多発性硬化症(たはつせいこうかしょう、multiple sclerosis; MS)
神経線維の軸索を含むさや(ミエリン層)が破壊される中枢性脱髄疾患の一つ
脳、脊髄、視神経などに病変が起こり、多彩な神経症状が再発と寛解を繰り返す疾患である
経過中に多く見られるのは運動麻痺、感覚障害、深部反射亢進、視力障害、病的反射などである
女性患者が多く、欧米では失調症、アジアでは視力障害となって現れることが多い
日本では特定疾患に認定されている指定難病である
1987年、不世出の天才女性チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレがこのМSによってわずか42歳の生涯を終えたとき、彼女が病気による現役引退をしてすでに15年が経っていました。
音楽熱心であるが普通の家庭から生まれた天才少女はあっという間に名声を手にし、その特異な音楽性と優れた容姿で瞬く間に一流音楽家の仲間入りをします。
そして、やはり同じく天才と言われたピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムと結婚。
全ての栄光与えられていたかのようなジャクリーヌが演奏家としてその絶頂にあったそのとき、突如襲ったこの難病は彼女の運動能力を奪い、引退を余儀なくされます。
演奏家としては活動していないにもかかわらず、その後も不世出の天才と言われ続けていたジャクリーヌが闘病の末亡くなったとき、彼女の姉ヒラリーと弟ピアースがその追想記を出版します。
「A Genius in the Family (我が家の天才)」
という題名のこの追想記はイギリス人のみならず世界中の音楽ファンの間にショックを与えました。
前半は華麗な天才音楽家の物語、そして、後半からは難病と格闘しこの世を去るまでの凄絶な日々の記録。
このセンセーショナルな「内部告発」によると、ジャクリーヌは病と闘いながらまるで暴君のように家族にあたり散らし、自分だけでは支えきれないその精神の安定を保つために姉、弟、そして両親に怒りを、焦りを、悲しみや絶望や恐怖をぶつけます。
「ビゴット(偏屈者)って何?」
彼女は執拗に繰り返した。言葉は恐ろしく不明瞭だった。
次にランチを食べに訪問した時も、ジャッキーはまたやった。
いかにもわざとやっているのよと言わんばかりに声を意地悪く変え、僕の胸をグサリと突きたがっていた。
「もう会いに来てくれないの?」
どもりながら彼女は言った。心から悲しんでいるようだった。
しかし、会いに行くとリン(ピアースの妻)が部屋を出たとたん、ジャッキーは同じ攻撃を開始した。
彼女は唯一つの言葉―「ビゴット」を何度も何度も繰り返すだけだった。
誰よりも愛していたはずの姉、ヒラリーに対しては・・・。
この手記出版後、今日の表題である映画
「本当のジャクリーヌ・デュ・プレ」(原題 Hiraly and Jackie)
が製作されました。
その中でも最も衝撃的に語られていた事実です。
ジャクリーヌはバレンボイムとの結婚生活が破綻するころ、精神安定剤としての性関係をヒラリーの夫であるキーファに求め、それをヒラリーも怖ろしい苦しみとともに容認していたということでした。
キーファは私を庭へ連れ出し、すでに予感はしていたが、ジャッキーに寝てくれと懇願され、そうしてしまったとすすり泣き続ける私に告白した。
夜にはキーファは必ず、まず私と一緒のベッドに入ったが、ジャッキーが必要としたときは、途中で彼女の部屋に上がっていった。
「何が起きようとも、僕たちのしていることの目的はひとつ、ジャッキーを救うことなんだ」
映画では事実通りそれが発病前の出来事として描かれているため、あたかも天才芸術家のエキセントリックな奇行であり、周りを犠牲にして顧みない傲慢さであると取られかねないのがこの部分です。
しかし、彼女自身の追想記でヒラリーは、愛する妹が二十七歳でチェリストとしてのキャリアを放棄するどのくらい前からジャッキーがその難病の傾向を自覚していたのかを知ったことで、妹の異常な行動とそれを黙認した自分の感情にに折り合いをつけようと試みています。
МSの情緒面での影響についても専門家から話を聞いた彼女は、患者がその性生活において病気ゆえの不快感を覚える事態に陥ったとき(ジャッキーは失禁を始めとする膀胱の疾患に苦しんでいた)自己評価の低下に苦しみ、その反動として誰であれ一番身近にいる男性に身を投げ出していた可能性がある、という一般論を耳にして衝撃を受けます。
そして、同時にヒラリーはジャッキーがわずか九歳のときに突然自分の将来の病気を予言するかのような謎めいた言葉を口にしたことを思い出すのです。
あれは予言だったのか、それとも九歳のジャクリーヌにそう思わせるだけの何かが実は起こっていたのか。
もし、そのかすかな破滅の予感とともにジャクリーヌが早くからその短い人生を歩んでいたのだとしたら、彼女を彼女たらしめたその奔放で奇矯な行動のすべては数万分の一の割合で与えられた天才と、やはり数万分の一の割合で与えられた難病による「合作」だと判じざるを得ません。
こんにち、エルガーのチェロ協奏曲を公のプログラムにしようとするチェリストは、かなりの勇気と自信を―何よりジャクリーヌ・デュ・プレの演奏との比較を免れないという意味で―要する、といいます。
友人であった指揮者のズ―ビン・メータが生涯誰ともこの曲を演奏しないと決めたように、この曲は彼女そのものであり、その痛切な悲壮感から彼女の人生を想起させずにはいられないからでしょう。
作曲者エルガーにとっても「白鳥の歌」となったこの曲については、没年の1934年に病床にあったエルガーが
「僕が死んだ後に、
もし誰かが口笛でこの旋律をモールヴァーン丘陵で吹いていたなら、
怖がらなくていいよ。
それはきっと僕なんだから」
と語ったというエピソードがあり、ジャクリーヌもその人生を自分のそれと重ね合わせるがごとき発言をしています。
「エルガーは不幸な人生を送ったの。
いつも病気で。
でもその間も彼の魂は輝いていたの。
私、彼の音楽にそれを感じるのよ」
エルガーのチェロ協奏曲。
病に冒された二人の不幸な天才を結び付けたこの曲の調べを聴いていると、九歳の少女の声で無邪気に語られたという予言の言葉がそれに重なって聴こえてくるような気がするのです。
「ママにはこれ内緒だよ。
私、大人になったら・・・動くことも歩くこともできなくなるの」
「本当の」ジャクリーヌ・デュ・プレとは、もしかしたら、病に侵されず、天才でもなかったジャッキーであり、少なくともこの世には存在しなかったという気すらしてくるのです。