「クリスマスの季節が来るたびに『藤波』の乗組員たちの記憶が甦って私の心に重くのしかかります。
そして私は彼らの魂の安らぎをひたすら祈るのです。
駆逐艦藤波の松崎辰治中佐は天晴な海軍軍人でありました。
もし『藤波』とその素晴らしい乗組員たちの振る舞いが日本の人々、
とりわけ『藤波』乗組員の遺族の眼に留まることがなければ、
私は死ぬに死ねない思いを抱いています。
この文章を読んでいただいた全ての方にお願いします。
どうか私のこの願いを叶えさせてください」
これは、昭和19年10月25日に行われた比島沖海戦中、
第一遊撃部隊、栗田艦隊のサマール沖海戦で沈没した「ガンビア・ベイ」の乗員であり
生存者の一人、ポトクニアク氏が 旧海軍の第一期飛行専修予備生徒の会である
「関東海軍一生会」
あてに送ってきた手紙の一部です。
この海戦で米軍護衛空母「ガンビア・ベイ」は撃沈され、乗員約706名は海中に投げ出されていました。
そのとき米軍主力艦戴機は栗田中将率いる艦隊を追い、生存者には気付いていませんでした。
駆逐艦「藤波」は栗田艦隊の第二水雷戦隊の第32駆逐隊に属して
この海戦に参加していましたが、航行不能となった「鳥海」の乗組員を救助し、
魚雷で「鳥海」を処分しました。
「鳥海」の護衛にあたっているときから「藤波」は海中を漂う
「ガンビア・ベイ」の生存者の周囲を巡航していたようです。
「鳥海」処分後、「藤波」はガンビア・ベイの乗員の漂う海中を通り抜けます。
そのとき、
「あまたの漂流者の中から、まず同僚のルー・ライスが、
そして兵曹のバーン・カールセンと副長のバリンジャーが声をあげたのです。
我々に気付いた「藤波」の乗組員が舷側に立って手を振り、写真を撮り、
そして我々に一斉に敬礼しているのが見えました。
我々は「藤波」から機銃掃射を受けるものと覚悟していたのですが、
我々は何ら手荒なあつかいをうけなかったのです」
本日画像の「藤波」艦長、松崎辰治中佐は海軍兵学校52期卒。
同期生に源田実、淵田美津雄、猪口力平氏がおり、先日お話しした
「帝国海軍の武士道」の工藤俊作艦長は一期上。
やはり鈴木貫太郎校長の薫陶を受けた世代です。
戦った相手に敬意を表した「藤波」は、奇しくも「ガンビア・ベイ」の乗員たちが
救助されたころに艦載機に魚雷の攻撃を受け、撃沈され、
救出した「鳥海」の乗員とともに全員が戦死しました。
「ガンビア・ベイ」を撃沈したのは重巡洋艦「利根」ですが、
「利根」艦長の黛治夫大佐は、
「ガンビア・ベイ」の乗員が飛行甲板の後端に集まって
冷静に縄梯子を下りる順番を待っていた
のを双眼鏡で認めており、無用の殺傷を避けるために船体の中央を狙ったことを戦後語っています。
そしてこのような言葉を付け加えました。
「このような勇士と戦えたことは私の最も誇りとするところです」
この記述をある日ポトクニアク氏を始め「ガンビア・ベイ」の生存者が眼にしました。
このことから、彼らがあらためて自分たちが戦った日本帝国海軍の武士道精神を、
とりわけ誰ひとり語ることなく海の波間に消えてしまった「藤波」の乗員の崇高な行いを、
世界に知ってほしいとの強い思いを持ったものでしょう。
今現在、駆逐艦「藤波」のことをインターネットで調べても、このような話は全く検索にかかってきません。
この話も「ひっそりと海の底に眠っていた」ものの一つだったのです。
なぜなら、全員が海に沈んでいった「藤波」の乗組員がどのように振る舞ったかを知っていたのは
敵であった「ガンビア・ベイ」の乗員だけだったからです。
もし「鳥海」の仇打ちとして海の上の敵に対して機銃掃射をしたとしても
戦争という異常事態の中では咎められることでも、異常なことでもなかったのですが、
それでも「藤波」の松崎艦長は「海の武士道」を貫きました。
ポト二アク氏は次のように語っているそうです。
「私は世界の人々、とりわけ日本の人たちに駆逐艦「藤波」の乗組員のことを知ってもらいたいのです。
これら乗組員たちの、見事な行為を知ってほしいのです。
我々は無事に帰郷し、昭和19年のクリスマスをそれぞれの家族とともに過ごすことが出来たのです。
しかしながら、「藤波」の全乗組員は亡くなってしまいました」
この記事は、今月号の機関紙「靖國」に、アメリカ合衆国海軍協会会員である西村克也氏の名で掲載されています。
万が一、これを読まれた方の中で駆逐艦「藤波」の乗組員の御遺族、関係者がおられたら、
靖国神社内「靖国偕行文庫」までご一報をいただけないでしょうか。