ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「我敵艦ニ必中突入中」〜USS「ヘイゼルウッド」と特攻

2019-01-23 | 軍艦

メア・アイランド海軍工廠で撮られた駆逐艦「ヘイゼルウッド」の画像です。

画面に添えられたキャプチャでもお分かりのように、「ヘイゼルウッド」は
1945年4月29日、沖縄で特攻機の突入を受けて壊滅的な損傷を負いました。

この特攻機は同同日2事34分に鹿屋基地を発進した西口徳次海軍予備中尉の
零式艦上戦闘機であることが今日日米双方の記録から明らかになっています。

鹿屋基地には西口中尉の零戦から同5時34分に

「我敵艦に必中突入中」

と打電があったのを最後に通信が途絶えたため、これをもって
突入に成功したとされていたのが、戦後にアメリカ側の映像が公表され、
情報の称号の結果、事実と認定されました。

わたしが所有している特攻隊資料によると、西口中尉は大阪出身。
関西大学出身の13期卒で、第9剣武隊特攻隊員の一員として
菊水四号作戦に出撃し、沖縄北端120度60哩で戦死したとあります。

大正11年生まれの西口中尉は散華した時22〜3歳だったことになります。

 

「ヘイゼルウッド」は特攻機突入後ウルシーの基地に帰還し、
そこで応急手当を受けてから1ヶ月半かけて真珠湾に到着、
(6月14日)その後ここメア・アイランド海軍工廠で修復作業が行われました。

これが特攻機突入直後とされる「ヘイゼルウッド」の写真です。

「ヘイゼルウッド」は、1943年、サンフランシスコのベツレヘム造船所で建造され、
就役後すぐにタラワに展開、ウェーキ島の攻撃機動部隊に加わります。

その後スプルーアンス提督の指揮する第52機動部隊に加わり、クェゼリン、
ペリリュー、フィリピンと転戦を続けてきた彼女は、1942年10月20日、
レイテ湾において、初めて激しい日本軍の航空攻撃の洗礼を受けることになりました。

次の週からは、敵の空襲と、艦隊の動きが活発となります。

「帝国海軍がフィリピンからアメリカを追い払い、
制海権を得るために、
最終的だが無駄な努力をしたため」

と英語版のwikiにはいかにもアメリカ側の言いそうな言葉で
この辺の経緯が説明されています。


歴史的にはレイテ湾海戦として知られるこの戦いで、帝国海軍は3隻の戦艦、
4隻の空母、6隻の重巡洋艦、4隻の軽巡洋艦、9隻の駆逐艦、および、
多数の航空機を失い、事実上ほとんど壊滅することになります。

そして「ヘイゼルウッド」自身も、この時に少なくとも2隻の特攻機を
撃墜した、と記録されています。


その後彼女はレイテ湾に拠点を置いた哨戒に続き、
ウルシーでの訓練と砲撃に従事。

あのジョン・マケイン副提督(昨年亡くなったマケイン上院議員のお祖父ちゃん)
の空母打撃群の一員として攻撃に加わり、1945年1月3日から7日にかけて
琉球列島、台湾、沖縄、中国沿海部の大規模な空襲を行なっています。

その後2月19日に始まった硫黄島の上陸を支援するために南に向かった彼女は、
日本軍の特攻機などから絶え間なく攻撃を受け続けることになりますが、
無傷でここまで戦い続けました。

 

そしてレーダーピケット艦として沖縄に配置されていた
「ヘイゼルウッド」の所属する空母部隊が、低い雲から突如現れた
特攻機部隊に襲われることになる、運命の4月30日がやって来ます。

 
「ヘイゼルウッド」に搭載されていた全ての銃が、一斉に火を噴きました。
かろうじて2機を撃ち落としましたが、雲間から現れた3機目の零戦が、
唸りをあげながら艦尾に向かって突っ込んで来ました。
 
