唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宦官伝 程元振 その1

2024-11-16 09:03:54 | Weblog

字は元振、雍州三原人。延載元年[694]に生まれた。

自宮して内侍省に入り、内射生使/飛龍廄副使まで昇進した。

元年建巳月/寶應元年四月
肅宗は重病となり、李輔國と権を争っていた張皇后は趙王係を擁して輔國を除こうと謀っていた。輔國の麾下であった元振はその謀議を知り輔國に告げた。

輔國と元振は禁兵を動員して、皇后・趙王・兗王等を殺害し、皇太子を擁立した。

元振は功績により左監門衛將軍に昇進した。

寶應元年五月
輔國は功を誇り尚父司空兼中書令となり、即位した代宗を軽視して専権を振るった。

元振は代宗皇帝に接近し輔國を追い落とそうとした。

寶應元年六月
元振は、輔國の力の源泉である行軍元帥府司馬及兵部尚書を奪い、みずから判元帥行軍司馬となって兵権を握った。そして輔國を宮中から逐いだした。

寶應元年七月
鎮軍大將軍保定郡開國公に進んだ。

寶應元年八月
河中の軍乱を収めた郭子儀が入朝したが、元振は猜疑して代宗に讒言したため、懼れた子儀は副元帥・節度使の兵権を辞し京師に隠棲した。

寶應元年九月
元振は勢威を増し、驃騎大將軍兼内侍監となり邠國公に進封した。
兵権や武将の人事を握り、政事に容喙して宰相裴冕を失脚させた。

寶應元年十月
回紇軍来援し、雍王を元帥とする史朝義征討軍が派出されることになり、代宗は郭子儀を副元帥にしようとしたが、元振等の宦官達は蕃族出身の僕固懷恩を強く推薦した。

輔國は自邸で殺され斬首された。

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唐宦官伝 李輔國 その4

2024-11-11 09:50:45 | Weblog

元年[762]建巳月/寶應元年四月

玄宗上皇が78才で崩御した。当時肅宗も重体となっていた。

この頃輔國と張皇后は主導権を争っていたが、皇后は皇太子[代宗]を呼び出し輔國を排除しようとした。しかし軟弱な皇太子は同調しなかった。
そこで皇后は副元帥の地位にあった越王係を擁して自派の宦官段恆俊等二百餘人で輔國を誅しようとしたが、皇太子に親しい宦官程元振は状況を輔國に通報した。

輔國・元振は禁軍を動員し、皇太子を擁して張皇后・越王等を殺した。

まもなく肅宗も崩御し、輔國は皇太子[代宗]を即位させた。

舞い上がった輔國は代宗に「政治は私がやります。帝は宮中でおとなしくしていればよい」と言い放った。
肅宗ほど無能では無かった代宗は不満だったが、禁軍を掌握する輔國に当面なすすべがなく、「尚父」の号を与えた。

