唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宦官伝 魚朝恩 その1

2024-11-20 09:07:26 | Weblog

瀘州瀘川人、開元十年[722]に生まれた。

天寶末に去勢して宦官になった。

品官から内給事となった。

安史の乱に肅宗皇帝に従い主に軍事を管掌し信任を得た。

李光進の監軍から、三宮檢責使、開府儀同三司左監門衛將軍知內侍省事に躍進した。

乾元元年[758]九月
唐は安慶緒を滅ぼそうと、郭子儀・李光弼等九節度使の大軍を編成し河北へ送った。ところが全軍の統帥者を決めかねて、合同軍というあいまいな形とした。朝恩は觀軍容宣慰處置使として合同軍の監軍となった。

乾元二年[759]正月
追いつめられた安慶緒は、唐に帰順して幽州節度使となっていた史思明に救援を求めた。思明は征討軍からはずされ、慶緒の後は自分が討伐対象になると思い[事実李抱眞等に誣告されていた]来援した。統帥のない唐軍は動揺し、魏州を奪回された。

李光弼は魏州を攻めることを提案したが、朝恩は阻止した。

三月
九節度使軍は史思明軍に大敗した。

六月
朝恩は敗戦は郭子儀の責任だと誣告し、副元帥を李光弼に代えさせた。

上元元年[760]九月
肅宗は群議により郭子儀を都統諸道兵馬使として史思明征討を命じたが、朝恩達は反対して実行させなかった。

副元帥李光弼軍の監軍として東都・河陽で史思明軍と戦った。

上元二年[761]二月
李光弼軍は史思明軍に北邙で大敗した。朝恩も敗走して陝州に入った。

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唐宦官伝 程元振 その3

2024-11-18 09:53:11 | Weblog

廣德元年[763]十月
まったく防御態勢のない京師はたちまち陥落し、程元振は代宗を擁して華州に逃亡した。
各地の諸将に来援を命令したが誰も動こうとはしなかった。

代宗はあわてて郭子儀を副元帥としたが、部下が散逸している子儀はいかんともできなかった。
しかも元振は増兵を求める子儀が代宗に自分を弾劾されるのを懼れて拝謁させなかった。

京師を捨てた代宗達は宦官魚朝恩が率いる華州神策軍に収容された。

吐蕃は京師を掠奪すると、占領する気はなく撤退し、郭子儀は各地の兵を集めて回復した。

元振は元帥行軍司馬を解任され、宰相元載が判元帥行軍司馬となった。

太常博士柳伉が官僚を代表して元振を弾劾し極刑を求めた。しかし元振の諸将弾圧策は代宗の政策でもあったので厳しい処分ができず、官職を免じて郷里に帰らす事に止めた。

魚朝恩は代宗を奉じて京師に入り、以降 郭子儀.元載.魚朝恩の三頭体制ができあがった。

廣德元年十二月
責任を感じていない元振は郷里から女装して京師に戻り、自党の司農卿陳景銓の邸宅に隠れ、代宗に再任用を願ったが捕縛された。

廣徳二年[764]正月
御史台は元振を僻地の?州へ配流すると決定したが、代宗はなおも庇って江陵府に安置するだけにした。

しかし怨みを持つ者に殺された。

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唐宦官伝 程元振 その2

2024-11-17 09:10:55 | Weblog

寶應元年[762]十二月
史朝義軍は潰滅し、僕固懷恩は副元帥となったが、さっそく宦官達は懷恩に叛意ありと讒言した。

寶應二年[763]正月
一時反した山東節度使來瑱は代宗に赦されて来朝し、兵部尚書同平章事として優遇され、肅宗の山陵使を務めていたが、元振の請託を受けないので誣告され殺された。

疑惑を受けて動揺した僕固懷恩は、安史諸将を徹底して征討せず、幽州・魏博・成徳・相衛など河北を分有させて自分の勢力圏を作ろうとした。

寶應二年六月
同華節度使李懷讓は、元振に誣告され自殺した。

安史の乱が一応収まり、唐朝は「狡兎死して走狗烹らる」のように、実力か大きくなりすぎた功將を整理しようとしていた。朝廷に隷属する宦官達は皇帝[代宗]の意を挺して讒言を繰り返していたわけだが、法治という面では功將達には多くの問題があった。しかし元振達はまだまだ安定していない状況で事を急ぎすぎたようで、諸将は唐朝の姿勢に強い不信を抱いていた。

寶應二年/廣德元年[763]七月
實封二百戶を加えられ、子に五品官を与えられた。

廣德元年九月
吐蕃は唐の辺境防御態勢が崩壊していて、援軍としてきていた回紇が北邊に去ったのを知り、涇州から京師へ侵攻した。
邊將からの急報を元振は重視せず対応を取らなかった。邊將達も朝廷への不信から徹底した防戦をせず、吐蕃軍を通過させた。