一斉射撃の銃弾を機体に受けながらも、特攻機は構造を保ったまま、
「ヘイゼルウッド」の左舷の第二煙突に突入、激突して爆発しました。

マストが衝撃で倒れ、前方に搭載された銃座を押しつぶした時、
デッキとバルクヘッドに飛散したガソリンが炎上し火災が発生しました。
 
この攻撃で、わかっているだけで司令官を含む10名の士官と
67名の下士官兵が瞬時に死亡し、36名が行方不明、つまり
遺体すら見つからなかったといわれています。
 
3機目の零戦が機銃掃射をしながら突入して来た、という目撃証言から、
戦後、突入したのは機銃掃射が可能だった西口中尉の機と特定されることになりました。
 
「ヘイゼルウッド」ではこの攻撃によって、瞬時に、艦長はじめ
上層部が全滅してしまったため、今や最先任となった予備士官の機関中尉
C.M. ロックが指揮を執ることを余儀なくされます。
 
彼は負傷者の救出とダメージコントロールを乗組員に指示し、
「ヘイゼルウッド」を5月5日、ウルシーに帰還させるために
粉骨砕身の奮闘を行いました。
 
 
説明にはAAguns(アンタイ・エアクラフトガン、対空砲)
も、特攻の攻撃によってなぎ倒された、とあります。
 
この時予備士官だったロック中尉と、同じく予備士官のリーガス中尉は、
二人で兵員を指揮して1時間半後に火事を消し止めることに成功。
同じ機動部隊の他の艦が、5本の消火ホースで周りから水をかけ、
支援したことも消火につながりました。
 
ところで、この写真とその上の写真、上部構造物の一部に
「目隠し」がかけられていますが、当時の海軍工廠で撮られた写真なので、
おそらくレーダーのアンテナが機密扱いされていたのではないかと思われます。

さらにここメア・アイランド工廠で最終的な修復を受けるために、
「ヘイゼルウッド」は上部構造物を取り払ったまま太平洋を運ばれました。

写真は修復で構造物を積んでいるところ。
現地の説明によると、

「太平洋から日本軍を追い払うために必要とされていた彼女は
1日も早く一線に復帰するために40万のマン・アワー
(一人1時間あたりの仕事量、つまり述べ40万時間分の労働)
と、総労働者のうち60パーセントに熟練の技術者を投じた修復作業を施され、
元の姿に戻されました。

これもアメリカ海軍の公式写真です。

細部を見ると、甲板で作業に当たっている水兵の姿が見えますが、
修復が終了した「ヘイゼルウッド」の姿だと思われます。

 

ところで、「ヘイゼルウッド」に突入した特攻機が
西口中尉のものであると特定された、という記事が
産経新聞に掲載されたのは今年の5月のことでした。


「我敵艦に必中突入中」打電後、米駆逐艦が大破炎上 
米の映像で特攻の最期特定 京都の慰霊祭で上映

という見出しで、次のような記事でした。

鹿児島県の鹿屋基地から零式艦上戦闘機で出撃した特攻隊員の
西口徳次中尉=当時(23)=が1945年4月、
沖縄近海で米軍の駆逐艦ヘイゼルウッドに突入した直後に同艦が大破、
炎上している状況を記録した約2分半の映像が見つかった。

27日、京都市内で開かれた慰霊祭で上映され、
遺族らが73年を経て最期の様子を目にした。

西口中尉の妹前田かよ子さん(80)=兵庫県芦屋市=は

「まさか今になって見られるとは。見つけてくださりありがたい」

と見入った。

遺族から依頼を受けた大分県宇佐市の市民団体
「豊の国宇佐市塾」が、米国立公文書館で映像と関連資料を発見。
遺族が持っていた旧海軍の出撃に関する記録と照合し、一致した。

調査した同塾の織田祐輔さん(31)は

「旧日本軍の記録は処分されたものも多く、日米双方の記録から
特攻隊員の最期を特定できた珍しい事例だ」

としている。

映像はモノクロで、救難するため駆け付けた米艦船から
従軍カメラマンが撮影したとみられる。
攻撃を受けたヘイゼルウッドが煙と炎を上げ漂流する様子や、
消火活動に当たる場面を記録。
艦橋部分は大破し、甲板上で走り回る乗組員の姿も捉えていた。

西口中尉のゼロ戦の残骸は確認できなかった。

 