功績が大きかった内飛龍廄副使程元振は左監門衛將軍に昇進し、代宗にすりよった。

寶應元年五月
輔國は司空兼中書令となり、念願の宰相となった。

寶應元年六月
程元振や宰相元載は、驕慢となった輔國を排除しようとして代宗に接近した。

まず輔國の判元帥行軍司馬・兵部尚書・閒廄等使の軍權を解任した。

そして輔國に邸宅を与え内廷から排除した、さらに中書令を解き相權も奪った。

輔國は憤激して代宗に抗議したが容れられず、博陸郡王を与えられただけだった。
「もう私は不要なのだな、先帝にあの世で仕えるしかない」と言い捨てて去った。

寶應元年九月
輔國派の秘書監韓穎、中書舎人劉烜が殺された。
程元振は驃騎大將軍兼内侍監となり実権を握った。

寶應元年十月
盗賊が輔國邸に入り、輔國を殺して首を取って去った。代宗の密命によると思える。

代宗は木首を与えて葬儀を行わせ、「太傅」を贈った。

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唐宦官伝 李輔國 その3

2024-11-07 10:07:57 | Weblog

玄宗上皇は皇宮外の興慶宮に住み、政務にはまったく関係せず、陳玄禮や高力士、玉真公主・如仙媛・内侍王承恩・魏悅や及梨園の俳優達と宴会を楽しみ、興が起こると長慶樓に出て、民衆の萬歲を受けていた。
また將軍郭英乂や成都在住時代の官員達を召すこともあった。輔國は微賤の出身で政務には通じていても教養が無いため、上皇やその左右からは軽視され憤懣を抱いていた。

輔國は上皇に強いコンプレックスを持つ肅宗に「上皇は外宮にいて外人と交通し、陳玄禮や高力士は陰謀を企んでいます。私にはどうしようもありません」と誣告した。
優柔不断で自信の無い肅宗は「父上をどうこうできないだろう」というばかりだった。
輔國は「上皇が復位を考えられたら大乱がおこります。外部の興慶宮から西內に遷っていただいて、小人達が暗躍しないようにしなければいけません」と提言したが、肅宗は決断できなかった。

上元元年[760]七月
そこで輔國は独断?で麾下の射生五百騎を率いて、武力で玄宗を西內に遷し、側近の玄禮を致仕させ、力士達を配流した。肅宗は承諾しなかったことになっているが、実際は黙認して輔國に責任を押しつけたというのが実情であろう。玄宗はすっかり気落ちして病となった。

上元二年[761]五月
山人李唐が肅宗に玄宗の扱いを諷したが、肅宗は張皇后や輔國を憚って玄宗の見舞いにもいかなかった。

八月
輔國は守兵部尚書となり、宰相朝臣に見送らせた。
さらに宰相を求めた。肅宗は宰相蕭華に諷して阻止させた。輔國は極めて不満であった。

元年[762]
肅宗は重病となり政務をとれなくなった。

元年建卯月
河中・河東で軍乱が起き、節度使李國貞・鄧景山が殺された。輔國が敬遠していた郭子儀が副元帥に登用され鎮圧に向かうことになった。郭子儀は出征にあたりおして病中の肅宗の直命を求め、輔國を牽制した。

元年建辰月
輔國は肅宗に迫って、恨みをもつ宰相蕭華を罷免させ、自党の元載を任用させた。

實封が八百戸に増した。

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唐宦官伝 李輔國 その2

2024-11-05 21:10:48 | Weblog

輔國は外面は恭謹で寡言であったが、内面は狡險で寵姫の張良娣と連携し肅宗を操り、殿中監・行軍司馬として軍權をにぎった。

至德二年[757]十二月両京回復後、恩賞として光禄大夫から開府儀同三司.郕國公.實500戸を与えられ、殿中監判行軍事は維持していた。

乾元元年[758]二月
大僕卿を兼ね厩權をにぎった。

肅宗は輔國や張皇后に頤使されることに不満であったが、意志薄弱であったのでどうにもできなかった。

乾元二年[759]三月
京師の治安が悪く、輔國は羽林軍に治安を任せようとしたが、宰相李揆に金吾軍の役割を侵害するとして止められた。このように宰相とは対立することが多かった。

輔國の権限は強くなり、禁兵を掌握し、上奏はすべて事前に輔國に承認されることが必要となり、決裁も輔國が専断することが多くなった。肅宗は不満であったが輔國に頼り切りであり辞めさせることはできなかった。

五月
麾下の馬坊の吏員を処刑されたことで、法官の中丞崔伯陽、刑部侍郎李曄、大理卿權獻と争い、反って三人を処罰し、反対する宰相李峴をも左遷した。

乾元三年[760]四月
山東節度使で軍乱が起き節度使史翽が殺された。鎮圧の為隴州刺史韋倫を節度使として派遣することになったが、倫が輔國の所に挨拶にこなかったため解任し、來瑱を代わりに任じた。

