玄宗は即位したものの、父睿宗が上皇として残り、政策に優れた太平公主[則天の娘、睿宗の妹]が実権をにぎり宰相の大半もその党派に属していた。
先天二年/開元元年[713]玄宗は再び決起し、太平公主と宰相達を誅し、実権をにぎった。力士も功績があり銀青光祿大夫,行內侍同正員に栄進し、やがて冠軍大將軍、右監門衛大將軍,知內侍省事.渤海郡公に進んだ。
則天・韋后と女性が専権していた間は宦官を重用せず、官位も低かったが、玄宗に至って高官に登用し勢力を拡大していった。
開元元年[713]頃
実権を得た玄宗皇帝は、姚崇[元之]を宰相として登用し治政に当たらせていた。
ある時崇が郎官人事を上奏したが玄宗はなにも答えずそっぽを向いていた。
剛直な崇は尚も承認を求めるが返事はない。さすがに崇も懼れて退出していった。
近侍していた力士は「宰相が上奏していますのに、気に入らないからかもしれませんが回答しないというのはどうかと思います」と玄宗を諫めた。
玄宗は「国家の大事ならともかく、郎官の人事など宰相の裁量に任せている、上奏の必要などはない」と答えた。
そこで力士は崇にその旨を告げに行き、崇は信任の厚さに感激した。
玄宗は遊び人で政務に関心が薄いことや、力士が親任を得て官僚との仲立ちをしていることがわかる。
開元七年[719]頃
玄宗の臨淄王時代の奴隷出身の左武衛大將軍王毛仲は、太僕卿として馬事や園庭を専掌し、常に玄宗に近侍して寵愛厚く、部下や力士達宦官には傲岸であった。
開元十四年[726]頃
前宰相張說が収賄により弾劾され、有罪であったので下獄した。
玄宗は力士にその服罪状況を視察させた。
說と親しい力士は「說は高官であったのに、垢だらけで粗末な食事を食べ、ひたすら謹慎しています」と庇い、玄宗は哀れに思って宰相職を解任するだけで釈放した。
開元十八年[727]
力士達宦官は王毛仲とその徒党と対立していた。毛仲に子が産まれ、玄宗はその子に《五品》の位を授け力士に使いさせた。
玄宗は「毛仲はさぞ喜んでいただろう」と力士に問うと、「毛仲に《五品》?、《三品》じゃないのか、と軽くあしらわれました」と讒言した。
玄宗は「あいつは韋后の時には逃げ隠れしていたのに、思い上がっている」と激怒した。
力士はさらに「毛仲達は宮中に居て、武力を握っています、そんなことをおっしゃって身の危険があります」と玄宗の疑惑を煽った。
十九年正月毛仲は殺され、その黨十數人が左遷され、宦官達が宮中の職を独占するようになった。
力士は家に帰ることなく、常に宮中にいて近侍し、怠惰な玄宗は力士に諸事を任せきりだったのでその権限は増大し、官僚達は上奏する前に力士に相談し、小事は力士が専断するようになった。しかし常に玄宗の意向を推察して行ったため親任は増すばかりであった。
玄宗は「力士が居てくれれば安眠できる」と言った。
宇文融・李林甫・李適之・蓋嘉運・韋堅・楊慎矜・王鉷・楊国忠・安禄山・安思順・高仙芝などを玄宗に勧めた。しかし彼らが失寵すると拘ることはなかった。
母の麦氏とは幼い頃に別離していたが、力士が立身した開元時に再会し、胸の七つの黒子により母子と確認された。
力士は金吾大將軍程伯獻や少府監馮紹正とは義兄弟となり、瀛州呂玄晤の女を妻とした。
そのため玄晤は少卿に昇進し、子弟は皆王傅となった。