もと海軍軍人の方の口から実際にラバウルの話を聞くと、かなりの確率で
「ラボール」
と発音されるのをご存知でしょうか。
この映画でも何人かは「ラボール」と言っています。
しかし、唄における
「さらば ラバウルよ」
は、ラボールではリズムに乗らないので、「バ」が人口に膾炙したのだと思います。
文章で読むだけの海軍と、こうやって実際のものではないにせよ音声と動画で見る海軍には大きな違いがあります。
たとえば、無線連絡で
「若林大尉、菅井隊長に代わり指揮を取るぅ(尻あがり)
指揮官機は若林
マルヤフタゴー、帰路に着くぅ(尻あがり)」
という、独特のイントネーションを聞くと、
ああ、そうだったんだ、と納得して嬉しくなる、というような。
・・・・と、どうでもいい考察から始まりましたが、
この映画、1954年作品。白黒です。
画像は主人公の若林大尉。(池部良)
この池部良の輝くような男っぷりがそうであるように、美男美女総出演の感がある映画で、中でも
片瀬大尉役の三國連太郎など、目を見張るような男前ぶり。
(この髭の三国連太郎を見て、自民党の「元自衛隊、髭の隊長」佐藤正久議員って、イケメンだとあらためて思いました。似てます)
主役級の俳優、女優は、正統派美男美女でないとなれなかった頃です。
若い中尉役の平田昭彦は、後年特撮ものには「博士役」で顔を出していた特異なキャラクターで有名な俳優ですが、この頃は繊細な長髪の士官がぴったりはまる正統派ナイスボーイ。
またまた勝手なことを言いますが、もしかしたら実在の笹井中尉ってこんな?と思わせる雰囲気です。
映画化したら俳優は誰に、という妄想を時おりしてきましたが(大空のサムライの志垣太郎は私的にはミスキャスト)現在この段階では若いころの平田昭彦で決まり。
しかし、この時から27年後の映画「連合艦隊」で瑞鶴飛行隊長役の平田昭彦は、ほっぺたが宍戸錠化しており、少し残念。
笹井中尉役は27歳の平田昭彦に限る、ってことで。
それにしても、ずっと「男前」を続けるのって、大変なことなんだなあ・・・。
鶴田浩二がいかにすごかったかがわかる。
特撮監督が、こののちゴジラで有名になる円谷英二。
もちろん、今見たらかなり厳しい映像ですが、当時にしては画期的だったのかと。
「東京上空三〇分」
と比べても全く遜色ない特撮です。
監督、本多猪四郎は、このあと共に「ゴジラ」をヒットさせ、さらに怪獣シリーズや帰ってきたウルトラマンなどを手掛けていますから、このときのスタッフ、俳優がそのままチームのように監督の下に集結したものでしょう。
舞台は、最強の精鋭が一人二人と戦死し、もはや戦闘機すら無くなって誰の目にも劣勢が明らかになってきた、撤退寸前のラボール。
非情ともいえる闘志で「オニ」とあだ名されたパイロット、若林大尉を中心に話は展開します。
決して恋愛中心のストーリーではないのですが、各搭乗員に
「現地(カナカ族)の娘(根岸明美)」―野口中尉(平田)
「部隊附きの従軍看護婦(岡田茉莉子)」―若林大尉(池部)
「ラバウルのレスのおかみ」―片瀬大尉(三國)
といった女性を絡ませ、各々とのかかわりを通じて、戦争に命を翻弄させられる彼らの生きざまを描いています。
いきおいそれが命を粗末にする戦争への批判とと結びつく、という作りとなっています。
日本軍の生命軽視については、撃墜された米軍の「イエロースネーク」というあだ名の凄腕パイロットにこう言わせています。
「ゼロは一千万馬力の発動機を有する世界一経重量の旅客機にすぎない
優秀な攻撃兵器だが全然防御力が無い
軍人の思想までがことごとく人命軽視の上に立っている
人間の生命の重要さを考えないような国家が
戦争に勝てるはずがない」
「鬼司令」と言われ、敵のイエロースネークも敬意を表したこの若林大尉が一〇年のキャリアを誇るのに比べて、イエロースネークが「まだ飛行機に乗って間もない、冷蔵庫のセールスマンだった男」であることに、大尉はショックを受けます。
零戦の機能を最大限に発揮できたのは熟練の搭乗員に限られた、というある意味最大の「欠点」であった事実への指摘にもなっています。
さきほども言ったように、決して恋愛ものではありませんが、この時代における男女の「思っていても口にできない」気持ちを、痛いほど感じさせるのが、この映画の素晴らしいところ。
この14年後に作られた映画「大空のサムライ」
についてもまた描く予定ですが、何故かいきなり男女が伏線も何にもないのに抱擁し合う。唐突すぎるのです。
(映画の商業的目的のためにこうせざるを得なかった、と脚本家の須崎氏はインタビューで言っています)
