◎百年河清を待つ
1943年のクリシュナムルティからエミリー夫人への手紙。
この頃クリシュナムルティは、アメリカにいて、少なくとも一日二~三時間は冥想する生活だった。
『正しい瞑想というのは、まさにわれわれが経験できる最もたいへんな現象なのです。それは創造的な発見であるばかりか、解放される過程でもあり、その結果至高のものが顕示されるのです。
沈黙しているということはよいことです。その期間に心の奥深く入りこみ、多くのものを見出し無窮のものの光と愛を再発見したのです。
今になってやっと、それは深く確立され、不滅のものとなりました。
前述しましたように一日数時間瞑想しますが、つきることのない宝があります。この愛は天然の井戸のように常にあふれているのです。』
(クリシュナムルティ実践の時代/メアリー・ルティエンス/メルクマール社から引用)
クリシュナムルティが『瞑想しようとする努力はすべて瞑想を否定することである』という持論をもっていることはさておいて、自分はちゃっかり冥想修行していたのだ。
ここで用いられているキーワードは、沈黙である。つまり密教での冥想のようにあらゆる尊格、神霊をありありと眼前に思い浮かべるというような具象を用いた観想法系の冥想ではないということである。
残念ながら、結跏趺坐なのか、あぐらを崩したようなのか、その坐相はわからない。クリシュナムルティは、本当の冥想は意図的に行なうものでなく、向こうからやって来ることだけを主張しすぎている。
確かに坐法さえ、ある(心理)状態に対応する形で変わることもある。しかしothernessは
坐法や姿勢やTPOにかかわらず起こるとも、クリシュナムルティは語り、坐法にまったくこだわりは見せない。
この結果、クリシュナムルティの主張は、冥想はとてもいいものだが、坐法・姿勢を特定してはダメとなり、事実上の冥想の否定となっているように見える。
これでは何も努力の方向が定まらず、百年河清を待つことを良しとする人が出るばかりとなることが予期され、果たしてクリシュナムルティに後継者は出なかった。
自然に冥想が起こることは、それがクリシュナムルティの言うothernessそのものではなく、自然な冥想の中でやって来るが如きものがothernessなのだろうと思う。
手を使わずに瓜を受け取る人だけが、それを掴むことができるとしか言いようがない。
1943年のクリシュナムルティからエミリー夫人への手紙。
この頃クリシュナムルティは、アメリカにいて、少なくとも一日二~三時間は冥想する生活だった。
『正しい瞑想というのは、まさにわれわれが経験できる最もたいへんな現象なのです。それは創造的な発見であるばかりか、解放される過程でもあり、その結果至高のものが顕示されるのです。
沈黙しているということはよいことです。その期間に心の奥深く入りこみ、多くのものを見出し無窮のものの光と愛を再発見したのです。
今になってやっと、それは深く確立され、不滅のものとなりました。
前述しましたように一日数時間瞑想しますが、つきることのない宝があります。この愛は天然の井戸のように常にあふれているのです。』
(クリシュナムルティ実践の時代/メアリー・ルティエンス/メルクマール社から引用)
クリシュナムルティが『瞑想しようとする努力はすべて瞑想を否定することである』という持論をもっていることはさておいて、自分はちゃっかり冥想修行していたのだ。
ここで用いられているキーワードは、沈黙である。つまり密教での冥想のようにあらゆる尊格、神霊をありありと眼前に思い浮かべるというような具象を用いた観想法系の冥想ではないということである。
残念ながら、結跏趺坐なのか、あぐらを崩したようなのか、その坐相はわからない。クリシュナムルティは、本当の冥想は意図的に行なうものでなく、向こうからやって来ることだけを主張しすぎている。
確かに坐法さえ、ある(心理)状態に対応する形で変わることもある。しかしothernessは
坐法や姿勢やTPOにかかわらず起こるとも、クリシュナムルティは語り、坐法にまったくこだわりは見せない。
この結果、クリシュナムルティの主張は、冥想はとてもいいものだが、坐法・姿勢を特定してはダメとなり、事実上の冥想の否定となっているように見える。
これでは何も努力の方向が定まらず、百年河清を待つことを良しとする人が出るばかりとなることが予期され、果たしてクリシュナムルティに後継者は出なかった。
自然に冥想が起こることは、それがクリシュナムルティの言うothernessそのものではなく、自然な冥想の中でやって来るが如きものがothernessなのだろうと思う。
手を使わずに瓜を受け取る人だけが、それを掴むことができるとしか言いようがない。