今日画像に挙げたのは、ラバウル上空に8月9日飛来したB-17と空戦をする台南航空隊を描いた絵です。
林唯一画伯のスケッチ集から見つけてきました。
この絵について語る前に、従軍画家としてラバウルに行った林唯一画伯(1885-1972)についてお話ししましょう。
挿絵画家として雑誌や新聞、小説などに流麗な挿絵を描き、家庭的なモダン風俗画や抒情画を得意とした林画伯が海軍附きの従軍画家としてラバウルに派遣されたのは昭和一七年の八月のことです。
何ヶ月かの滞在のうちに、画伯は戦地での日常を随筆文とともにしたため、
「爆下に描く」と題する本を戦時下の昭和一八年一二月、出版します。
この本は現在刊行されておらず、古本でしか求めることができません。
出版に際しては当時の内閣情報局情報官である古橋才次郎海軍中佐の筆による序文が寄せられています。
画伯は絵はもとよりなかなかの文才の持ち主で、
思わずはっとするような表現で基地生活の一こまを描写しています。
古橋中佐の序文の調子にもそれは表れていますが、特に戦時下の発刊らしいと思わされるのは、
部隊名、人名、航行距離や話題にする島の名前に至るまでがイニシャルあるいは○で伏せられていることです。
台南空の司令部や坂井さんとされる搭乗員も登場するのですが、全てイニシャル。
戦後の再刊にあたって、分かる人名は傍註という形で明らかになっています。
この林画伯についてはまた紹介したいことがあるので稿を改めますが、冒頭述べた絵についてです。
この元スケッチになったと思われる本日画像にはただ「ボーイングB十七撃墜」という題が付いています。
台南空笹井中隊がB-17を撃墜したという話は、例えば「大空のサムライ」にも何度か出てきます。
しかし、この絵はほぼ確実にこの日のものである、ということが行動調書から推測することができました。
坂井三郎が傷つき、また西澤廣義がマラリアで病床にある八月九日、基地にB-17が四機現れ、
邀撃に上がった台南空と二空の零戦が交戦しました。
この空戦を、林画伯はたまたま搭乗員をスケッチしていた飛行場で間近に目撃するのです。
この空戦は高度が低いところで行われ
「編隊はふてぶてしく翼を並べ、その胴っ腹や発動機の金属の凹凸が、はっきり見えるほど頭上に迫った」
というくらいだったようです。
画伯の描く空戦の様子です。
「墜ちるのではないかと思っていると、ツと水平に還って、ボーイングの腹の下を、かい潜ってははまた、後から追いすがって行く。一機が入り代わって一機に次ぐというように、仕留めるまでは放さない攻撃を続けている」
「ボーイングの大きさに比べて、戦闘機の割合があまりにかけ離れているので、
まるで、鳶に雀が挑んでいるようである」
「見ている者がワッと叫ぶ。次の墜落の瞬間を期待して一斉に拍手が起こったが(中略)
戦闘機は、もう見失う位に小さくなっているが、時々夕日に、キラリと翼を輝かせて反転し乍ら敵機を逃さずに食い下がっているのだ」
戦地に着任してすぐこのような空戦を目の当たりにした林画伯の興奮さめやらぬ様子が
ありありと表現されています。
この日一日の台南空の行動調書は五部に分かれています。
なんと、偵察を含め5回も出撃が行われたハードな一日だったようです。
1ツラギ港索敵、敵艦船偵察
2掩護 銃撃 (隊長 河合四郎)
3ツラギ敵船団第三次攻撃
4進撃哨戒(隊長 村田功中尉以下三機による)
5進撃 交戦
この最後の空戦は河合大尉以下14機による協同撃墜によりB-17×1、と記されています。
林画伯が目撃したのはこの5回目の交戦だと思われます。
この編成は非常に変わったもので、分隊別に
1 河合大尉以下三名
2 山下大尉以下三名
3 村田中尉以下二名
4 結城中尉以下一名
5 笹井中尉
という飛び方です。
分隊の後ろに行くほど人数が少なくなっていて、5分隊は笹井中尉一人だけ。
これは、編隊を組まず笹井中尉が単独行動したということなのでしょうか。
また、画伯は二機撃墜したらしい、と書いていますが、一機は不確実だったのでしょう。
行動調書には記録されていません。
林画伯は着任早々新聞記者の芦田報道員から台南航空隊についてこのような説明を受けています。
この戦闘機部隊には、K(河合)大尉、S(笹井)中尉、K中尉、S(坂井)兵曹長などという戦闘にかけては絶対の技量を持った荒鷲が揃っていた。
S中尉はすでに九十何機、S兵曹長は七十何機という撃墜記録を作っていることを、この部隊付きの芦田報道員が私に話してくれた。
K中尉という名があります。
傍注にもこの名についての記述はありませんが、
台南空行動調書昭和17年9月10日に指揮官として『木塚重命中尉』と言う名が見えます。
この人のことかもしれませんが、陸偵で、ガダル決戦前の集団写真では、
前から三列目、一番右の人物ではないかと言われています。
(わたしは士官がこの位置にいるのはありえないと思いますが)
木塚中尉は海軍兵学校六十七期、つまり笹井中尉と同期ですが、戦没したのは大尉昇任後の二五一空。
没地は浜名地方となっています。
大空のサムライで名前を見る搭乗員はごくごく一部ということですね。
その著書で「S(坂井)兵曹長の負傷」についてはかなりくわしく記述している画伯ですが、
その直後の笹井中尉の戦死については軍機密上記事にできなかったと見え、何も語っていません。
それどころか、このころの相次ぐ搭乗員の戦死については
まるで無かったことのように触れられていないのです。
林画伯は赴任中、搭乗員に肖像画を描いて進呈したり、美人画をプレゼントしたりしていたそうですが、また慰安所に飾るための空戦の絵を描いたりもしていたようです。
その絵は今日のデッサンをもとにしたものであるかもしれません。
「爆下に描く 戦果のラバウルスケッチ紀行」 林唯一著 中公文庫刊
台南航空隊行動調書 防衛庁資料室蔵