陸軍戦車部隊隊長として硫黄島で戦死した西竹一中佐(死後大佐)です。
海軍ファンであるところのエリス中尉が海軍に目覚めるずっと昔、
さかのぼれば少女時代から西中佐、バロン西は憧れの軍人でした。
今日の画像を見ていただけると何となくお分かりかと思いますが、
西中尉(当時)の軍服は特別仕立てです。
腰を極端に絞り、ジョッパーズという乗馬ズボンの腿部分は大きく広がった独特のデザイン。
襟はハイカラー。
軍帽も自分好みにデザインしています。
横に大きく張り出したトップ(他の将校と写っている写真ではバロンだけ軍帽が大きい)、
短く垂直なひさし。
これを世に「西式軍帽」と言ったそうです。
もちろん軍服の仕立てもヨーロッパでの特別誂えでした。
ブーツ、鞭、馬具は全てフランスはエルメス製。
戦後何十年を経ていまだにぴかぴか光るキーパー入りのエルメスのブーツを見て、
その美しさにため息をついたのが、何を隠そう、
エリス中尉がエルメスファンになるきっかけであったともいえます。
死地となった硫黄島でも西中佐はエルメスのブーツ、手には乗馬鞭を離さなかったそうです。
大金持ちの男爵家に生まれた西中佐はもともと車やバイクを乗り回すスピード狂でした。
陸軍幼年学校のとき乗馬に関心を抱いたバロンは、帝国陸軍の花形、騎兵士官に任官。
伝説の馬術家、バロン西が誕生します。
当時の男性としては長身の175センチ、そして何より腰高の足長体型を生かした
「首に乗る」独特の騎馬法で、バロン西はあっという間に才能を開花させます。
そして、1932年のロスアンジェルスオリンピック。
プリデナシオン(優勝国賞典競技)といい、オリンピックで最終日に行われる乗馬競技、
大賞典障害飛越(この競技の勝者で真のオリンピック優勝国が決まるという意味合いを持ち、
特に敬意が払われている競技)で、日本の陸軍中尉が信じがたい飛び越しを繰り返し、
人馬一体、端麗優美の妙技を披露して優勝を成し遂げました。
場内のアナウンスは優勝者の名前を高らかに告げます。
「ファースト・ルテーナント・バロン・タケイチ・ニシ」
バロンは優勝後のインタビューに
「We won」、われわれ(=私と愛馬ウラヌス)は勝った、と答え、
その答えは世界の人々を熱狂させます。
天才バロン西は、また高貴なる不良少年でもありました。
十歳のとき男爵位とともに巨万の財産を引き継いだバロンは、まずカメラに没頭。
邸内に暗室まで作って現像焼き付けをする凝りようでした。(子供ですよ)
バイオリン、空気銃、そしてバイクはハーレーダビッドソン。
クルマも少尉候補生の分際でアメ車をとっかえひっかえ。
銀座、築地川には高速ボートをつないで、ホステスを乗せて酔っぱらい運転。
あり余るお金を惜しげもなく遊びにつぎ込み、酔うとケンカもする酒豪でした。
アメリカやヨーロッパでも臆することなくハリウッドのスターと「マブダチ」になり、
船の甲板で真っ裸の追っかけっこ。
美人女優との一夜を賭けて一気飲みの末ぶっ倒れる。
リベラルで遊び人の多い海軍にもこれだけの人物はそういません。
そう、タイトルにある「血中海軍度」が異常に高いバロンでした。
バロンのためにかれが海軍軍人でなかったことを心から惜しむエリス中尉ですが、
海軍に騎兵隊は・・ないですよね。
もちろんのことそれをこちこち石アタマの陸軍が快く思う筈がありません。
大尉になり、少佐になって東京オリンピックを控えた頃満州の荒野に転勤させられてしまいます。
昭和16年には、騎兵科は歩兵科の流れを汲む戦車兵と統合されて機甲兵となり、
兵種としての騎兵は消滅することになりました。
騎兵の多くは、西中佐に代表されるように戦車部隊の要員となるのです。
西中佐が最後に激戦の硫黄島に赴任させられらたのは、
陸軍上層部が派手すぎるこの士官を嫌い、あえて死地に追いやったためだいう説があります。
また、ロスアンジェルスの四年後のベルリンオリンピックで落馬し棄権したという
「失態」に対するものだという説もあります。
日本の切羽詰まった戦況を鑑みて、
特に西中佐だけが懲罰的人事を命じられたというわけでもない、と当初私は思っていましたが
「竹槍事件」を調べて以降、どちらの説も当時の陸軍なら、
あっても不思議ではないと思うようになりました。
しかし、ベルリンで同盟国ドイツの競技者を勝たせるためにわざとバロンが落馬したのだという
とんでもない説に対しては、スポーツ競技者であり、軍人であり、何よりも日本人であるバロンを
徒に貶めようとする悪意のある噂で、全く愚にもつかないとだけ言っておきましょう。
クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」では、
西大佐を伊原剛志が演じていますが、エリス中尉的にはこの配役、全く不満です。
長身の男前なら誰でもいいってもんじゃなかろうと思います。
当時西中佐は43歳。
とても伊原剛志のあの年齢ではその風格もなければ余裕もありません。
何と言っても、伊原剛志からはバロンのゴージャスでエピキュリアン的な貴族らしさが
全くと言っていいほど感じられません。
さて、ここで有名な「降伏勧告」です。
この勧告が本当にあったのかどうかについては諸説あるようです。
硫黄島にいたが全く聞いたこともないという説や、
アメリカに実在するフィルムで、稚拙な日本語で呼びかけている音声が入っているものが
それではないかという説もあり、事実は永遠に謎のままです。
「バロン西、あなたの名誉はすでに十分保たれた。降伏してください。
我々はオリンピックの英雄であるあなたを殺すに忍びない」
バロンはまたロスアンジェルスの名誉市民に名を連ねています。
こういう放送があった、というのは、あくまでも日米合作による伝説で、
実際は単なる一般的な勧告であったのかもしれません。
しかし、バロンの旧知の映画人で、米軍の情報将校として
グアムの第315爆撃航空団に赴任していたサイ・バートレット陸軍大佐が
アメリカ軍制圧後の硫黄島に降り立った際に拡声器を用いて西に投降を呼びかけた、
という証言もあるにはあります。
大佐は、戦後、靖国神社でのバロンの慰霊祭に訪れ、涙で追悼の辞を述べています。
これが作られた美談であったかどうかはともかく、この伝説が生まれることそのものが、
この高貴な不良、一代の痛快児に、日本は勿論、
敵国のアメリカ人ですら憧憬を寄せていたということの証明ではないでしょうか。
最後に少し切なく不思議な話をしましょう。
バロン西が硫黄島で戦死した一週間後、遠く離れた東京の厩舎で、
静かに老後の余生を送っていた愛馬ウラヌスが息を引き取ったそうです。
バロンは最後のときもウラヌスのたて髪を胸ポケットに入れていました。
かれは愛馬を迎えに来たのでしょうか。
そして、かつてのように共に空を駆けていったのでしょうか。
参考:「20世紀号ただいま出発」 久保田二郎 マガジンハウス刊
『オリンポスの使徒 「バロン西伝説はなぜ生れたか」』 大野芳 文藝春秋刊
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