◎実用性の対極
これは、只管打坐的窮極である無一物から出て来るところの侘(わび)が七つに展開すると分析した久松真一の文。
『わびの美の七つの特徴
第一の不均斉は、格式ばったきちょうめんさ・端正・「真」の完全・つりあいのとれていることの美しさの否定としての、くだけた・破れた・ひずんだ・ふつりあいの・奇数の・草のものの美である。
第二の簡素は、複雑・繊細・精巧・典雅・崇高・くどくどしさの否定としての単純・麁相(そそう)・素朴・野趣とかいうようなものの美しさである。
第三の枯高は、若さ・生々しさ・優美・豊かさ・はなやかさなどの否定としての、ふける・たける・枯れる・やせる・艶消し・寂びるといったようなものの美である。
第四の自然は、技巧的・意識的・人為的なものの否定としての、たくまない・わざとらしくない・うぶな・無心・無念というようなものの美しさである。この自然とか、無心とか、無念は、けっしてナイーブなそれらを意味しない。
第五の幽玄は、あらわなとか、明らかなとか、鋭利とか、尽く(ことごとく)とかいうものの否定としての、蔽う・隠れる・暗い・漠然・鈍重・含蓄・余韻・奥床しさの美である。
第六の脱俗は、高貴・富有・快楽・幸福などの現実的価値のみならず、仏にも祖にもかかわらぬ、なんのこだわりもない自由の美しさである。
第七の静寂は、賑やかさ・繁忙・さわがしさ・動きなどの否定としての、淋しさ・孤独・ごたつかない・ひまな・落書きというようなものの美しさである。
この七つの性格は、無一物底の主体の一元的表現の七つの性格であって、個別的な性格の集合ではない。したがって七つの性格は皆、無一物底の主体を指向するものである。だれしも、侘茶の既成の芸術品を通観することによっても、この七つの性格を跡づけることができるであろう。
ただわれわれはそれらの性格をもつ侘の芸術、あるいは侘の美が、どこにその根拠をもち、どこから内面的に起こってきたかを忘れてはならない。』
(わびの茶道/久松真一/燈影舎P53-55から引用)
わびの美とは実用的機能的なものとは遠いところにある。実用に供しないもの、無用の用にこそ、真実から流れ出るところの価値を見出し得ると、わざわざ言わざるを得ない。それは、ほとんどの人が見性もしていないから、無一物を見えるように感じ取れるように示して見せないとピンとこないからである。
これは、只管打坐的窮極である無一物から出て来るところの侘(わび)が七つに展開すると分析した久松真一の文。
『わびの美の七つの特徴
第一の不均斉は、格式ばったきちょうめんさ・端正・「真」の完全・つりあいのとれていることの美しさの否定としての、くだけた・破れた・ひずんだ・ふつりあいの・奇数の・草のものの美である。
第二の簡素は、複雑・繊細・精巧・典雅・崇高・くどくどしさの否定としての単純・麁相(そそう)・素朴・野趣とかいうようなものの美しさである。
第三の枯高は、若さ・生々しさ・優美・豊かさ・はなやかさなどの否定としての、ふける・たける・枯れる・やせる・艶消し・寂びるといったようなものの美である。
第四の自然は、技巧的・意識的・人為的なものの否定としての、たくまない・わざとらしくない・うぶな・無心・無念というようなものの美しさである。この自然とか、無心とか、無念は、けっしてナイーブなそれらを意味しない。
第五の幽玄は、あらわなとか、明らかなとか、鋭利とか、尽く(ことごとく)とかいうものの否定としての、蔽う・隠れる・暗い・漠然・鈍重・含蓄・余韻・奥床しさの美である。
第六の脱俗は、高貴・富有・快楽・幸福などの現実的価値のみならず、仏にも祖にもかかわらぬ、なんのこだわりもない自由の美しさである。
第七の静寂は、賑やかさ・繁忙・さわがしさ・動きなどの否定としての、淋しさ・孤独・ごたつかない・ひまな・落書きというようなものの美しさである。
この七つの性格は、無一物底の主体の一元的表現の七つの性格であって、個別的な性格の集合ではない。したがって七つの性格は皆、無一物底の主体を指向するものである。だれしも、侘茶の既成の芸術品を通観することによっても、この七つの性格を跡づけることができるであろう。
ただわれわれはそれらの性格をもつ侘の芸術、あるいは侘の美が、どこにその根拠をもち、どこから内面的に起こってきたかを忘れてはならない。』
(わびの茶道/久松真一/燈影舎P53-55から引用)
わびの美とは実用的機能的なものとは遠いところにある。実用に供しないもの、無用の用にこそ、真実から流れ出るところの価値を見出し得ると、わざわざ言わざるを得ない。それは、ほとんどの人が見性もしていないから、無一物を見えるように感じ取れるように示して見せないとピンとこないからである。