上元元年[760]五月
輔國は京畿鑄錢使となり利権を拡大し、六月長春宮使を兼ねた。

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唐宦官伝 李輔國 その1

2024-11-01 09:57:25 | Weblog

李輔國/護国      
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本名は靜忠。幽州博陸郡の人。長安三年[704]に生まれた。

宮刑を受けて閑廐[官馬(厩馬)を管理する役所]に勤務した。

容貌は醜くかったが、学問はそこそこあった。

高力士に使えて、閑廐では最も有能であった。

四十才頃、王鉷が閑廐使となり輔國を評価し、皇太子[後の肅宗]に推薦した。

天寶十五年[756]安禄山の乱により玄宗は成都に逃亡し、皇太子も従った。

途中、遅れて進む皇太子一行を父老達が「關内を見捨てていかれるのですか、留まって戦ってください」と請願した。
皇太子は拒否しようとしたが、子の建寧王倓や輔國は「このままでは關内は失われてしまいます」と留まることを主張し、優柔不断な皇太子は押し切られた。
すっかり気力を無くしていた玄宗はそれを追認し、天下兵馬元帥都統朔方河東河北平盧等節度兵馬收復兩京として分離を認めた。

皇太子は朔方軍を頼り、彭原・平涼と敗走した。朔方留後杜鴻漸や魏少游が出迎えやっと靈武に入り体裁を整えることができた。

七月杜鴻漸など朔方軍幹部や諸皇子・輔國達は皇太子[肅宗]を擁立して即位させた。肅宗は玄宗の承諾なしに即位することを躊躇したが、出世をねらう朔方軍の文官達や輔國・張妃達に押しきられて承諾した。

肅宗は子の建寧王や謀臣李泌を信頼していたが、輔國や張妃は泌を憎み、建寧王を誣告して殺させた。泌は懼れて逃亡した。

輔國[靜忠]は太子家令判元帥府行軍司馬として諸方からの上奏を取り次いで管理し、表の権力を振い、張妃は裏で動揺しやすい肅宗を激励してコントロールして連携していた。靜忠から賜名され「護国」と称した。

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唐宦官伝 高力士 その6

2024-10-30 09:55:00 | Weblog

至徳元年[756]八月
玄宗は従駕の恩賞として、驃騎大將軍內侍監知內侍省事渤海郡公の力士に開府儀同三司を加え齊國公に昇進させた。

至徳二年[757]回紇の援軍を得た唐軍は九月京師を、十月東都を回復した。
玄宗は十一月成都を発して京師に戻った。当然力士もまた随行した。

還京した玄宗に対し、肅宗は本意ではなかったが皇帝位を返上しようという茶番を演じたが、馬鹿では無い玄宗は力士を派遣して辭した。

両京回復の功績として力士は實封三百戸を与えられた。当時の財政状況からみて實収入があったとは思えない。

上元元年[760]六月
還京した玄宗は政務には一切関与せず、側近の陳玄禮や力士や玉真公主などと梨園子弟とともに宴会を催して楽しんでいた。風雅や教養の差からか、権力を握っていた肅宗の側近李輔國はそのグループには入れず不満をいだいていた。しかも輔國は力士に取り立てられた立場として頭が上がらなかった。

そこで輔國は、長く玄宗を懼れ続けていた庸劣な肅宗皇帝に「上皇は興慶宮に民衆を集めて人気があり、力士や玄禮はなに事かを策動しています」と誣告した。

定見などなく周囲に動かされる肅宗は動揺し、輔國に命じて上皇を西內に押し込めた。

そして玄禮を致仕させ、力士達を配流した。
力士は巫州に配流されたが、肅宗にとっても輔國にとっても恩人であったため虐待されることはなかった。しかし鬱々として楽しまなかった。

