◎欲の深い者は天機が浅い
荘子は、ストレートなもの言いなので、老子よりはわかりにくい。読者がちゃんと理解してくれることを前提としていないからである。とりあえず真実を語って見せるが、その場の人物に対し、必要な前提やら注意事項を必ずしも与えない。それはOSHOバグワンの語り口と同じである。
その境地にたどり着くには、ある冥想法が必要なのだが、そこは、グルに任せるとして、真理のみを語る。
荘子の大宗師篇から
『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。グルメをするのでもなく、呼吸は深い。真人の息は踵でし、衆人の息は喉でする。屈服する者の息は、喉につかえたものを吐き出すようである。欲の深い者は天機が浅い。
古の真人は、生も悦ぶことを知らず、死も悪(にく)むことを知らず、生死は無心に来て、無心に往くのみである。
生死の始まる所を忌まず、生死の終わる所を求めない。
受けてこれを喜び、失ってこれに帰る。
このことを、心を以って道を捨てず、人を以って天を助けずと言う。このことを真人という。
このような人の心は『忘』であって、その様子は『寂』であってのびのびとしている。また寒々と凄然として秋にも似て、また暖かく春にも似て、喜怒の感情の動きはあるが、あらゆる変化に通じ、物と調和しているので、その極みは計り知れない。』
まず冒頭の『眠っても夢を見ず』は、ウパニシャッドの「熟睡中の夢も見ない状態」を言っている。夢をみないほどぐっすり眠ることなどではない。
『真人の息は踵でし』は、踵を巡る周天のような技法があるのだろうか。なお足のチャクラは足裏の中心であり、踵ではない。
そして最も重要な記述『受けてこれを喜び、失ってこれに帰る。』。生は之(これ)を個で展開するが、死に際しては個で死の世界を展開するのでなく、死に際しては全体なるアートマンに帰るのだ。単純なマンツーマン輪廻説でなく、死の実態に即した表現を取っている。
このように生死を超えて生きる姿を『忘』と呼ぶ。
荘子は、ストレートなもの言いなので、老子よりはわかりにくい。読者がちゃんと理解してくれることを前提としていないからである。とりあえず真実を語って見せるが、その場の人物に対し、必要な前提やら注意事項を必ずしも与えない。それはOSHOバグワンの語り口と同じである。
その境地にたどり着くには、ある冥想法が必要なのだが、そこは、グルに任せるとして、真理のみを語る。
荘子の大宗師篇から
『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。グルメをするのでもなく、呼吸は深い。真人の息は踵でし、衆人の息は喉でする。屈服する者の息は、喉につかえたものを吐き出すようである。欲の深い者は天機が浅い。
古の真人は、生も悦ぶことを知らず、死も悪(にく)むことを知らず、生死は無心に来て、無心に往くのみである。
生死の始まる所を忌まず、生死の終わる所を求めない。
受けてこれを喜び、失ってこれに帰る。
このことを、心を以って道を捨てず、人を以って天を助けずと言う。このことを真人という。
このような人の心は『忘』であって、その様子は『寂』であってのびのびとしている。また寒々と凄然として秋にも似て、また暖かく春にも似て、喜怒の感情の動きはあるが、あらゆる変化に通じ、物と調和しているので、その極みは計り知れない。』
まず冒頭の『眠っても夢を見ず』は、ウパニシャッドの「熟睡中の夢も見ない状態」を言っている。夢をみないほどぐっすり眠ることなどではない。
『真人の息は踵でし』は、踵を巡る周天のような技法があるのだろうか。なお足のチャクラは足裏の中心であり、踵ではない。
そして最も重要な記述『受けてこれを喜び、失ってこれに帰る。』。生は之(これ)を個で展開するが、死に際しては個で死の世界を展開するのでなく、死に際しては全体なるアートマンに帰るのだ。単純なマンツーマン輪廻説でなく、死の実態に即した表現を取っている。
このように生死を超えて生きる姿を『忘』と呼ぶ。