◎虚空からの肉体形成
尸解は、有から無の方向への肉体変成だが、これに対して無から有の方向への肉体変成の例もある。
ここでは、イエス・キリストの弟子ディディモのトマスとババジの弟子ラヒリ・マハサヤのケースを挙げる。
1.ディディモのトマス
十二使徒の一人ディディモのトマスは、イエスが復活して来られたとき、他の使徒と一緒にいなかったので、会いそびれた。そこでディディモのトマスは、言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちは家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて私の手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じた人は幸いである。」
《ヨハネによる福音書20章24~29節》
現代科学は、見て触れて信じるのが基本原則だが、かつまたカルトや様々なマインドコントロールにやられないためには、見ないのに信じるのは一般には危険とされる。
そうすると、何が正しく何が邪なのかを判別するのは、直観ということになるが、一言で「見ないのに信じる」のがベターと言われてもなかなか難しいところがある。
またイエスは岩の洞窟の墓に葬られたのだが、遺体が既になくて、イエスの遺体を包んだ亜麻布だけが残っていた。
屍解をよく知っている者にとっては、遺体は空中に煙のように分解し、跡に服や毛髪だけが残るという屍解の定番の進行に似ている。そういう目で見れば、イエスは死後三日間で屍解を行ったのではないかと思われる。
イエスは、尸解を行い、逆方向の肉体再形成もしてみせたのかもしれない。
2.ラヒリ・マハサヤ
ラヒリ・マハサヤは20世紀の人物。かれはヒマラヤの山奥でクリヤ・ヨーガの秘伝をババジから受けた。その際、どこで呼んでもババジが出現するという許しを得た。
その後まもなくのこと、ラヒリ・マハサヤが働いていたモラダバードの役所の友人たちに、うっかりババジのことを洩らしたところ、友人たちはババジの存在を信じなかった。
そこでラヒリ・マハサヤがババジを呼び出すと、その密室にエーテルから肉体を出現させ、友人達にババジは肉体に触れさせた。
そしてまもなくババジの肉体は光の蒸気のように消えた。
この一件でラヒリ・マハサヤはババジに叱責され、今後は呼んだ時はいつでも来るのではなく、必要な時には来ることに格下げされた。
(参照:あるヨーギの自叙伝/パラマンサ・ヨガナンダP320-325)
生と死を出入自在のババジであれば、このようなことは朝飯前だと思う。
3.ババジについて
ババジは、世が爛熟を極めた時だけに短期間にこの世に出現する神人(アヴァターラ)であって、歴史の表舞台に出てこないことと、一般人のように出産と肉体死という一生のプロセスをとらず、真剣な求道者の必要に応じて時折出現し消えるのが特徴。アヴァターラの本来の意味は、そういうものなのだと思う。
ババジの直弟子としては、ラヒリ・マハサヤ、スワミ・ラーマ、ダンテス・ダイジが挙げられる。密教系の秘儀の相承は、肉体を持たない師匠から弟子に行われることがままあるので、その伝で言えば違和感はない。
また世の中にはほとんど誰にも知られない聖者覚者もいることも忘れてはならないと思う。
「見ないのに信じた人は幸いである。」とは、神人合一/総てがニルヴァーナならば、イエス=トマスなので、信じる/信じないも無いといったところでしょうか。