思えば昭和19年1月31日、ギラギラ太陽の燃える紺碧のラバウルに入港、
官邸山の海軍病院で、マラリアの高熱のために死の苦しみを味わっている私を乗せて、
連れ帰ってくれたのが彼女であった。
白衣のまま患者バスで運ばれ、着いた桟橋は
三か月前に「夕張」からダイハツに乗り上陸した所だった。
そこで初めて沖に停泊している氷川丸を見た。
青い海に浮かぶその姿は、全身、眼に痛いくらい白く、
船腹と煙突に赤い赤十字マークを付けていた。
その姿は気高く、生きて帰れる安堵感を覚えた。
ラバウルから負傷し日本に帰ってきたある兵が見た病院船氷川丸の姿です。
「白鳥」と言われたその姿は、傷病兵の目にはあくまでも優雅で美しく、
まるで傷にしなやかな白い手で触れて癒してくれる聖母のように映ったに違いありません。
もう震災前のことになりますが、横浜の氷川丸繋留地に彼女を訪ね、見学をし、
「豪華客船氷川丸」「グルメ客船氷川丸」という記事を書きました。
しかし、肝心の「病院船としての氷川丸」について書かないまま、震災になってしまいました。
あらためてそのときに撮った写真と共に「白鳥」と呼ばれた病院船氷川丸について語ってみます。
氷川丸について書かれた本のほとんどは、病院船として使用されていたころに、
海軍軍医として、そして船長として赴任していた元軍人のものです。
遠洋航路の豪華客船として文字通り船出した氷川丸が、
その数奇な生涯ゆえ、今日も最も有名な船となっている理由の一つが、
病院船として激戦の海を生き抜いたことにあります。
国際法では病院船を攻撃することは違法です。
しかし、氷川丸が病院船として、そのペイントを白に変え、
大きな赤十字を付けたときに船長だった軍医が
「赤十字が敵から認識できるように、ライトアップもしたが、まだ心配だった」
と語る通り、赤十字を付けていても敵から狙われないというわけではありませんでした。
機雷に接触するという事故も数多くあり、海軍の牟婁丸始め、
陸軍の病院船のほとんどは戦時中に没しています。
なかでも陸軍病院船らうる丸の沈没は、
明らかに敵航空機の国際法を無視した攻撃によるものだったため、
日本側はこれを戦争犯罪として提訴しています。
姉妹船で、特別潜水母艦として徴用された日枝丸、平安丸
(三姉妹は皆Hの頭文字で統一されていた)も例外ではなく、相次いで戦没する中、
機雷に接触、潜水艦からの攻撃、と三度にわたる危機からも生還を果たし、
氷川丸は「奇跡の幸運艦」とまで呼ばれたのでした。
大傷は補液に苦労した。
血管がいいのが見つからなかったためである。
又神経終末が露出された形であるから、当然疼痛が強く、
リバノール肝油、硼酸ガーゼを交換するとき、乾燥したガーゼを剥がさざるを得ず、
患者さんは私の白衣の袖にすがりつき「畜生!」と叫んでいたのは、
私に対し、もっと痛くなくやれということか、敵に対する怒りなのか、
耳に残る言葉であった。
壮絶な船上における治療の様子の片りんを伝える、当時の軍医の証言です。
ラバウルなどの戦地から傷病兵を運び、治療を施しながら航行していた氷川丸ですが、
航路途中で治療及ばず死亡する将兵は多数いました。
軍艦で戦死した兵は、海軍旗に包まれた滑り台から、海中に弔砲と共に滑り落とす
「海葬」をするのが倣いですが、病院船ではそれは行いません。
遺骨を持ち帰る必要があったためで、驚くことに氷川丸のボイラーでは
死体の火葬が行われていたというのです。
このことに触れているのは、氷川丸について書かれたいくつかの本の一つだけで、
それが行われたのは「船尾付近」としか書かれていないのですが、
この話を読んでからたった一人で暗い機関部分を見学するのは、正直少し怖かったです。
というのも、当時の乗組員の間では
「海軍の病人用の患者衣を着た人影が、船尾付近の暗がりに立っていてすっと消えた」
といった幽霊話がまことしやかに語られていたそうで・・・・・・。
伝声管。どんな言葉がここから発せられたのでしょうか。
ところで、何故お互い国際法違反覚悟で、
病院船に攻撃を加えるというようなことが起こったのでしょうか。
その理由は、病院船でありながら悪質なものは偽装であったり、
病院船として機能していても、こっそり武器や燃料、
あるいは戦闘員を運搬させている可能性もあったからです。
狙われない、ということを利用してこれらを病院船で運搬するケースが、
相方にあったということです。
この点についての氷川丸に公的に残されている逸話は下のようなものです。
第24根拠地隊の参謀がやってきて、
次の寄港地、チモール島のク―パンまで高射砲を運んでくれという。
国政法によって運べないと断ると、
おまえらは国賊だと、軍刀を掴んでもの凄い剣幕。
そこで困って、連合艦隊司令部宛て電報を打ったところ、
まかりならん、と強い調子の返答が来た。
参謀はすごすご帰って行ったが、
こちらは期待通りの司令部の命令だったのでほっとした。
司令部も氷川丸も、国際法違反は一切しなかった、と、そういうことになっています。
表向きは。
実は、今回読んだ氷川丸についてのいくつかの本の中に、こんな記述がありました。
氷川丸が横浜から戦地に向かう往路、徹底した水の節制を申しつけられた、
というものです。
病院船であるから勿論水はふんだんに積めるわけで、
現に可能ぎりぎりまで往路には積んでいたのですが、それにもかかわらず、
船員が異常に思うくらい水の使用を禁じられたのだそうです。
筆者も(軍医)それを訝しく思っていたのですが、
あるときその隠された意味に気付き暗然とした、とかれは書いています。
日本を出港するときから喫水線をある程度沈めて、
平常の喫水値を偽装することによって、
実は戦地から戦地へ燃料を輸送していたのではないかということに。
敵は、喫水線の上下から余計なものが積載されているかどうかを判断します。
例えば陸軍の病院船橘丸のように、
ひそかに兵員を積んでいることが喫水線から疑われ、
臨検されて拿捕された船もあります。
氷川丸は、実は水を必要以上に積載して巧妙に喫水線を偽装していたのではないか、
とその船長は理解したということなのですが、公式にその話はどこにも出てきません。
白鳥と呼ばれ、傷ついた兵士たちの目に憧れを以て迎えられた氷川丸。
実はやむなくそのような仕事を引き受けていたかもしれない、
その白い手が汚れていたかもしれないと証明することは、
この奇跡的に戦火を生き抜いた聖母の名誉を冒涜するに等しいと
後世が判断した故でしょうか。
冒頭写真
概要 ja:日本海軍 特別病院船『氷川丸』
en:Japanese auxiliary hospital ship Hikawa Maru
日付 unknow (wartime)
原典 ja:潮書房 丸スペシャル No.53『日本の小艦艇』66P
en:The Maru special No.53 Japanese support vessels
作者 ja:日本海軍
en:Imperial Japanese Navy