(巻末に続く)
菅野直伝説で、さんざん菅野大尉をネタにしてきましたが、今日は思いきって?
「大空のサムライ」より、台南空の皆さんを取り上げてみました。
好評ならまたシリーズ化します。
「大空のサムライ」を最初に読んだとき、たまたま同世代の男性と同席し、
「今こんなの読んでるんだけど」と本を見せたら
「ああ、これね。僕は中学生の時に読んだ」と言うので、
「へー、男の子って、やっぱりこういうのをその頃読むんだ」
と、今更のように感心したものです。
坂井三郎氏がアメリカで著者として認識されているところのSAMURAI!の改訂版が、
去年発売されました。
そのときアメリカにいたわたしは、大型書店「バーンズ&ノーブルス」の店頭にある
書籍検索をしていて、ついでにその再版された本についての評価を検索してみました。
本に寄せられた感想の中で特に心に残ったのが
「日本と戦っていた我々は、日本人は己を殺しロボットのように戦っていたと思いがちだが、
この本に見られるたくさんのエピソードのほとんどが我々にとって共感できる人間らしい者ばかりだった。
やはり彼らも同じ人間であるとの思いを強くした」
といった意味の投稿でした。
マーティン・ケイディンによるSAMURAI!のエピソードの数々は、何度かご紹介してきたので覚えておられると思いますが、
坂井氏の記憶と、初版の「坂井三郎空戦記録」における逸話に、さらにケイディンなりの捏造、じゃなくて創作をふんだんに加えたことにより、より一層汎世界的な共感を呼び起こすに至りました。
もし、なんの加工もなく、何の創作もなく、事実を事実のままで本にしていたら、
現代にいたるまで再版を繰り返すに至るほどのロングセラーになっていたかどうか。
それは日本国内ですら同じ問いに同じ答えが出せるものと思われます。
戦後、史実の記録を目的に、元軍人が大戦を振り返り本を記しています。
しかし、戦況や作戦のそれぞれを振り返るものがほとんどで、
登場人物のエピソードに、笑い、泣き、手に汗握る「面白い読み物」はありませんでした。
大空のサムライは「コロンブスの卵」だったのです。
そこに生き、死んでいった戦士たちがまた血の通った一人ひとりの人間であることを、
心から感情移入できる「戦史」は、これが初めてだったのだと思われます。
それに続く「零戦ブーム」は、明らかにこの「戦記エンターテイメント」を皆が、
日本人のみならず世界の人々が歓迎したということであり、
そう言った意味でこの本の果たした役割は大きかったと言えるのではないでしょうか。
しかし、有名になり熱狂する者がいれば、必ずそれに疑問を投げかける者も出てきます。
「物語」として人口に膾炙したエピソードを
「本当にあったのか、だとしたらそれはいつのことか」
と検証する人たちです。
坂井氏は著名人となってからというもの、この「検証マニア」と言うべき人々にかなり悩まされたようです。
碇義武氏著の「大空のサムライ 研究読本」によると
「いままでも部分的にマチガイを指摘してくる人もいましたが、
鬼の首でも取ったような態度が煩わしく、すべて無視していました」
とのこと。
・・・・・お察しいたします。
いますよね。鬼の首を取ったように人のあれこれを書く人。
そして、信憑性の問題から、本そのものの価値に至るまで難癖をつけ、
さらには戦後の坂井氏の生きざまや海軍内の噂から徹底的に本人を貶めようとするに至っては、
有名になったから引きずりおろす、という程度の低いバッシングにしか思えません。
どんな人間も白か黒かの二元でその本質を論じることはできるものではありませんし、
何らかの形で有名になってしまった人間については特にそうでしょう。
しかし、己を振り返るだけでも、人間とは矛盾に満ちたものであることは明白でしょうに、
「大空」で有名になったというだけで、坂井氏を善か悪かで論じる人々は、少し胸に手を当てて
自分自身が「善か悪か」で評価でき得るものかどうか試してみてはいかがでしょうか。
台南空の行動調書と「サムライ」は一致しないのがほとんどで、わたくしも以前
「敵基地上宙返りは本当だったのか」
という疑問を呈してみましたが、その理由が行動調書に該当する日がない、というものでした。
(その後、坂井氏の言う5月15日ではなく、
5月26日、5月27日、5月29日、6月16日のどれかに可能性があることも分かってきたのですが)
まあ、何が言いたいかと言うと、大空のサムライとはあくまでエンターテイメント戦記であり、
歴史的資料ではないということです。
最初に読んだときにはその虚構性に全く気付きませんでした。
そこで終わってしまっていたとしても、別に何の問題もなかったのでしょうが、
何の因果かその後、本や資料、現物や展示、あらゆる海軍的なものに触れる中で、
わたしは何度も折にふれては「大空のサムライ」に帰って行きました。
帰って行くたび、その意味やその価値が私にとって変遷していくのを感じます。
読み手の立っている位置がどこであっても、その位置なりの価値を見出すことができるのです。
虚構性に十分気づいたうえで読んだとしても、なおかつそこには、アメリカ人が見出し得るような、
生き生きとしたドラマがあり、若者の青春があり、
生と死の交錯する戦場を生き抜いた坂井氏の証言には、
生きることの意味を考えさせられずにはいられない(あえて言うと)真実があるからこそ、
この本はこれだけ愛されてきたのでしょう。
いかなる検証も、たとえ坂井三郎という人物がどんな人間性であったとしても、
この本の汎世界的な娯楽性には何の影響もないであろうし、これからも「大空のサムライ」
は名著であり続けるだろうということです。
なんといっても、パロディのできる戦記って、他にありませんよね?
(例:本日画像)