ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

報道の意味

2010-11-29 | 日本のこと
スネークマンショーだったか、戦場で、負傷した兵士に
「痛いですか~?」
とインタビューする報道のギャグがありました。

あまりにも不謹慎なので、穏便な文句に変えてマンガにしましたが、
・・・まあ、似たようなものですね。

スネークマンショーも、この漫画も「ありえねえ」
からこそギャグ(笑えない方の)になっているのですが、マスコミの報道には、冷静に見ると
こういうシチュエーションと大差ないほどの外道なものが、それこそ数多くあります。

たとえば。

F1レーサーの片山右京氏が、富士山で遭難した事件がありました。

ご存知ない方のために概要を説明すると

南極最高峰登山のトレーニングのため富士山登山計画
山頂を目指すも天候不順のため諦めてビバーグ(←非常に正しい決定)
強風で中に人がいるままテントが飛ばされる(地震の影響も危惧される)
テントに人が入ったまま滑落(8合目付近と見られている)
事態を知った右京氏は滑落した仲間のところへ急行
しかし富士山の滑落は角度も急なため危険度大、残念ながら一名は死亡
もう一人もけがをしていて下山不能
生存者に毛布をかけ保温し、救助を呼ぶため6合目まで高度下げて通報
その後、生存者を救うため再度現場の8合目へ登る
しかし生存していたもう一名も死亡と見られる状態に
悔しいが、とにかく救助隊と合流し現場位置を知らせるため下山
下山中に救助隊と遭遇に成功、現場を知らせ「自分も救助に加わりたい」と申し出るも救助隊により却下され下山


この、下山直後のインタビューが、外道報道でした。
憔悴しきった右京氏にマイクを突き付け

「二人の最後はどうでしたか?」
「(二人を置いて)降りるときどんな気持ちでしたか?」



サリン事件のとき、路上でぐったりしている人にマイクを突き付け

「どんな匂いがしましたか」

と聞いている外道記者もいました。
ね?
画像のマンガやスネークマンショーと変わらないですよね。


「報道する義務」というより「権利」は、しばしば彼らの常識や、報道されるものの心理に思い至るだけの想像力を麻痺させるもののようです。
そして、現場での彼らは、傲慢としか言えない態度をしばしば表わします。

中川昭一氏の葬儀に参列したとき、カメラを立てた報道陣の態度に怒りを覚えました。
悲痛な顔をしている参列者のなかから「写真を撮るべき」人間を見つけ出し、バシャバシャやり始める。
それが彼らの仕事ですが、仕事で来ている彼らに他人の死に対して共感するものは何もないとはいえ、せめて敬意を払ってほしい。
こそこそ仲間内で時間潰しの談笑をする、ときどきそこから笑いが起きる。

何人かの参列者がそちらをにらんでも、蛙の面に水でした。



さて、本日このような稿を書くきっかけは、陪審員裁判で二件目の死刑判決が出たことを受けてです。

最初の死刑判決の時の報道は、皆さん目にされたことと思います。
これが人間のすることかと思われる残虐な方法でなされた殺人事件の審理中、
エリス中尉はずっとその「報道の在り方」を注視していました。

「電動鋸事件」
と言われるこの事件の審理に携わった陪審員は、当然のことながら状況を判断するための現場写真、殺害に使用された「据え付け式の鋸」の実物を目にするわけです。


全員が目を通したが、すぐに目を背ける男性や、ほかの裁判員の様子をうかがう女性も。30秒ほどで朝山裁判長が促し、回収させた。ナイフや電動のこぎりも証拠として提示されたが、すぐに下げられた。

 また、殺害現場となったホテル浴室の現場の状況について、検察官が共犯者の供述調書を朗読すると、若い補充裁判員は両手で顔を覆い、うずくまるような仕草をした。



ここで聞きたい。

こういうことを報道することによって、何を伝えたいのか。
さらに死刑を支持した判決を出した陪審員に、何のために感想を聞くのか。
「重い責任と重圧を持って判断した」
という以外の答があるとでも思っているのか。
このように、明らかにインタビューの答が決まりきっていることを、なぜあえて聞くのか。



実は、エリス中尉の身内に法曹界に身を置く人物がいます。
この陪審員へのインタビュー、たとえ顔を隠していたとしても、
「いったいどうよ」
とインタビューしてみました。答は
「よくない。絶対よくない」
とのこと。
裁かれるべき事件がセンセーショナルであるほど、法廷そのものがセンセーショナルに持ち上げられるなど、法の厳正運用と中立にとって障害となることはないと。
そもそも、守秘義務の厳正運用の観点から、今法律専門家の間でもこの報道については危惧の声が上がっている
との「中の人」の話でした。


審理の女神は手に秤を持ち、目隠しをしています。
民間陪審員制度を導入することによって、女神の眼隠しはこのような形で半分見える状態に、つまり情実が絡まざるを得ない状態になっているのではないか?
これはエリス中尉の杞憂でしょうか。

さらに言えば、こういう風になることが予想されるから、日本人には陪審員制度は無理、という意見も数多くあったのでしょうね。


死刑反対を訴える団体の主張には、犯罪者の人権を守るというもののほかに
「死刑を執行する人間の人権」
「死刑判決を出す裁判長の人権」
などもあるようです。
(彼らの主張について詳しく調べたわけではありませんので念のため)

特に死刑の執行については誰が押したかわからないようにボタンが3つある、という日本人ならではの執行官に対する配慮もあるそうです。
そして死刑に携わった人間が
「何か身内や自分に事件事故が起こるたびに、因果や祟りではないかと思う」
という考えに至るといった、日本人特有のウェットなメンタリティに対する配慮でしょうか。

法の厳正はもっともだが、残酷な死刑に手を下すことによって自らが殺人者になるのは誰もがイヤ、だから死刑は無くしましょう、というのが死刑廃止論の概要ではないかと思います。

こうやって、その「負担」をプロフェッショナルではなく市井の人々に押し付けてそれをさらに入念に報道し、「死刑廃止」へ持って行きたい、というのが
もしかしたらこの件における報道の意図でしょうか?

死刑執行の判を事務的に押した鳩山法相(当時)を「死神」呼ばわりした朝日新聞の意図は、少なくとも分かりやすくはっきりしていますよね。


穿ち過ぎですか?

穿ち過ぎて穴だらけになったついでです。
今回少年犯罪で初の死刑判決となった陪審員のうち二人が顔を出してインタビューに応じました。

「どんなに悩んで結論を出しても、被告や被害者はどちらかは納得がいかない。
一生悩み続けるんだなと思った」
「(ほかの裁判員の)皆さんも具合の悪い精神状態になったが、私自身は参加できてよかったと思います」

(もう一人は時々うつむきながら)「正直やりたくなかった。きょうの日を迎えるのがつらかった」と苦しい胸の内を吐露。評議が祝日や土日を挟んだことに触れ、「自分の意見を誰かにぶつけることができず、休日、家族や友人に会うのがつらかった」




「痛いですか~?」という質問に予想される答と大差ないくらい、想像通り、予想通りの答ですね。


これを予定調和と言わずして何と言うのででしょうか。
もっとも件の法曹関係者は
「何年かしたら報道する方もされる方も飽きるから、こういう事態は収まっていくのではないか。
『需要があるから供給する』という図式に則っているだけだから」」
とのこと。


そのときまでに守秘義務違反に絡んでたぶん一度は問題が起きると思います。