台北から車で二時間。
ちょうど台湾の島のど真ん中、おへそのような位置に、日月譚という湖があります。
今回、元旦明けからこのリゾート地にある「ザ・ラルー」に滞在しました。
洗練されたインテリアとサービスで日本人に大人気の高級ホテルです。
日月譚という湖そのものが、日本という国に大いに関係があります。
昔、日本統治時代までは、このあたりは現住のサオ族だけがひっそりと住む秘境でした。
鳥居博士の研究からはじまり、もともと黒い部分だけだった湖を斜線の部分まで広げ、
水力発電のダムを当時の統治政府が建設しました。
黒い部分だけ見ると、日月譚という名前の由来である
「日の部分」「月の部分」が今よりはっきりしているのが判りますね。
ザ・ラルーの場所にあった涵碧樓 は、統治時代の日本人高官の保養所として人気でした。
中華民国建国後、ここは蒋介石の避暑用別荘として使われていたそうです。
吉田茂元首相や、当時の皇太子殿下も訪れた模様。
ホテル敷地内には当時の建物が保存され、記念館として残されており、
蒋介石の使用した家具や、このような歴史を学ぶ資料を見学することができます。
本物の火の燃える暖炉がついた部屋は、アジアン・モダン。
この前日、31日、6割の宿泊客が日本人だったそうです。
TOは一人で行ったバーのウェイトレスに筆談で日本語の教授をしてあげたのですが、彼女に
「何故日本人はここが好きですか?」とマジで聞かれたそうです。
ビーチリゾートのように西洋人、特にアメリカ人はめったに来ない観光地で、
本土から来た中国人、台湾人、そして日本人というのが客層の全てのようです。
着いてすぐ、お昼を食べそこねたので、水上茶屋のようなところで軽く飲茶をいただきました。
池に鯉がいたので「餌やりたいんだけど」と言ってみると、売ってくれたお洒落な鯉の餌、50円。
左は餌を投げたとたんピラニア化する鯉の皆さん。
右は頭に日の丸を付けた、小ぶりな鯉。「日本くん」と名前をつけました。
日本人のよしみ、日本くんの前に餌を投げて食べやすいように贔屓してあげたのですが、
日本くん、大国主義の弱肉強食な皆さんが水面から身体を乗り出して餌をむさぼり食い出すと、
下の方にすーっと沈んでしまい、他魚を押しのけてまで食べようとしません。
「あーもー、何で食べないの日本くん!」
「そんなんじゃこの世界で生きていけないよ~!」
日本くんには全く余計なお世話な檄を飛ばすお節介な日本人観光客。
昨今の草食系日本男子のように生存意欲に欠ける日本くんです。
鯉にも性格があるんでしょうが、そのせいで日本くん、他の鯉より小柄でした。
それでも鯉は鯉。(←これが言ってみたかっただけで深い意味は無し)
夜は和食のお店に鉄板焼きを食べに行きました。
日本の鉄板焼き屋のように、客の前に料理人が現れ、挨拶の後会話の一つもしながら、
ずっと最後まで焼きつづけたり、ましてやベニハナのように包丁をジャグリングしたり、
玉ねぎの富士山に火を付けて煙を出させて見たり(本当にするんです)はしません。
眼の前で焼いているのに、焼きあげたらウェイトレスに運ばせるのが中華式。
料理人の口元をご覧ください。
顎のところで軽く支えられた透明のプラスチック製唾液飛散防止マスク。
ここは調理人が全員これを着用して料理しています。
潔癖症の多い日本でもこれは見たことがありませんが、顔を隠してしまうこともなく、
着用している人の不快感も(多分)なく、そのうち日本に上陸するかもしれませんね。
ここの板長さんは台湾人で、和食を横浜で修業した人です。
挨拶に出てきて日本の想い出を語ってくれたのですが、そのうちかれが今チンタオ(中国の)
のホテルに板長として呼ばれているのだが、という話になりました。
「でもねえ、ワタシの友だち、何人か行って、みなやめて帰ってきた。
みな、合わない、っていうんです。中国人と。
言葉は通じますが、何と言うか・・・、違うんですよ。人を信じるとか、そういうことが」
うーむ、中国4千年の血で血を争う王朝の興亡を繰り返し、
自分以外は誰も信じないというメンタリティがDNAにすでに組み込まれている大陸の中国人は、
「騙されるものが馬鹿」「人を蹴落としてでも自分は生き残る」といった、
徹底的な利己主義がその性格の特徴を形作っているとよく言われますが、
同じ中国人でも民主化された台湾と大陸もすでに相容れないものがあるのでしょうか。
「それは、裏切るのが平気、とか、自分のことしか考えない人間が多い、とか?」
「そうです」
思いきって言って見ました。
「もしかしたら、そのあたりは日本人と台湾人の方が近いのかもしれませんね」
「そうそう。わたしそう思います」
その昔、台湾の人々も、日本に統治されているということは民族の誇りからいっても、
心から歓迎するべきことではなかったはずです。
一部、統治に反対する一派もあり、当然ながら抵抗運動もありましたし、
一般においても彼らが日本人と全く同じ扱いを受けたかというと、決してそうではありませんでした。
したがって被差別意識も色濃くありました。
ですから、戦後、蒋介石の中華民国建国の際、人々は独立の喜びに熱狂しました。
しかし、ほどなくこんなことがささやかれ始めます。
「アメリカは、日本には原爆を落としたが、台湾には蒋介石という爆弾を落として行った」
戦後の政府があまりに酷かったので、人々は「日本の方がずっとましじゃないか」と、
統治時代を懐かしみだしたのでした。
それを親日と言っていいのかどうか、あくまでも比較の問題なのでためらわれるところですが、
少なくとも台湾の人々は日本のしたことを良い点も悪い点も公平に受け止めるだけの、
冷静さと度量があったということなのでしょうか。
今滞在している日月譚を作ったのは、実は日本であったわけですが、
この話はちゃんと調べれば(ホテルの資料館にももちろん)詳しく史実として残されており、
同じ被統治国でも「日帝時代の残渣」を全て隠匿するだけでなく、
あたかも民族抹殺があったかのような史実改ざんをする朝鮮のようなヒステリックな歴史観は、
台湾においては全くありません。
ただ、台湾も一筋縄ではいかない「流れ」があるようで、「日本が日月譚を作った」とは、
この日月譚を説明するとき一般向けのパンフレットには明記されていない、というのも現実です。
しかも、日本語のパンフレットにもダム、鉄道、駅を作ったのは日本であると書きながらも
「日本の暴力的な統治に耐えきれず原住民は日本人を殺すなどの抵抗があり」
などと、抗日記念碑を観光案内しているのです。
「日本人が何故たくさんくるかって?それは日本が統治時代ここをつくったからじゃないの?」
と、ホテルのお嬢さんにそれを聞かれたTOに逆に聞いてみると、
「そんなことみんな知って来るかなあ?」
「まあ、知るわけないか。台湾人は知ってるのかな」
「それはみな知ってるでしょ。日本の作ったもの壊さないでみんな保存してる国だから」
統治時代、日本政府は最高学府の台北帝国大学を始め、学校を作り、
子供に「教育勅語」を日本語で暗唱させました。
台湾の老人には、いまだに教育勅語を全部そらんじて言える人がいるそうです。
「父母に孝行し兄弟仲良く、夫婦仲睦まじく」
「友人とは信じあい、行動を慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ」・・・
こういった精神的な訓育が、もしかしたら「中国人より日本人に近い」と言うべき台湾人の
メンタリティの一部になってはいないかと、日本人としては思ってみたりもするのですが。