寶應元年[762]四月
玄宗が78才で崩御し、同時に肅宗も52才で崩御した。

力士は大赦により召還され、玄宗の下に戻れると期待して郎州まで到ったが、玄宗の死を聞き、慟哭し吐血して死んだ。
揚州大都督を贈られ、玄宗陵に陪葬された。

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唐宦官伝 高力士 その5

2024-10-29 10:57:42 | Weblog

天寶十三載頃
玄宗は「いやな雨が続いているな、お前はどう思う」と言うと、力士は「陛下は宰相に賞罰すべて委ねています、そのため陰陽が狂ってしまったのです。」と答えた。玄宗は默然としていた。

天寶十四載末
安禄山が反し、たちまち河北・東都を陥した。

天寶十五載六月
厳命して京師東方の潼関を守っていた哥舒翰を東方に進出させたが、禄山軍の精鋭に撃破され潰滅し、京師に侵攻されることになった。

玄宗は京師を棄て、宰相楊國忠が支配する劍南成都へ逃亡することになった。

狼狽して脱出する玄宗には当然力士が随行していた。

禄山軍侵攻に脅えた州縣官吏は逃亡し、玄宗一行に対する供応はなく、随行する將士は飢え、今までの安楽な生活から一変して窮迫してしまった。憤懣はこの事態を招いた楊國忠にむかい。軍乱となって國忠やその徒党を殺した。

さらに乱軍は玄宗に楊貴妃を殺すように迫った。玄宗は「貴妃は宮中深くにいて事態に責任はない」としたが、力士は「兵達は國忠達を殺しました。その一族の貴妃が生きているなら安心できません、貴妃は無罪ですが今は陛下にも危険が及んでいるのです」と説得した。そして貴妃を殺した。軍士は一応納得して逃亡が続くことになった。

皇太子一行は玄宗達に遅れて逃亡していたが、途中で父老達に關内に留まることを請願され進めなくなった。そこで玄宗は力士を派遣して太子達を朔方軍を頼って靈武郡をめざすよう通告させた。

逃亡の途次、臣下達がおいおい追いついてきた。玄宗は力士に「誰が裏切らずに来るだろうか?」と問うと、力士は「寵遇を受けていた張說の子均や垍は来るでしょう。冷遇されていた房琯はこないでしょう」と言った。しかしまもなく房琯は現れ、均や垍は来なかった。

やがて玄宗は成都につき、力士は近侍していた。政令は自立した皇太子[肅宗]が発し、無気力に成った玄宗はそれを追認した。

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唐宦官伝 高力士 その4

2024-10-23 18:42:11 | Weblog

天寶五年[746]
楊貴妃への玄宗の寵愛は深く、力士は貴妃ののる馬の轡をとり案内する状況でした。
ある時、貴妃が玄宗に逆らって怒りをかい、兄銛の家に送り返される事がありました。
ところが玄宗のほうが貴妃ロスに苦しみ、力士は玄宗の意を酌んで迎えに行きました。

天寶五年七月
李林甫は疑獄を起こし、政敵である李適之や皇太子妃の兄である韋堅を陥れました。そして皇太子を廃位しようと企みましたが、力士は張垍や張均[說の子]とともに太子を保護したため及びませんでした。

天寶七年[748]四月
左監門大將軍知内侍省事力士は驃騎大将軍に昇進しました。その威勢は強く、西京に寶壽寺を作るとその鐘をつくという名目で莫大な金があつまりました。
ただ応接がいつも丁寧で、驕慢な態度をしめさなったので玄宗から親任され、士大夫に憎まれることはありませんでした。

天寶九年[750]二月
また玄宗と楊貴妃との痴話げんかが起こり実家に帰されました。また貴妃ロスを起こす玄宗のために力士は使いして、貴妃をつれ帰りました。

天寶十一年[752]四月
李林甫派の戸部侍郎兼御史大夫京光尹王珙/鉷の弟銲・刑縡がなぜか蜂起し皇城を攻めた時、力士は飛龍禁軍四百を率いてこれを討った。よくわからない事件である。