検索してみたのですが、その映像はまだyoutubeにはあがっていません。

西口中尉は大阪市出身で43年9月に13期海軍飛行予備学生、
つまり学生出身の飛行士官に任官しました。

戦死した45年にはもう中尉に進級していたわけで、
この「スピード出世」は当時の戦況の厳しさを思わせます。

西口中尉が出撃したのは神雷特攻隊。

もちろん「神風特攻隊」ではないのですが、アメリカでは
特攻隊イコール「カミカゼ」なので、正式な文書でもそう記してあります。

特攻戦死後、西口中尉は慣例に従い、海軍少佐に昇進しました。


産経新聞にはフィルムを鑑賞した西口少佐の遺族について、
以下のように書かれています。

これまで知っていたのは、兄が沖縄近海で特攻を試みたという事実のみ。
3人の妹は、西口徳次中尉の特攻で炎を上げる米艦船の映像を
固唾をのんで見守った。

「ぶつかったとき、どんな気持ちやったろか」。

兄の最期に思いをはせ、涙があふれ出た。

9人兄妹の長男だった西口中尉は、勉強熱心で几帳面な青年だった。
親に内緒で海軍に志願し

「僕が死んでも、良くやったと褒めてください」

と家を出た。
帰ってきたのは、名前の書かれた紙が入った箱だけだった。

幼かった一番下の妹杉山智恵子さん(75)=大阪府寝屋川市=は、
兄の記憶がほとんどない。ただ、亡くなった母が

『厳しく育てすぎた。かわいそうなことをした』

と泣いていたのが、忘れられなかった。

兄のことを知りたいと考え、数年前、厚生労働省や
鹿屋航空基地史料館に問い合わせ、特攻時に打った
モールス信号の記録などが見つかった。
今回、米側の資料と結び付き、突入した艦の映像が特定できた。

強くハンカチを握りしめながら映像を見た三女西口さよ子さん(78)は

「いつも兄を思い出して、負けたらあかん、と自分を奮い立たせていた。
最期が見られて良かった」

としみじみと話した。

 

流石に産経新聞だけあって、朝日毎日新聞なら間違いなく

「若い人が兄のような目にあうような戦争は二度としてはならない」
と訴え、アジア諸国との摩擦が絶えない現状で、歴史的な反省もないまま
戦争ができる国になりつつある今の日本に
強い懸念を表明した。

とかいう結論に落とし込みそうですが、遺族の言葉も
おそらくあまり加工せずに、そのまま記事にしているようです。

 

莫大な費用と人員を投入して渾身の修復をここメア・アイランドで
行い、ほぼ元の姿に戻された「ヘイゼルウッド」ですが、
修復を行っている間におそらく終戦を迎えることになったのでしょう。

戦線に復帰することなく、そのままリザーブ・フリートと呼ばれる
予備役艦隊の仲間入りをすることになり、1946年から5年間、
サンディエゴでモスボール保存されていました。

1951年、彼女は朝鮮戦争の開始に伴い再就役で現役復帰します。

そのため、かつて死闘を繰り広げた国、日本に向かい、
そこから韓国沿岸の哨戒任務に就くことになりました。

 

昔当ブログで駆逐艦「JPケネディ」について書いたとき、
「ケネディ」が搭載していた無人ドローンへりのDASHの動画を
紹介したことがあるのですが、それは他ならぬ「ヘイゼルウッド」の映像です。

Drone Anti-submarine (DASH) helicopter on the deck of USS Hazelwood (DD-531)

懐かしいので?もう一度貼っておきます。

「ヘイゼルウッド」はキューバ危機の時には支援艦として参加していますし、
1963年、潜水艦「スレッシャー」が沈没するという痛ましい事故の後には
事故海面に展開し、研究者とともに事故原因の究明に当たるなど、
65年に再び予備艦隊入りするまでフルで活躍を続けました。

そして、第二次世界大戦中、実に10個のサービス・スターを受けています。

 

ところで、西口少佐が最後に打電した言葉に、わたしは思いを致さずには要られません。

「我敵艦に必中突入中」

ぶつかった時どんな気持ちやったやろか、と遺族が常に想像するところの
最後の瞬間、この一言から想像する限り、彼は自分の特攻が成功することを
もはや確信し、達成感に高揚していたと考えられます。

自分の生がわずか23年で終わること、死への本能的な恐怖、家族への想い、
出撃まで苛まれていたに違いないそれらの苦悩はその時全てかき消え、
至福のうちに西口少佐は現世の門をくぐって逝かれたのではないか。

不遜といわれようが、わたしはそうであったことを寧ろ祈っています。