いつぞや息子の宿題でジオラマ作りに奔走していると書きました。
その後どうなったか気にしている人はよもやおられますまいが、
本日の内容にアップする適当な写真が見つからなかったので完成写真をアップします。
渾身の作品、親も子も大変でしたが、実に良い想い出になりました。
ちなみに、火山から出ている噴煙の色は、わたしのアイブロウの粉を使用しました。
評価はA。
「なぜA+じゃないっ?」
と、今までなんの文句も提案も学校側の教育に関してしたことのないエリス中尉、
今回ばかりは黙っていられず(←親馬鹿)
「なぜAなのか聴いてきて!」
息子が聞いてきたところによると
「グレーシャー(氷河)だって。絶対に島にはグレーシャーって存在しないって言われた」
・・・・・よくわかりました。
でも、学校に優秀作品として飾られることになったので、まあ努力のかいあったといってもいいかと。
さて本題。読書するということ。わたしと読書。わたしの身体を通り過ぎた本たち。
まるでカルチャーセンターの「エッセイを書こう」というクラスで提出する課題のようなタイトルです。
(最後のは勿論不採用で)
以前、読者の方から「いつか、どんな本を読んできたか書いてほしい」というリクエストを頂きました。
もうかなり前のことで、その方が読んでくださっているかどうかもわからないのですが、
今日は何となく読書についてお話ししてみます。
だからといって、あれ読んだこれ読んだどう思った、のぺダンチック自慢大会ではありませんので、
どうぞご安心ください。
高校生の時。
倫理社会のトクダ先生が、ある日テストのお報せをしました。
「今配ったプリントには、古今東西、名作と言われている作品のタイトルと、作者が書いてある。
この全てを覚えてこい。試験は2週間後行う」
そのプリントには、チョーサー、シェイクスピア、ドストエフスキーはもちろんのこと、
紅楼夢やトーマス・マン、マルキ・ド・サドやナボコフの「ロリータ」にいたるまで、
「これだけ読めばあなたもいっぱしの読書家リスト」とでもいうべき本が書かれていました。
ざわめくクラスメート。
そのざわめきはほとんどが不満を訴える響きで
「何でまた」「こんなものを」「覚えなくちゃならないんだ」「この受験勉強で大変な時に」
と、中にはこのような呪詛さえ含まれているようでした。
受験校でもあったので「倫理社会の時間はノート取るふりをして英単語記憶」なんて輩が必ずいたものです。
こういうのを内職と称していたのですが、こんなことがありました。
当時から思想に興味を持っていたエリス中尉、哲学体系の授業の際、非常に熱心にノートを取り、
その甲斐あって試験は満点、
年度末になって意気揚々と成績表を開いたならば、すれすれの及第点評価。
「なんでっ」
あれほど熱心に講義を聞いたこのわたしに対し、なぜこんな低評価が。
今でこそ息子のジオラマがなぜA+でないのか聞きたださせる程度には度胸もありますが、
当時は花も恥じらう女子高校生。先生に文句などとても言えず。
全くふに落ちないまま卒業して、ある日このことを考えていて気付きました。
「あいつ(倫理社会のヤマシタ)、ノートを取っているのを内職だと決めつけたんだ」
はたとひざを打ったときにはすでに卒業後。
文句を言おうにも、もうどうしようもありません。
何か、ほぞをかむ思いで、
「もしヤマシタに道で会うようなことがあったら、絶対文句言ってやる」
と拳をにぎったのですが、以降幾星霜、ヤマシタ先生と道で逢うこともないまま、
今ではすっかり顔を忘れてしまい、たとえすれ違ったとしても気付かないでしょう。
しかしねえ。
ヤマシタ先生、あんまり生徒を見くびらない方がいいと思うよ。
自分の授業を熱心に聴いているのか、他の勉強をしているのかくらい、見分けろよ。
自分の講義が大したもんではない、ってことをそれじゃ自分が認めているようなものじゃないですか。
長すぎる閑話休題。これはドストエフスキーの長編によく見られる特徴ですね。
テストに話を戻します。
「何か質問は?」
挑戦的にクラスをねめ回すトクダ先生。
その目がわたしに留まります。
その目、お前には絶対言いたいことがあるだろ?そうだな?
では、ご期待にお応えして。
「これをただ棒暗記することにどんな意味があるのですか?