しかし、当時の戦地での男女はこの若林大尉と看護婦のすみ子のようであって欲しい。
命の瀬戸際で半ばデスぺレートに相手を求めたのが「サムライ」なら、こちらは最後かもしれないから純粋であろうとした愛の形。
「あってほしい」
というのは、もちろんエリス中尉の「好み」
ですので念のため。
この二人が魅かれあっている、ということすら明確に描かれません。
星の話をし、片瀬大尉の最後を見守るくらいです。
しかし、お互いが眼だけでそれを語るわけです。
終盤、内地に女たちが引き揚げる船に乗り込む寸前に、大尉は見送りに現れます。
すみ子の持っているトランクに手を添える若林大尉。
そこで手の端を辛うじて触れ合わせながら、二人は黙って歩きます。
若林「お気をつけて」
すみ子「・・・生きてください」
二人の会話はこれだけ。
この後、輸送船を狙って脱走したイエロースネークの機が現れ、大尉はすみ子の乗った輸送船を守るために飛び立ち、撃墜したものの機の故障で命を落とします。
今の感覚で判じると、セリフ回しが「棒読み」に聞こえるのですが、昔のインタビューなどを聞いても分かるように、この頃の日本人のしゃべり方は明らかに今とは違う、どちらかというと平板なしゃべり方をしていたので、演技が稚拙とか、そういうことではないと思います。
しかし、その中での三國連太郎の演技のうまさは特筆すべきものがあります。
劇中「さらばラバウルよ」の歌が二回出てきます。
一度目は兵士の宴会、そして、最後にラバウルを去りゆく女たちの合唱。
男たちのラバウル、女たちのラバウル、という二つの骨子が劇のストーリーを支えているということの表現でしょうか。
それから、岡田茉莉子の天使のように純真な美貌は必見。
戦後わずか九年の製作なので、まだまだ当事者が健在だったせいか、熱いラバウルで全員が毛皮のついた飛行帽をかぶっているような(映画大空のサムライ参照)こともなく、細かいところではかなり検証が正確なように思えます。
ちなみにに笹井中尉役適任、と決めつけた平田昭彦。
陸軍幼年学校、陸軍士官学校(60期)を卒業しています。
戦後、旧制第一高等学校を経て、東京大学法学部政治学科卒。
陸士での同期には中條高徳(アサヒビール株式会社名誉顧問)がいました。
また、東大での親しい同期には児島襄(作家)がいるそうです。
もうひとつ。
三國連太郎の実の父は、海軍士官であった、ということです。
「ラボール」
と発音されるのをご存知でしょうか。
この映画でも何人かは「ラボール」と言っています。
しかし、唄における
「さらば ラバウルよ」
は、ラボールではリズムに乗らないので、「バ」が人口に膾炙したのだと思います。
文章で読むだけの海軍と、こうやって実際のものではないにせよ音声と動画で見る海軍には大きな違いがあります。
たとえば、無線連絡で
「若林大尉、菅井隊長に代わり指揮を取るぅ(尻あがり)
指揮官機は若林
マルヤフタゴー、帰路に着くぅ(尻あがり)」
という、独特のイントネーションを聞くと、
ああ、そうだったんだ、と納得して嬉しくなる、というような。
・・・・と、どうでもいい考察から始まりましたが、
この映画、1954年作品。白黒です。
画像は主人公の若林大尉。(池部良)
この池部良の輝くような男っぷりがそうであるように、美男美女総出演の感がある映画で、中でも
片瀬大尉役の三國連太郎など、目を見張るような男前ぶり。
(この髭の三国連太郎を見て、自民党の「元自衛隊、髭の隊長」佐藤正久議員って、イケメンだとあらためて思いました。似てます)
主役級の俳優、女優は、正統派美男美女でないとなれなかった頃です。
若い中尉役の平田昭彦は、後年特撮ものには「博士役」で顔を出していた特異なキャラクターで有名な俳優ですが、この頃は繊細な長髪の士官がぴったりはまる正統派ナイスボーイ。
またまた勝手なことを言いますが、もしかしたら実在の笹井中尉ってこんな?と思わせる雰囲気です。
映画化したら俳優は誰に、という妄想を時おりしてきましたが(大空のサムライの志垣太郎は私的にはミスキャスト)現在この段階では若いころの平田昭彦で決まり。
しかし、この時から27年後の映画「連合艦隊」で瑞鶴飛行隊長役の平田昭彦は、ほっぺたが宍戸錠化しており、少し残念。
笹井中尉役は27歳の平田昭彦に限る、ってことで。
それにしても、ずっと「男前」を続けるのって、大変なことなんだなあ・・・。
鶴田浩二がいかにすごかったかがわかる。
特撮監督が、こののちゴジラで有名になる円谷英二。
もちろん、今見たらかなり厳しい映像ですが、当時にしては画期的だったのかと。
「東京上空三〇分」
と比べても全く遜色ない特撮です。