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唐宦官伝 程元振 その1

2024-11-16 09:03:54 | Weblog

字は元振、雍州三原人。延載元年[694]に生まれた。

自宮して内侍省に入り、内射生使/飛龍廄副使まで昇進した。

元年建巳月/寶應元年四月
肅宗は重病となり、李輔國と権を争っていた張皇后は趙王係を擁して輔國を除こうと謀っていた。輔國の麾下であった元振はその謀議を知り輔國に告げた。

輔國と元振は禁兵を動員して、皇后・趙王・兗王等を殺害し、皇太子を擁立した。

元振は功績により左監門衛將軍に昇進した。

寶應元年五月
輔國は功を誇り尚父司空兼中書令となり、即位した代宗を軽視して専権を振るった。

元振は代宗皇帝に接近し輔國を追い落とそうとした。

寶應元年六月
元振は、輔國の力の源泉である行軍元帥府司馬及兵部尚書を奪い、みずから判元帥行軍司馬となって兵権を握った。そして輔國を宮中から逐いだした。

寶應元年七月
鎮軍大將軍保定郡開國公に進んだ。

寶應元年八月
河中の軍乱を収めた郭子儀が入朝したが、元振は猜疑して代宗に讒言したため、懼れた子儀は副元帥・節度使の兵権を辞し京師に隠棲した。

寶應元年九月
元振は勢威を増し、驃騎大將軍兼内侍監となり邠國公に進封した。
兵権や武将の人事を握り、政事に容喙して宰相裴冕を失脚させた。

寶應元年十月
回紇軍来援し、雍王を元帥とする史朝義征討軍が派出されることになり、代宗は郭子儀を副元帥にしようとしたが、元振等の宦官達は蕃族出身の僕固懷恩を強く推薦した。

輔國は自邸で殺され斬首された。

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唐宦官伝 李輔國 その4

2024-11-11 09:50:45 | Weblog

元年[762]建巳月/寶應元年四月

玄宗上皇が78才で崩御した。当時肅宗も重体となっていた。

この頃輔國と張皇后は主導権を争っていたが、皇后は皇太子[代宗]を呼び出し輔國を排除しようとした。しかし軟弱な皇太子は同調しなかった。
そこで皇后は副元帥の地位にあった越王係を擁して自派の宦官段恆俊等二百餘人で輔國を誅しようとしたが、皇太子に親しい宦官程元振は状況を輔國に通報した。

輔國・元振は禁軍を動員し、皇太子を擁して張皇后・越王等を殺した。

まもなく肅宗も崩御し、輔國は皇太子[代宗]を即位させた。

舞い上がった輔國は代宗に「政治は私がやります。帝は宮中でおとなしくしていればよい」と言い放った。
肅宗ほど無能では無かった代宗は不満だったが、禁軍を掌握する輔國に当面なすすべがなく、「尚父」の号を与えた。

功績が大きかった内飛龍廄副使程元振は左監門衛將軍に昇進し、代宗にすりよった。

寶應元年五月
輔國は司空兼中書令となり、念願の宰相となった。

寶應元年六月
程元振や宰相元載は、驕慢となった輔國を排除しようとして代宗に接近した。

まず輔國の判元帥行軍司馬・兵部尚書・閒廄等使の軍權を解任した。

そして輔國に邸宅を与え内廷から排除した、さらに中書令を解き相權も奪った。

輔國は憤激して代宗に抗議したが容れられず、博陸郡王を与えられただけだった。
「もう私は不要なのだな、先帝にあの世で仕えるしかない」と言い捨てて去った。

寶應元年九月
輔國派の秘書監韓穎、中書舎人劉烜が殺された。
程元振は驃騎大將軍兼内侍監となり実権を握った。

寶應元年十月
盗賊が輔國邸に入り、輔國を殺して首を取って去った。代宗の密命によると思える。

代宗は木首を与えて葬儀を行わせ、「太傅」を贈った。

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唐宦官伝 李輔國 その3

2024-11-07 10:07:57 | Weblog

玄宗上皇は皇宮外の興慶宮に住み、政務にはまったく関係せず、陳玄禮や高力士、玉真公主・如仙媛・内侍王承恩・魏悅や及梨園の俳優達と宴会を楽しみ、興が起こると長慶樓に出て、民衆の萬歲を受けていた。
また將軍郭英乂や成都在住時代の官員達を召すこともあった。輔國は微賤の出身で政務には通じていても教養が無いため、上皇やその左右からは軽視され憤懣を抱いていた。

