◎鳥飛んで鳥の如し
道元の有名な魚行って魚に似たり、鳥飛んで鳥の如しは、もともと、
「水清うして地に徹す、魚行って魚に似たり、
空闊(ひろ)うして天に透(とお)る、鳥飛んで鳥の如し」
である。
前段の現代語訳は以下。
『坐禅箴
宏智正覚禅師の『坐禅箴』を慕ってこの箴を作る。
仏祖にとってもっとも大切なはたらき、仏の智慧は、思量を超えて思量の世界に現われるものであり、対立を超えて対立せる物の世界に現われるものである。
思量を超えて思量の世界に現われるものであるから、その現われた思量は不思量と一つであり、対立を超えて対立せる物の世界に現われるものであるから、その現われた物は無対立と一つである。
思量は不思量と一つであるから、その思量には何の汚れも留めないのであり、物は無対立と一つであるから、その物には何の対立も残さないのである。何の汚れも留めない思量であるからして、その思量はいくら思量しても思量の執われを脱け出ており、何の対立も残さない物であるからして、その対立はいくら物として現われても物の執われを超え出ているのである。この坐禅の境地を偈で示せばつぎのようである。』
(道元禅師全集13巻/鏡島元隆/春秋社P163から引用)
この文に引き続き「水清うして地に徹す、魚行って魚に似たり、
空闊(ひろ)うして天に透(とお)る、鳥飛んで鳥の如し」
となる。
思量と不思量、物(現象)の対立・差別はもとよりないこと(不回互にして成ず)を説明し、鳥飛んで鳥の如しの偈に入る。
人脱落して人の如し。
これは只管打坐修行者向けの箴であるが、日々時間に追われながら、わずかの余暇を冥想に充てるしかない現代人に向けての箴言でもある。この言葉を我が事として捉えられる人だけが前向きと言えよう。
道元の有名な魚行って魚に似たり、鳥飛んで鳥の如しは、もともと、
「水清うして地に徹す、魚行って魚に似たり、
空闊(ひろ)うして天に透(とお)る、鳥飛んで鳥の如し」
である。
前段の現代語訳は以下。
『坐禅箴
宏智正覚禅師の『坐禅箴』を慕ってこの箴を作る。
仏祖にとってもっとも大切なはたらき、仏の智慧は、思量を超えて思量の世界に現われるものであり、対立を超えて対立せる物の世界に現われるものである。
思量を超えて思量の世界に現われるものであるから、その現われた思量は不思量と一つであり、対立を超えて対立せる物の世界に現われるものであるから、その現われた物は無対立と一つである。
思量は不思量と一つであるから、その思量には何の汚れも留めないのであり、物は無対立と一つであるから、その物には何の対立も残さないのである。何の汚れも留めない思量であるからして、その思量はいくら思量しても思量の執われを脱け出ており、何の対立も残さない物であるからして、その対立はいくら物として現われても物の執われを超え出ているのである。この坐禅の境地を偈で示せばつぎのようである。』
(道元禅師全集13巻/鏡島元隆/春秋社P163から引用)
この文に引き続き「水清うして地に徹す、魚行って魚に似たり、
空闊(ひろ)うして天に透(とお)る、鳥飛んで鳥の如し」
となる。
思量と不思量、物(現象)の対立・差別はもとよりないこと(不回互にして成ず)を説明し、鳥飛んで鳥の如しの偈に入る。
人脱落して人の如し。
これは只管打坐修行者向けの箴であるが、日々時間に追われながら、わずかの余暇を冥想に充てるしかない現代人に向けての箴言でもある。この言葉を我が事として捉えられる人だけが前向きと言えよう。