天寶十一年十二月
河西隴右節度の哥舒翰と范陽平盧節度の安祿山は反目しあっていたので、玄宗は和解させようとして力士に宴を開かせとりもたせたが、喧嘩別れにおわった。

天寶十三年[754]三月
玄宗は安禄山を宰相に登用しようとしていたが、楊國忠は反対したためならなかった。力士は幽州に帰る禄山を送ったが、その不満を感じ取った。

天寶十三載六月
楊國忠麾下の李宓が雲南蠻に大敗したが玄宗はなにも知らなかった。
玄宗は貴妃に耽溺し「我は老いた、政事は宰相に、軍事は諸将に任せてなにも心配なことはない」と言った。
さすがに力士は呆れて「雲南で軍は大敗しました。諸将は大軍を擁しています、一旦事あれば陛下はなにに頼るつもりですか」と諫めたが、耄碌した玄宗は「なにも言うな、わかっているわい」と言うのみであった。

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唐宦官伝 高力士 その3

2024-10-21 10:45:20 | Weblog

開元二十三年[735]頃
遊興好きの玄宗はしばしば五鳳樓で宴会を開いたが、見物する民衆の喧噪で音楽が楽しめなかった。そこで警備する金吾兵に統制させたがかえって混乱するだけで効果がなかった。
そこで力士は河南丞嚴安之を勧めた。安之が「騒ぐ者は斬る」と掲示すると、その厳酷な評判を知る民衆はたちまちしずまりかえった。

開元二十五年[737]四月
寵姫である武貴妃は自分の子の立太子を望み、宰相李林甫等と結託し、皇太子瑛と仲の良い兄弟である鄂王瑤、光王琚が謀反していると誣告した。軽率な玄宗はそれにのって三子や姻族を誅してしまった。ところが十二月、武貴妃が卒すると誣告の真実が明らかになり玄宗は悔やんだ。

開元二十六年[738]
無罪な皇太子達を殺してしまい、しかも武貴妃を失い、気力が衰えた玄宗は次ぎの皇太子問題に悩んでいた。宰相李林甫は武貴妃の子「壽王」を推したが、その誣告に乗ぜられたと思う玄宗は素直には聞けず、悩みは深くなるばかりであった。

力士が「何を悩んでおられるのですか」と聞くと、玄宗は「お前には当然わかっているはずだ」と言う、
力士「立太子の件ですね、それなら悩まれずに長幼の順に従えばよいのです、そうすれば誰が異議を唱えましょう」と進言した。長幼の順なら忠王[後の肅宗皇帝]になる。それを聞くと玄宗は「そうだ、そうだ、それが良いな」と言って、林甫の奏を却けて忠王を太子とした。

力士は寵愛した武貴妃を失い元気のない玄宗に、子の壽王妃である楊氏を斡旋した。楊氏が武貴妃に似ていたためという。

その後、林甫は皇太子を廃そうといろいろな疑獄事件を起こしたが、力士は皇太子を守り廃させなかった。

力士は玄宗を《大家(旦那様)》と呼んでいた。
玄宗は力士を通常《将軍》と呼び、時には《我が家の老奴》とも呼び、皇太子は彼を《兄》、他の皇族は《翁》、皇女の婿たちは《爺》と呼んだ。

天寶三年[744]頃
玄宗皇帝は初期の政事への関心をすっかり失い、ただ遊興や楊貴妃との姦淫にふける愚帝となっていきました。そして東都への巡幸も厭うようになりました。宰相李林甫はその状況を察して京師への糧食運送が軌道に乗り、東都への行幸は必要ないと上奏し、玄宗はそれを嘉納しました。力士は「行幸は天下の情勢を視るため必要です」と諫言したが玄宗の不興をかうばかりでした。力士は玄宗の堕落を知り、諫言を控えるようになっていきました。