輔國は上皇に強いコンプレックスを持つ肅宗に「上皇は外宮にいて外人と交通し、陳玄禮や高力士は陰謀を企んでいます。私にはどうしようもありません」と誣告した。
優柔不断で自信の無い肅宗は「父上をどうこうできないだろう」というばかりだった。
輔國は「上皇が復位を考えられたら大乱がおこります。外部の興慶宮から西內に遷っていただいて、小人達が暗躍しないようにしなければいけません」と提言したが、肅宗は決断できなかった。

上元元年[760]七月
そこで輔國は独断?で麾下の射生五百騎を率いて、武力で玄宗を西內に遷し、側近の玄禮を致仕させ、力士達を配流した。肅宗は承諾しなかったことになっているが、実際は黙認して輔國に責任を押しつけたというのが実情であろう。玄宗はすっかり気落ちして病となった。

上元二年[761]五月
山人李唐が肅宗に玄宗の扱いを諷したが、肅宗は張皇后や輔國を憚って玄宗の見舞いにもいかなかった。

八月
輔國は守兵部尚書となり、宰相朝臣に見送らせた。
さらに宰相を求めた。肅宗は宰相蕭華に諷して阻止させた。輔國は極めて不満であった。

元年[762]
肅宗は重病となり政務をとれなくなった。

元年建卯月
河中・河東で軍乱が起き、節度使李國貞・鄧景山が殺された。輔國が敬遠していた郭子儀が副元帥に登用され鎮圧に向かうことになった。郭子儀は出征にあたりおして病中の肅宗の直命を求め、輔國を牽制した。

元年建辰月
輔國は肅宗に迫って、恨みをもつ宰相蕭華を罷免させ、自党の元載を任用させた。

實封が八百戸に増した。

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唐宦官伝 李輔國 その2

2024-11-05 21:10:48 | Weblog

輔國は外面は恭謹で寡言であったが、内面は狡險で寵姫の張良娣と連携し肅宗を操り、殿中監・行軍司馬として軍權をにぎった。

至德二年[757]十二月両京回復後、恩賞として光禄大夫から開府儀同三司.郕國公.實500戸を与えられ、殿中監判行軍事は維持していた。

乾元元年[758]二月
大僕卿を兼ね厩權をにぎった。

肅宗は輔國や張皇后に頤使されることに不満であったが、意志薄弱であったのでどうにもできなかった。

乾元二年[759]三月
京師の治安が悪く、輔國は羽林軍に治安を任せようとしたが、宰相李揆に金吾軍の役割を侵害するとして止められた。このように宰相とは対立することが多かった。

輔國の権限は強くなり、禁兵を掌握し、上奏はすべて事前に輔國に承認されることが必要となり、決裁も輔國が専断することが多くなった。肅宗は不満であったが輔國に頼り切りであり辞めさせることはできなかった。

五月
麾下の馬坊の吏員を処刑されたことで、法官の中丞崔伯陽、刑部侍郎李曄、大理卿權獻と争い、反って三人を処罰し、反対する宰相李峴をも左遷した。

乾元三年[760]四月
山東節度使で軍乱が起き節度使史翽が殺された。鎮圧の為隴州刺史韋倫を節度使として派遣することになったが、倫が輔國の所に挨拶にこなかったため解任し、來瑱を代わりに任じた。

上元元年[760]五月
輔國は京畿鑄錢使となり利権を拡大し、六月長春宮使を兼ねた。

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唐宦官伝 李輔國 その1

2024-11-01 09:57:25 | Weblog

李輔國/護国      
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本名は靜忠。幽州博陸郡の人。長安三年[704]に生まれた。

宮刑を受けて閑廐[官馬(厩馬)を管理する役所]に勤務した。

容貌は醜くかったが、学問はそこそこあった。

高力士に使えて、閑廐では最も有能であった。

四十才頃、王鉷が閑廐使となり輔國を評価し、皇太子[後の肅宗]に推薦した。

天寶十五年[756]安禄山の乱により玄宗は成都に逃亡し、皇太子も従った。

途中、遅れて進む皇太子一行を父老達が「關内を見捨てていかれるのですか、留まって戦ってください」と請願した。
皇太子は拒否しようとしたが、子の建寧王倓や輔國は「このままでは關内は失われてしまいます」と留まることを主張し、優柔不断な皇太子は押し切られた。
すっかり気力を無くしていた玄宗はそれを追認し、天下兵馬元帥都統朔方河東河北平盧等節度兵馬收復兩京として分離を認めた。

皇太子は朔方軍を頼り、彭原・平涼と敗走した。朔方留後杜鴻漸や魏少游が出迎えやっと靈武に入り体裁を整えることができた。

七月杜鴻漸など朔方軍幹部や諸皇子・輔國達は皇太子[肅宗]を擁立して即位させた。肅宗は玄宗の承諾なしに即位することを躊躇したが、出世をねらう朔方軍の文官達や輔國・張妃達に押しきられて承諾した。