読みもしない本の題名と作者を知っていても、何の意味もないと思います」
ソウダ!という掛け声。
クラス全員が大きくうなずいたような同意に包まれました。
しかし、トクダ先生の、
ああ、この質問、待ってたぜ!ピンポイントいただきーっ!みたいな、
我が意を得たり感満載の満足げな即答に、エリス中尉は
「嵌められた・・・・」
と思わず再びほぞを噛んだのでございます。
「もっともな質問です」先生は意気揚々と続けました。
「意味があるか、というと、今の段階では、無いでしょう。
時間の無駄だ、とみんな思うかもしれません。
しかし、あなた方のこれからの長い人生には必ず役に立ちます。
丸暗記でも、こういうタイトルで、こういう作者の作品がある、と覚えていれば、
いつかそれが手にとって読もうと思うきっかけになるでしょう。
このリストは、今日明日ではない、いつか、でいいから、一生のうちどこかで読むべきリストです。
なぜなら、これは古典だからです。
古典とは、時間に磨かれて、長い間人々の鑑賞に耐えうる力を持っています。
人類の知恵とも言うべきこれらの作品のタイトルだけを知っていたとしても、
全くそれが損になることは無いとわたしは思っています」
トクダ先生は、こんなに滔々とではないにしろ、このようなことを語りました。
勿論、わたしはその言葉にひどく納得しました。
読んだことのある作品も多かったこともあって、その試験では満点をマークしたと記憶します。
そして、高校を卒業し、大学生になりました。
最も人生で時間があって、好きなことをしていればよかったあの時代、
周りにドストエフスキーやトルストイについて語れる友人が数人いたこともあり、
仲間内で競い合うようにして名作を読破していったものです。
音楽仲間ですから、ベートーベンの実存やサルトル、ニーチェの名言について、
音楽とかかわることを主なテーマに形而上的な議論を交わし、
壮大な時間のむだ遣いの中に遊ぶ毎日でした。
時間こそ無駄に遣いましたが、その間に考えたことや読んだものは、一見何の痕跡もないようで、
人生を歩むその行程において、思考や決定、そして自分が物事を述べるときの論理の組み立てや、
その導き出す結論に、少なからず影響を与えているように思うのです。
「トクダ先生の作品リスト」は、そんな読書三昧期にも、
決して捨てられることなく、なんとなくですが手許にいつもありました。
いつの間にか一つずつリストを塗りつぶして、いつか全部読むことを自分に課していたのです。
一度、テレビは見ない、と言いました。
いい作品も下らない番組も含め、テレビという媒体から「ただ受動するだけの情報」は、
畢竟「作り手の積み重ねてきたもの、この場合読んできたものの結実であり残渣である」
ということに気づいてから、その情報はあくまで自分の価値観を変えるものではなく、
自分の蓄積してきたものと並列に位置するべきだ、と結論付けたのです。
つまり、テレビによって得られるのは所詮伝言ゲームで誰かに教えてもらう「情報」にすぎないと。
(科学系の番組のことは今はさておきます)
簡単に言うとテレビの「坂の上の雲」は番組として非常に面白い。上質なドラマです。
わたしも前シリーズは全部DVDを借り、今回の放映もかなり無理をして観ました。
しかし、それは上質なエンターテイメントとしての「ファン」(楽しみ)であります。
「誰かが原作の『坂の上の雲』を読み、あのような理解で作り上げたもの」です。
楽しみとして観るのは大いに結構だが、あの番組から作者司馬遼太郎の真意を読み取ったり、
あれを見て歴史を知ったような気になるのは間違いだということです。
特に歴史に関してはNHKというテレビ局は意識的に「我が局の思うところの歴史観」を、
さりげなく、このようなエンターテイメント作品に刷り込んできます。
先日、何日間かにわたって「真珠湾からの帰還」の捏造を糾弾してきたのも、
結局は「我が局の導きたい結論」に無理やり導くNHKの態度が目に余ったからです。
そして、どことはいいませんが、この「坂の上の雲」においても、原作にない歴史的断罪や、
司馬が言及していない描写をわざわざ盛り込んでいるのがかなり目につきます。
NHKのすることを盲目的に信じてしまう「親方日の丸放送の権威」に弱い方々など、
何の疑問も無くそれを取り入れてしまうことを承知のうえでのサブリミナルだと感じました。
それはともかく、本を読むことが血や肉を作るものであるとすれば、
テレビによって得る情報や感動は、それがたとえどんな上質なものであってもおやつなのです。
人生にはおやつが必要ですが、出来た血と肉があって初めておやつも美味しくいただけるわけで。
そして、たとえ質の悪いおやつを食べてしまっても、身体には影響がない程度には、
解毒できてしまうような体力、つまり
「こういう情報によってこの媒体はこういうことを訴えたいのだな」
と裏を見ぬける程度の一般知識を持っていたいものです。
つまり、人生の限られた時間、同じだけの時間があれば、
本を手に取った方がより物事の本質に近づける、だから本を読む、
という二者択一の問題です。
(この場合の本は、古典、名作のことです。エッセイやライトノベルなどはオヤツね)
無限に時間が許されているなら、勿論どちらも楽しむのですけれどね。
ところで、どんな本を読んでいるかということを人に尋ねられるのは、非常に気恥ずかしいものです。
自分の心の求めるところ、知りたいこと、
そういった触手のような「欲望」のさまを他人に見られることにつながるからでしょうか。
高校時代、休み時間に本を読んでいると、必ず黙って横に立ち、
いきなり本を持ちあげて表紙を見る奴がいました。
その日、クラスのお調子者、アオヤマくんがやってきたとき、
読んでいたのがアルベール・カミュの「異邦人」。
もし、こんな中二病な作品を読んでるのを他人に見られたら、恥ずかしくないですか?
今日ママンが死んだとかリンゴが刺さって腐り虫とか。
わたしの持っている本をぺらっとめくって、タイトルを覗きこんで、
アオヤマ「・・・・・・(・・)シーン」
エリス中尉「・・・・・・・・・・・」
アオヤマ、何も言わずにその場を去ってしまいました。
皆さん、今までこういう行為を人にしたことのある人はいませんね?
もしいたら、あなたはその相手に
「わざわざ見るなら何か一言くらいコメントせんかーい!」
って心の中でいわれてると思います。