◎.8月 文官殿中監李若幽/國貞が戸部尚書充朔方鎮西北庭興平陳鄭等九節度行營兵馬及河中節度都統處置使となった。唐朝は河中を軍人から回収したかったわけである。光弼は河南行営に向かった
◎.是年 河中節度は沁州を増やされ、同州は華州鎮國軍節度に移管、しかし沁州はまた澤潞節度に移された。
寶應元年[762]
◎.建卯月 河中軍が亂して都統李國貞と鎮西行営節度使荔非元禮を殺した。國貞が屯する絳州は荒れ果てていて、軍人に対する給糧がされず、唐朝からの供軍もなかった。不満が昂じた突將王元振等が反した。近隣に屯していた鎮西北庭行営軍も乱して元禮を殺して、裨將白孝德を擁立。河東軍も乱して厳酷な節度使文官鄧景山を殺し、都知兵馬使代州刺史辛雲京を擁立した。史朝義軍に対峙していた唐朝軍は潰滅状態となった。
◎. 唐朝は肅宗皇帝は重病[まもなく崩御]する状態であり、狼狽したが、冷遇していた朔方節度使郭子儀を朔方河中北庭潞儀澤沁等州節度行營行興平定國副元帥充本管觀察處置使進封汾陽王に任じて乱を鎮圧させようとした。河中軍は郭子儀の旧麾下であり威權が通じると判断したわけである。子儀は実権者宦官李輔國の策動を懼れて、重病の肅宗に強いて謁見し、親しく勅命を受けた。
◎.4月 郭子儀は軍に至り、乱兵は直ちに帰服した。子儀は乱者元振等数十名を誅した。河東辛雲京・鎮西白孝徳も子儀の命に復した[職はそのままであるが]
◎.7月 郭子儀は入朝し、都知朔方河東北庭潞儀澤沁陳鄭等節度行營及興平等軍副元帥となった。その間に肅宗は崩御し、李輔國は張皇后・趙王係を殺して皇太子[代宗]を擁立し、最高権力者[司空兼中書令]となった。
◎.8月 李輔國は郭子儀を讒言し、懼れた子儀は副元帥・節度使を辞して[形式的には留任したが実権は手放した]、京師に居した。
◎. 王昂が河中尹河中晉絳等州節度使となったようである。
◎.10月 朔方節度使僕固懷恩が同平章事兼絳州刺史領諸軍節度行營副元帥となり河中節度も統制下においたと見られる。そして回紇軍とともに史朝義を追討した。
寶應二年/廣徳元年[]
◎.正月 史朝義は自殺し安史の乱は治まったが、宦官勢力は副元帥僕固懷恩の謀叛を言い立てた。
◎.6月 旧紀では王昂は檢校刑部尚書封祁國公に。
廣徳二年[]
◎.正月 關内副元帥司徒兼中書令郭子儀を充河東副元帥河中等處觀察兼雲州大都督單于鎮北大都護とした。元年10月吐蕃軍は京師を陥し、代宗皇帝は華州に逃亡した。やむをえず冷遇していた郭子儀を關内副元帥として京師回復にあたらせたが、子儀には兵力がなく雑軍をかき集めて吐蕃軍を撤退させることしかできなかった。さすがに代宗皇帝を操作していた宦官程元振は失脚し、魚朝恩に代わり。子儀も復権してきたわけである。
◎.2月 子儀は河中に入り、動員されて駐屯し、横暴を極めていた雲南蠻子弟を粛清した。
◎. 郭子儀の留後として河中尹兼節度副使崔寓/公寓が任用されたようである。
◎.6月 罷河中節度及耀德軍、置置河中五州都團練觀察使。朔方節度副元帥郭子儀の管轄下に入ったことで、独立の節度ではなくなったという制度変更である。吐蕃・回紇に接した朔方府を避けて河中府には子儀の朔方親衛軍が移動していた。
◎.朔方節度復兼單于大都護,罷河中、振武節度,以所管七州隸朔方。
◎.8月 郭子儀は僕固懷恩の入寇から京師を防衛するため入朝した。
◎.9月 河中軍は吐蕃を懼れて出動を望まず騒乱を起こした。
◎.12月 懷恩が卒し吐蕃軍が潰乱して撤退したので、郭子儀は京師に戻り再度關内河中副元帥に兼尚書令や太尉などを加えられたが辞退した。