監督、本多猪四郎は、このあと共に「ゴジラ」をヒットさせ、さらに怪獣シリーズや帰ってきたウルトラマンなどを手掛けていますから、このときのスタッフ、俳優がそのままチームのように監督の下に集結したものでしょう。
舞台は、最強の精鋭が一人二人と戦死し、もはや戦闘機すら無くなって誰の目にも劣勢が明らかになってきた、撤退寸前のラボール。
非情ともいえる闘志で「オニ」とあだ名されたパイロット、若林大尉を中心に話は展開します。
決して恋愛中心のストーリーではないのですが、各搭乗員に
「現地(カナカ族)の娘(根岸明美)」―野口中尉(平田)
「部隊附きの従軍看護婦(岡田茉莉子)」―若林大尉(池部)
「ラバウルのレスのおかみ」―片瀬大尉(三國)
といった女性を絡ませ、各々とのかかわりを通じて、戦争に命を翻弄させられる彼らの生きざまを描いています。
いきおいそれが命を粗末にする戦争への批判とと結びつく、という作りとなっています。
日本軍の生命軽視については、撃墜された米軍の「イエロースネーク」というあだ名の凄腕パイロットにこう言わせています。
「ゼロは一千万馬力の発動機を有する世界一経重量の旅客機にすぎない
優秀な攻撃兵器だが全然防御力が無い
軍人の思想までがことごとく人命軽視の上に立っている
人間の生命の重要さを考えないような国家が
戦争に勝てるはずがない」
「鬼司令」と言われ、敵のイエロースネークも敬意を表したこの若林大尉が一〇年のキャリアを誇るのに比べて、イエロースネークが「まだ飛行機に乗って間もない、冷蔵庫のセールスマンだった男」であることに、大尉はショックを受けます。
零戦の機能を最大限に発揮できたのは熟練の搭乗員に限られた、というある意味最大の「欠点」であった事実への指摘にもなっています。
さきほども言ったように、決して恋愛ものではありませんが、この時代における男女の「思っていても口にできない」気持ちを、痛いほど感じさせるのが、この映画の素晴らしいところ。
この14年後に作られた映画「大空のサムライ」
についてもまた描く予定ですが、何故かいきなり男女が伏線も何にもないのに抱擁し合う。唐突すぎるのです。
(映画の商業的目的のためにこうせざるを得なかった、と脚本家の須崎氏はインタビューで言っています)
しかし、当時の戦地での男女はこの若林大尉と看護婦のすみ子のようであって欲しい。
命の瀬戸際で半ばデスぺレートに相手を求めたのが「サムライ」なら、こちらは最後かもしれないから純粋であろうとした愛の形。
「あってほしい」
というのは、もちろんエリス中尉の「好み」
ですので念のため。
この二人が魅かれあっている、ということすら明確に描かれません。
星の話をし、片瀬大尉の最後を見守るくらいです。
しかし、お互いが眼だけでそれを語るわけです。
終盤、内地に女たちが引き揚げる船に乗り込む寸前に、大尉は見送りに現れます。
すみ子の持っているトランクに手を添える若林大尉。
そこで手の端を辛うじて触れ合わせながら、二人は黙って歩きます。
若林「お気をつけて」
すみ子「・・・生きてください」
二人の会話はこれだけ。
この後、輸送船を狙って脱走したイエロースネークの機が現れ、大尉はすみ子の乗った輸送船を守るために飛び立ち、撃墜したものの機の故障で命を落とします。
今の感覚で判じると、セリフ回しが「棒読み」に聞こえるのですが、昔のインタビューなどを聞いても分かるように、この頃の日本人のしゃべり方は明らかに今とは違う、どちらかというと平板なしゃべり方をしていたので、演技が稚拙とか、そういうことではないと思います。
しかし、その中での三國連太郎の演技のうまさは特筆すべきものがあります。
劇中「さらばラバウルよ」の歌が二回出てきます。
一度目は兵士の宴会、そして、最後にラバウルを去りゆく女たちの合唱。
男たちのラバウル、女たちのラバウル、という二つの骨子が劇のストーリーを支えているということの表現でしょうか。
それから、岡田茉莉子の天使のように純真な美貌は必見。
戦後わずか九年の製作なので、まだまだ当事者が健在だったせいか、熱いラバウルで全員が毛皮のついた飛行帽をかぶっているような(映画大空のサムライ参照)こともなく、細かいところではかなり検証が正確なように思えます。
ちなみにに笹井中尉役適任、と決めつけた平田昭彦。
陸軍幼年学校、陸軍士官学校(60期)を卒業しています。
戦後、旧制第一高等学校を経て、東京大学法学部政治学科卒。
陸士での同期には中條高徳(アサヒビール株式会社名誉顧問)がいました。
また、東大での親しい同期には児島襄(作家)がいるそうです。
もうひとつ。
三國連太郎の実の父は、海軍士官であった、ということです。