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唐宦官伝 高力士 その2

2024-10-19 16:33:26 | Weblog

玄宗は即位したものの、父睿宗が上皇として残り、政策に優れた太平公主[則天の娘、睿宗の妹]が実権をにぎり宰相の大半もその党派に属していた。

先天二年/開元元年[713]玄宗は再び決起し、太平公主と宰相達を誅し、実権をにぎった。力士も功績があり銀青光祿大夫,行內侍同正員に栄進し、やがて冠軍大將軍、右監門衛大將軍,知內侍省事.渤海郡公に進んだ。

則天・韋后と女性が専権していた間は宦官を重用せず、官位も低かったが、玄宗に至って高官に登用し勢力を拡大していった。

開元元年[713]頃
実権を得た玄宗皇帝は、姚崇[元之]を宰相として登用し治政に当たらせていた。
ある時崇が郎官人事を上奏したが玄宗はなにも答えずそっぽを向いていた。
剛直な崇は尚も承認を求めるが返事はない。さすがに崇も懼れて退出していった。
近侍していた力士は「宰相が上奏していますのに、気に入らないからかもしれませんが回答しないというのはどうかと思います」と玄宗を諫めた。
玄宗は「国家の大事ならともかく、郎官の人事など宰相の裁量に任せている、上奏の必要などはない」と答えた。
そこで力士は崇にその旨を告げに行き、崇は信任の厚さに感激した。
玄宗は遊び人で政務に関心が薄いことや、力士が親任を得て官僚との仲立ちをしていることがわかる。

開元七年[719]頃
玄宗の臨淄王時代の奴隷出身の左武衛大將軍王毛仲は、太僕卿として馬事や園庭を専掌し、常に玄宗に近侍して寵愛厚く、部下や力士達宦官には傲岸であった。

開元十四年[726]頃
前宰相張說が収賄により弾劾され、有罪であったので下獄した。
玄宗は力士にその服罪状況を視察させた。
說と親しい力士は「說は高官であったのに、垢だらけで粗末な食事を食べ、ひたすら謹慎しています」と庇い、玄宗は哀れに思って宰相職を解任するだけで釈放した。

開元十八年[727]
力士達宦官は王毛仲とその徒党と対立していた。毛仲に子が産まれ、玄宗はその子に《五品》の位を授け力士に使いさせた。
玄宗は「毛仲はさぞ喜んでいただろう」と力士に問うと、「毛仲に《五品》?、《三品》じゃないのか、と軽くあしらわれました」と讒言した。
玄宗は「あいつは韋后の時には逃げ隠れしていたのに、思い上がっている」と激怒した。
力士はさらに「毛仲達は宮中に居て、武力を握っています、そんなことをおっしゃって身の危険があります」と玄宗の疑惑を煽った。
十九年正月毛仲は殺され、その黨十數人が左遷され、宦官達が宮中の職を独占するようになった。

力士は家に帰ることなく、常に宮中にいて近侍し、怠惰な玄宗は力士に諸事を任せきりだったのでその権限は増大し、官僚達は上奏する前に力士に相談し、小事は力士が専断するようになった。しかし常に玄宗の意向を推察して行ったため親任は増すばかりであった。
玄宗は「力士が居てくれれば安眠できる」と言った。

宇文融・李林甫・李適之・蓋嘉運・韋堅・楊慎矜・王鉷・楊国忠・安禄山・安思順・高仙芝などを玄宗に勧めた。しかし彼らが失寵すると拘ることはなかった。

母の麦氏とは幼い頃に別離していたが、力士が立身した開元時に再会し、胸の七つの黒子により母子と確認された。

力士は金吾大將軍程伯獻や少府監馮紹正とは義兄弟となり、瀛州呂玄晤の女を妻とした。
そのため玄晤は少卿に昇進し、子弟は皆王傅となった。

 

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