◎.12月 吏部侍郎暢璀が左散騎常侍兼河中尹として留後となった。
◎.是年 河中節度は沁州を増やされ、同州は華州鎮國軍節度に移管、しかし沁州はまた澤潞節度に移された。
寶應元年[762]
◎.建卯月 河中軍が亂して都統李國貞と鎮西行営節度使荔非元禮を殺した。國貞が屯する絳州は荒れ果てていて、軍人に対する給糧がされず、唐朝からの供軍もなかった。不満が昂じた突將王元振等が反した。近隣に屯していた鎮西北庭行営軍も乱して元禮を殺して、裨將白孝德を擁立。河東軍も乱して厳酷な節度使文官鄧景山を殺し、都知兵馬使代州刺史辛雲京を擁立した。史朝義軍に対峙していた唐朝軍は潰滅状態となった。
◎. 唐朝は肅宗皇帝は重病[まもなく崩御]する状態であり、狼狽したが、冷遇していた朔方節度使郭子儀を朔方河中北庭潞儀澤沁等州節度行營行興平定國副元帥充本管觀察處置使進封汾陽王に任じて乱を鎮圧させようとした。河中軍は郭子儀の旧麾下であり威權が通じると判断したわけである。子儀は実権者宦官李輔國の策動を懼れて、重病の肅宗に強いて謁見し、親しく勅命を受けた。
◎.4月 郭子儀は軍に至り、乱兵は直ちに帰服した。子儀は乱者元振等数十名を誅した。河東辛雲京・鎮西白孝徳も子儀の命に復した[職はそのままであるが]
◎.7月 郭子儀は入朝し、都知朔方河東北庭潞儀澤沁陳鄭等節度行營及興平等軍副元帥となった。その間に肅宗は崩御し、李輔國は張皇后・趙王係を殺して皇太子[代宗]を擁立し、最高権力者[司空兼中書令]となった。
◎.8月 李輔國は郭子儀を讒言し、懼れた子儀は副元帥・節度使を辞して[形式的には留任したが実権は手放した]、京師に居した。
◎. 王昂が河中尹河中晉絳等州節度使となったようである。
◎.10月 朔方節度使僕固懷恩が同平章事兼絳州刺史領諸軍節度行營副元帥となり河中節度も統制下においたと見られる。そして回紇軍とともに史朝義を追討した。
寶應二年/廣徳元年[]
◎.正月 史朝義は自殺し安史の乱は治まったが、宦官勢力は副元帥僕固懷恩の謀叛を言い立てた。
◎.6月 旧紀では王昂は檢校刑部尚書封祁國公に。
廣徳二年[]
◎.正月 關内副元帥司徒兼中書令郭子儀を充河東副元帥河中等處觀察兼雲州大都督單于鎮北大都護とした。元年10月吐蕃軍は京師を陥し、代宗皇帝は華州に逃亡した。やむをえず冷遇していた郭子儀を關内副元帥として京師回復にあたらせたが、子儀には兵力がなく雑軍をかき集めて吐蕃軍を撤退させることしかできなかった。さすがに代宗皇帝を操作していた宦官程元振は失脚し、魚朝恩に代わり。子儀も復権してきたわけである。
◎.2月 子儀は河中に入り、動員されて駐屯し、横暴を極めていた雲南蠻子弟を粛清した。
◎. 郭子儀の留後として河中尹兼節度副使崔寓/公寓が任用されたようである。
◎.6月 罷河中節度及耀德軍、置置河中五州都團練觀察使。朔方節度副元帥郭子儀の管轄下に入ったことで、独立の節度ではなくなったという制度変更である。吐蕃・回紇に接した朔方府を避けて河中府には子儀の朔方親衛軍が移動していた。
◎.朔方節度復兼單于大都護,罷河中、振武節度,以所管七州隸朔方。
◎.8月 郭子儀は僕固懷恩の入寇から京師を防衛するため入朝した。
◎.9月 河中軍は吐蕃を懼れて出動を望まず騒乱を起こした。
◎.12月 懷恩が卒し吐蕃軍が潰乱して撤退したので、郭子儀は京師に戻り再度關内河中副元帥に兼尚書令や太尉などを加えられたが辞退した。
◎.12月 吏部侍郎暢璀が左散騎常侍兼河中尹として留後となった。