肅宗は子の建寧王や謀臣李泌を信頼していたが、輔國や張妃は泌を憎み、建寧王を誣告して殺させた。泌は懼れて逃亡した。

輔國[靜忠]は太子家令判元帥府行軍司馬として諸方からの上奏を取り次いで管理し、表の権力を振い、張妃は裏で動揺しやすい肅宗を激励してコントロールして連携していた。靜忠から賜名され「護国」と称した。

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唐宦官伝 高力士 その6

2024-10-30 09:55:00 | Weblog

至徳元年[756]八月
玄宗は従駕の恩賞として、驃騎大將軍內侍監知內侍省事渤海郡公の力士に開府儀同三司を加え齊國公に昇進させた。

至徳二年[757]回紇の援軍を得た唐軍は九月京師を、十月東都を回復した。
玄宗は十一月成都を発して京師に戻った。当然力士もまた随行した。

還京した玄宗に対し、肅宗は本意ではなかったが皇帝位を返上しようという茶番を演じたが、馬鹿では無い玄宗は力士を派遣して辭した。

両京回復の功績として力士は實封三百戸を与えられた。当時の財政状況からみて實収入があったとは思えない。

上元元年[760]六月
還京した玄宗は政務には一切関与せず、側近の陳玄禮や力士や玉真公主などと梨園子弟とともに宴会を催して楽しんでいた。風雅や教養の差からか、権力を握っていた肅宗の側近李輔國はそのグループには入れず不満をいだいていた。しかも輔國は力士に取り立てられた立場として頭が上がらなかった。

そこで輔國は、長く玄宗を懼れ続けていた庸劣な肅宗皇帝に「上皇は興慶宮に民衆を集めて人気があり、力士や玄禮はなに事かを策動しています」と誣告した。

定見などなく周囲に動かされる肅宗は動揺し、輔國に命じて上皇を西內に押し込めた。

そして玄禮を致仕させ、力士達を配流した。
力士は巫州に配流されたが、肅宗にとっても輔國にとっても恩人であったため虐待されることはなかった。しかし鬱々として楽しまなかった。

寶應元年[762]四月
玄宗が78才で崩御し、同時に肅宗も52才で崩御した。

力士は大赦により召還され、玄宗の下に戻れると期待して郎州まで到ったが、玄宗の死を聞き、慟哭し吐血して死んだ。
揚州大都督を贈られ、玄宗陵に陪葬された。

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唐宦官伝 高力士 その5

2024-10-29 10:57:42 | Weblog

天寶十三載頃
玄宗は「いやな雨が続いているな、お前はどう思う」と言うと、力士は「陛下は宰相に賞罰すべて委ねています、そのため陰陽が狂ってしまったのです。」と答えた。玄宗は默然としていた。

天寶十四載末
安禄山が反し、たちまち河北・東都を陥した。

天寶十五載六月
厳命して京師東方の潼関を守っていた哥舒翰を東方に進出させたが、禄山軍の精鋭に撃破され潰滅し、京師に侵攻されることになった。

玄宗は京師を棄て、宰相楊國忠が支配する劍南成都へ逃亡することになった。

狼狽して脱出する玄宗には当然力士が随行していた。

禄山軍侵攻に脅えた州縣官吏は逃亡し、玄宗一行に対する供応はなく、随行する將士は飢え、今までの安楽な生活から一変して窮迫してしまった。憤懣はこの事態を招いた楊國忠にむかい。軍乱となって國忠やその徒党を殺した。

さらに乱軍は玄宗に楊貴妃を殺すように迫った。玄宗は「貴妃は宮中深くにいて事態に責任はない」としたが、力士は「兵達は國忠達を殺しました。その一族の貴妃が生きているなら安心できません、貴妃は無罪ですが今は陛下にも危険が及んでいるのです」と説得した。そして貴妃を殺した。軍士は一応納得して逃亡が続くことになった。

皇太子一行は玄宗達に遅れて逃亡していたが、途中で父老達に關内に留まることを請願され進めなくなった。そこで玄宗は力士を派遣して太子達を朔方軍を頼って靈武郡をめざすよう通告させた。

逃亡の途次、臣下達がおいおい追いついてきた。玄宗は力士に「誰が裏切らずに来るだろうか?」と問うと、力士は「寵遇を受けていた張說の子均や垍は来るでしょう。冷遇されていた房琯はこないでしょう」と言った。しかしまもなく房琯は現れ、均や垍は来なかった。

やがて玄宗は成都につき、力士は近侍していた。政令は自立した皇太子[肅宗]が発し、無気力に成った玄宗はそれを追認した。

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