままに坐らねば、何も始まらないのだ。
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