・対吐蕃防衛の最前線夏・鹽州は貞元2年[786年]吐蕃の領有するところとなったが、補給が続かないため城郭を壊し、
民を移して放棄した。6月杜希全はこれを回復し、7月振武の綏、銀二州を分割し、右羽林將軍韓潭を夏綏銀節度使とし
て、神策軍・朔方・河東兵八千を駐屯させた。
・吐蕃の關内侵攻は連年続き、京師は戒厳することが続いたが、貞元9年[793年]大軍をもって鹽州城を修築したこと
により一応の安定をみ、貞元13年[797年]邠寧楊朝義が方渠・合道・木波の三城を築くことにより侵攻は収まった。
・貞元14年長武城使韓全義が節度使となり、16年宦官の支持により淮西呉少誠征討の総帥となった。しかし宦官に贈賄
し媚びるだけの全義は敗戦を重ね逃げ帰った。宦官に操作された無能な宗皇帝はかえってこれを賞した。
・永貞元年[805年]憲宗皇帝が即位すると、新帝に憎まれていて形勢不利を知った全義は入朝し引退することができた
が、宗時代の無気力な藩鎭交替になれた全義の甥の楊惠琳は自分が継承しようとして征討され、部下に殺された。
民を移して放棄した。6月杜希全はこれを回復し、7月振武の綏、銀二州を分割し、右羽林將軍韓潭を夏綏銀節度使とし
て、神策軍・朔方・河東兵八千を駐屯させた。
・吐蕃の關内侵攻は連年続き、京師は戒厳することが続いたが、貞元9年[793年]大軍をもって鹽州城を修築したこと
により一応の安定をみ、貞元13年[797年]邠寧楊朝義が方渠・合道・木波の三城を築くことにより侵攻は収まった。
・貞元14年長武城使韓全義が節度使となり、16年宦官の支持により淮西呉少誠征討の総帥となった。しかし宦官に贈賄
し媚びるだけの全義は敗戦を重ね逃げ帰った。宦官に操作された無能な宗皇帝はかえってこれを賞した。
・永貞元年[805年]憲宗皇帝が即位すると、新帝に憎まれていて形勢不利を知った全義は入朝し引退することができた
が、宗時代の無気力な藩鎭交替になれた全義の甥の楊惠琳は自分が継承しようとして征討され、部下に殺された。